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ハデスの瞳は薄い翠色をしている。中心に榛が混じって、それが奥深く神秘的に見える。

初めて会った日に、アリアドネはハデスの瞳をとても美しいと思った。
深い森の奥にある湖。その深淵を覗き込んだらこんな色に見えるのだろうか。


王族に侍る側近候補とその婚約者として、共に行動する時間は多い。けれども、それは単に同じ場に存在すると言うことで、心の交流を伴う事ではなかった。
こんな風に向き合って視線が合うこともない。

榛の混じる翠の瞳がアリアドネを映している。

伴奏が始まった。ワルツである。

ハデスが一歩踏み込むのに合わせてアリアドネが半歩下がる。そこから滑らかな動作でナチュラルターン。もう一度ターン。この時ハデスが支えるのに任せてアリアドネが背を反らす。その流れるラインが生み出す様が美しく、初々しいカップルのダンスは観衆の目を惹きつけた。

シャッセ、クイック、スローアウェイから華を添えるオーバースウェイ。アリアドネが最も美しく見える様にハデスが誘う。

アリアドネは知らない。黒髪の令嬢がダンスの名手と名高く、その秘めた美しさが開花する舞台が人々の憧憬と歓心を引いていることを。


ワルツは踊りながら会話を楽しめる。
ちらりと見えたフランシス殿下とアンネマリーも、その表情から会話を楽しんでいるらしい。

「寸法が合っていないじゃないか。」

ハデスの肩越しに高貴な二人を見ていたアリアドネの耳に低い声が届く。
侯爵令嬢アリアドネは、公の場に於いて多少の事では動揺を表さない。表さないけれど動揺はする。

頑張れアリアドネ、負けるなアリアドネ。俯いては駄目よ。
真っ白になる頭を叱咤して、アリアドネはダンスを終えた。

太ったつもりは無かったのに、ドレスはキツくなっていた。そうしてそれはたった今、ハデスにバレた。
こんな美しいドレスを贈ってもらって肥えましたとは言えなかった。ここまで上手く誤魔化せていたつもりだったのに。


「アリアドネ、どうしたの顔が青いわよ?」

パトリシアに声を掛けられて、アリアドネは正気に返った。ダンスは終わり、今はホールから離れた位置にいて歓談するアンネマリーを見守っているところであった。

ハデスはとっくにフランシスの側に戻ってその背後に控えている。

「あれは空耳だったのかしら。」
「え?何が?」
「ああ、いえ、何でもないの。」

取り敢えず大仕事は終わったと、給仕から冷えたシャンパンを貰う。

「美味しい。」
労働の後の酒は旨い。

「ちょっと、アリアドネ、」

その時であった。
パトリシアの険を含んだ声に呼ばれたと同時に、

「フランシス殿下、どうか私と踊って下さいませ。」

聞き覚えのある鈴の音。
大きな声では無いのだが、何故か人の耳を奪う。

「え。パトリシア、あれって、」
「行きましょう、アリアドネ。」


パトリシアに手を取られて、アンネマリーの元へ急ぐ。
既にギルバートとヴィクトリアが殿下とアンネマリーの前に出ている。
近衛騎士にも警戒の空気が感じられた。

「あの、私、殿下に踊って頂きたくて、」

出た!全然秘密じゃない秘密兵器!大きなお目々のうるうる攻撃!

アリアドネは心の底から驚いた。
どれほど強い心臓の持ち主なのだろう。ここは学園ではない。正真正銘王城で、国中の貴族が集まっている。そこでこんな大胆な行動を。いえ、大胆などでは無いわ、愚行よ愚行!

こんなに大勢の貴族達で犇めいているのに、一瞬その場が無音になったと思ったら、ひそひそ潜めく声があちらこちらから聴こえて来る。

ほら貴女、そんなところに居ては駄目よ、早く謝罪なさい、そうしてとっととお逃げなさい。でなければ貴女、家ごと貴族達に喰われるわよ!

強力な糸電話が有ったなら、アリアドネはふわ髪のファニー嬢に知らせたかった。
それより何より、貴女一体何しているの?!

王城での夜会や舞踏会にダンスは当然付き物である。王子だって貴族婦人と踊る事はあるのだが、それは人選ありきの事であって、それから作法とマナーがあるのを、それらをみーんなすっ飛ばして、この栗鼠、違ったふわふわファニーは真逆の直談判に打って出た。

「あの、すみませんっ、私、不慣れで。またアンネマリー様を怒らせてしまいました。」

ファニーは、どうやら頭の中もふわふわであったらしい。
この場の何処からアンネマリーの名が出るのか。
けれども遠くで見守る貴族らには、確実にアンネマリーから何かされたと思わせるには十分な効果を発揮しただろう。




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