29 / 32
【29】
しおりを挟む
結局のところ、スタンリー伯爵家との話し合いは、アデレードに対して今後アナベルへの一切の接近を禁ずる事で手打ちとされた。金銭的な賠償をデイビッドは求めなかった。
接近しないと一言で言っても、なかなか難しい事である。
なにせ、スタンリー伯爵家とは事業に於いても関わりがあれば、政(まつりごと)の派閥も同じくしていた。親世代からの付き合いであるし、デイビッドと伯爵とは嘗ての学友でもある。互いの夫人であるアデレードとアナベルが茶会や夜会で同席する場面は多い。
それを接近せずに済ますには、アデレードはアナベルを避けるが為に常にアナベルを注視し、アナベルの動行を視野に入れて行動せねばならなくなる。なかなか気の張る事であるし、何よりアナベルから逃げ続ける事が彼女のプライドを痛く傷付ける事は確かである。
金銭での賠償は、一時の負担はあれどその時限りで終結するが、デイビッドの選んだ手段は長期に渡ってアデレードの行動を規制するものであった。果たしてアデレードにとっては、どちらが苦しいか。
事の顛末を聞いて、アナベルは漸くほっと肩の力を抜いた。
「もうそれでお仕舞いなのね?」
「ああ、これで仕舞いだ。」
「有難うございます。」
手数を掛けてしまった事を詫びれば、
「お気になさらず、宣伝頭殿。」
と、からかわれてしまった。
どうやらドレスの評判が良いらしい。
デイビッドの商会には、例の生地を使った来シーズンのドレスの仕立てについて、ご婦人らからの問い合わせが増えていると云う。
「お役に立てて?」
「満点だよ。」
だけど、とデイビッドが続ける。
「もう無茶はしないでくれ。それから、誰の前にも胸は開いてはいけないよ。」
開いて良いのは私だけだからね、そう言いながら夜着の合わせを開く不埒な夫であった。
「大変だったわね。」
「ええ。旦那様が後始末をして下さったわ。」
アナベルは今日、生家の離れを訪っていた。生憎、マーガレットは学園に通って不在であったが、エミリアとはあの夜会ぶりであった。
姉達が言うのは、夜会でのアデレードとの一件である。心配するも落ち着くまでは、と遠慮をしていたのだろう。
大勢の貴族たちの眼前での出来事であったから、デイビッドとアデレードの過去もあって衆目を集めた事だろう。
同じ夜会に出席していた両親に姉夫婦も、噂の矢面に立たされて大変であった筈である。
それも、例の「グレイ伯爵家の戦闘服ドレス」のお蔭で醜聞にならずに済んだ。
一方のアデレードは、年若の新妻に対して身勝手で無礼な振る舞いが非常識であると、人々の口の端に上っているらしい。
姉の話によれば、あれから社交の席では、とんと見掛けていないという。アナベルにとっては、そんなの知ったことでは無い話しである。
心配しているのか人の噂が気になるのか、母からはどうなっているのかと問う文が届いていたが、全てデイビッドに任せてあると返せば、それから再び文が来ることは無かった。
次姉のアリシアは、件の夜会には参加していなかったが、彼女も別の茶会や夜会でその件についてを聞かれていたという。
それと合わせて、例のドレスについても。
グレイ伯爵家の商会では、いつ頃売り出されるのかと聞く御婦人は一人二人では無かったらしい。
「旦那様が、お姉様方にも是非ともお仕立てしたいと仰っていたわ。」
「流石はデキる男は違うわね。」
エミリアの言葉にアリシアが頷く。
「お母様は、どうやらそこも気になっているご様子よ。今日も何故本邸を訪わないのかと不満を漏らしていたわ。」
デイビッドと婚姻してから、両親はアナベルをデイビッドとを繋ぐ車輪か何かだと思うらしく、頻繁に文を送って来る様になっていた。
「そんな事よりお姉様。」
両親の事はそんな事呼ばわりで流したアナベルが、エミリアに問う。
「予定日を大分過ぎているけど、お身体は大丈夫なの?」
エミリアはもう産み月を迎えているのに、一向にその気配が無い。
医師も毎日往診するも、出ないものは出ない。
焦っても仕方が無かろうと落ち着いているのはエミリアばかりで、両親も夫君も皆そわそわと落ち着かない。
今日アナベルが訪ったのも、黙って自邸におられず、姉の元気な様子を確かめたかったからである。
そこでアリシアがとんでも無い発言をした。
「御婦人方の噂なのだけれど。」
そう前置きをしてアリシアは、
「夫君と致せばよろしいらしいわ。赤子に催促をするのよ。」と、爆弾発言を投下した。
まともに被弾したアナベルの顔は真っ赤っかである。
ところがエミリアは、
「まあ。」と、常と変わらぬ落ち着いた返しをした。
果たしてエミリアが噂の行為を成したのかは分からない。
けれども、姉達との会合の翌々日、エミリアは頗る元気な女児を出産した。
お産が始まったとの知らせを受けて駆けつけたアナベルは、父が孫娘の誕生に不用意な溜息など付こうものなら向こう脛を蹴り飛ばしてやろうと構えていたが、父は予想に反して男泣きに泣いた。
余りに泣くものだから、婿殿は些か遠慮気味に目を潤ませるに留めたのであった。
接近しないと一言で言っても、なかなか難しい事である。
なにせ、スタンリー伯爵家とは事業に於いても関わりがあれば、政(まつりごと)の派閥も同じくしていた。親世代からの付き合いであるし、デイビッドと伯爵とは嘗ての学友でもある。互いの夫人であるアデレードとアナベルが茶会や夜会で同席する場面は多い。
それを接近せずに済ますには、アデレードはアナベルを避けるが為に常にアナベルを注視し、アナベルの動行を視野に入れて行動せねばならなくなる。なかなか気の張る事であるし、何よりアナベルから逃げ続ける事が彼女のプライドを痛く傷付ける事は確かである。
金銭での賠償は、一時の負担はあれどその時限りで終結するが、デイビッドの選んだ手段は長期に渡ってアデレードの行動を規制するものであった。果たしてアデレードにとっては、どちらが苦しいか。
事の顛末を聞いて、アナベルは漸くほっと肩の力を抜いた。
「もうそれでお仕舞いなのね?」
「ああ、これで仕舞いだ。」
「有難うございます。」
手数を掛けてしまった事を詫びれば、
「お気になさらず、宣伝頭殿。」
と、からかわれてしまった。
どうやらドレスの評判が良いらしい。
デイビッドの商会には、例の生地を使った来シーズンのドレスの仕立てについて、ご婦人らからの問い合わせが増えていると云う。
「お役に立てて?」
「満点だよ。」
だけど、とデイビッドが続ける。
「もう無茶はしないでくれ。それから、誰の前にも胸は開いてはいけないよ。」
開いて良いのは私だけだからね、そう言いながら夜着の合わせを開く不埒な夫であった。
「大変だったわね。」
「ええ。旦那様が後始末をして下さったわ。」
アナベルは今日、生家の離れを訪っていた。生憎、マーガレットは学園に通って不在であったが、エミリアとはあの夜会ぶりであった。
姉達が言うのは、夜会でのアデレードとの一件である。心配するも落ち着くまでは、と遠慮をしていたのだろう。
大勢の貴族たちの眼前での出来事であったから、デイビッドとアデレードの過去もあって衆目を集めた事だろう。
同じ夜会に出席していた両親に姉夫婦も、噂の矢面に立たされて大変であった筈である。
それも、例の「グレイ伯爵家の戦闘服ドレス」のお蔭で醜聞にならずに済んだ。
一方のアデレードは、年若の新妻に対して身勝手で無礼な振る舞いが非常識であると、人々の口の端に上っているらしい。
姉の話によれば、あれから社交の席では、とんと見掛けていないという。アナベルにとっては、そんなの知ったことでは無い話しである。
心配しているのか人の噂が気になるのか、母からはどうなっているのかと問う文が届いていたが、全てデイビッドに任せてあると返せば、それから再び文が来ることは無かった。
次姉のアリシアは、件の夜会には参加していなかったが、彼女も別の茶会や夜会でその件についてを聞かれていたという。
それと合わせて、例のドレスについても。
グレイ伯爵家の商会では、いつ頃売り出されるのかと聞く御婦人は一人二人では無かったらしい。
「旦那様が、お姉様方にも是非ともお仕立てしたいと仰っていたわ。」
「流石はデキる男は違うわね。」
エミリアの言葉にアリシアが頷く。
「お母様は、どうやらそこも気になっているご様子よ。今日も何故本邸を訪わないのかと不満を漏らしていたわ。」
デイビッドと婚姻してから、両親はアナベルをデイビッドとを繋ぐ車輪か何かだと思うらしく、頻繁に文を送って来る様になっていた。
「そんな事よりお姉様。」
両親の事はそんな事呼ばわりで流したアナベルが、エミリアに問う。
「予定日を大分過ぎているけど、お身体は大丈夫なの?」
エミリアはもう産み月を迎えているのに、一向にその気配が無い。
医師も毎日往診するも、出ないものは出ない。
焦っても仕方が無かろうと落ち着いているのはエミリアばかりで、両親も夫君も皆そわそわと落ち着かない。
今日アナベルが訪ったのも、黙って自邸におられず、姉の元気な様子を確かめたかったからである。
そこでアリシアがとんでも無い発言をした。
「御婦人方の噂なのだけれど。」
そう前置きをしてアリシアは、
「夫君と致せばよろしいらしいわ。赤子に催促をするのよ。」と、爆弾発言を投下した。
まともに被弾したアナベルの顔は真っ赤っかである。
ところがエミリアは、
「まあ。」と、常と変わらぬ落ち着いた返しをした。
果たしてエミリアが噂の行為を成したのかは分からない。
けれども、姉達との会合の翌々日、エミリアは頗る元気な女児を出産した。
お産が始まったとの知らせを受けて駆けつけたアナベルは、父が孫娘の誕生に不用意な溜息など付こうものなら向こう脛を蹴り飛ばしてやろうと構えていたが、父は予想に反して男泣きに泣いた。
余りに泣くものだから、婿殿は些か遠慮気味に目を潤ませるに留めたのであった。
2,480
お気に入りに追加
2,732
あなたにおすすめの小説
婚約者を想うのをやめました
かぐや
恋愛
女性を侍らしてばかりの婚約者に私は宣言した。
「もうあなたを愛するのをやめますので、どうぞご自由に」
最初は婚約者も頷くが、彼女が自分の側にいることがなくなってから初めて色々なことに気づき始める。
*書籍化しました。応援してくださった読者様、ありがとうございます。
国王陛下、私のことは忘れて幸せになって下さい。
ひかり芽衣
恋愛
同じ年で幼馴染のシュイルツとアンウェイは、小さい頃から将来は国王・王妃となり国を治め、国民の幸せを守り続ける誓いを立て教育を受けて来た。
即位後、穏やかな生活を送っていた2人だったが、婚姻5年が経っても子宝に恵まれなかった。
そこで、跡継ぎを作る為に側室を迎え入れることとなるが、この側室ができた人間だったのだ。
国の未来と皆の幸せを願い、王妃は身を引くことを決意する。
⭐︎2人の恋の行く末をどうぞ一緒に見守って下さいませ⭐︎
※初執筆&投稿で拙い点があるとは思いますが頑張ります!
【完結】貴方が好きなのはあくまでも私のお姉様
すだもみぢ
恋愛
伯爵令嬢であるカリンは、隣の辺境伯の息子であるデュークが苦手だった。
彼の悪戯にひどく泣かされたことがあったから。
そんな彼が成長し、年の離れたカリンの姉、ヨーランダと付き合い始めてから彼は変わっていく。
ヨーランダは世紀の淑女と呼ばれた女性。
彼女の元でどんどんと洗練され、魅力に満ちていくデュークをカリンは傍らから見ていることしかできなかった。
しかしヨーランダはデュークではなく他の人を選び、結婚してしまう。
それからしばらくして、カリンの元にデュークから結婚の申し込みが届く。
私はお姉さまの代わりでしょうか。
貴方が私に優しくすればするほど悲しくなるし、みじめな気持ちになるのに……。
そう思いつつも、彼を思う気持ちは抑えられなくなっていく。
8/21 MAGI様より表紙イラストを、9/24にはMAGI様の作曲された
この小説のイメージソング「意味のない空」をいただきました。
https://www.youtube.com/watch?v=L6C92gMQ_gE
MAGI様、ありがとうございます!
イメージが広がりますので聞きながらお話を読んでくださると嬉しいです。
彼女の光と声を奪った俺が出来ること
jun
恋愛
アーリアが毒を飲んだと聞かされたのは、キャリーを抱いた翌日。
キャリーを好きだったわけではない。勝手に横にいただけだ。既に処女ではないから最後に抱いてくれと言われたから抱いただけだ。
気付けば婚約は解消されて、アーリアはいなくなり、愛妾と勝手に噂されたキャリーしか残らなかった。
*1日1話、12時投稿となります。初回だけ2話投稿します。
夫を愛することはやめました。
杉本凪咲
恋愛
私はただ夫に好かれたかった。毎日多くの時間をかけて丹念に化粧を施し、豊富な教養も身につけた。しかし夫は私を愛することはなく、別の女性へと愛を向けた。夫と彼女の不倫現場を目撃した時、私は強いショックを受けて、自分が隣国の王女であった時の記憶が蘇る。それを知った夫は手のひらを返したように愛を囁くが、もう既に彼への愛は尽きていた。
頑張らない政略結婚
ひろか
恋愛
「これは政略結婚だ。私は君を愛することはないし、触れる気もない」
結婚式の直前、夫となるセルシオ様からの言葉です。
好きにしろと、君も愛人をつくれと。君も、もって言いましたわ。
ええ、好きにしますわ、私も愛する人を想い続けますわ!
五話完結、毎日更新
殿下、側妃とお幸せに! 正妃をやめたら溺愛されました
まるねこ
恋愛
旧題:お飾り妃になってしまいました
第15回アルファポリス恋愛大賞で奨励賞を頂きました⭐︎読者の皆様お読み頂きありがとうございます!
結婚式1月前に突然告白される。相手は男爵令嬢ですか、婚約破棄ですね。分かりました。えっ?違うの?嫌です。お飾り妃なんてなりたくありません。
「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。
あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。
「君の為の時間は取れない」と。
それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。
そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。
旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。
あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。
そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。
※35〜37話くらいで終わります。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる