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【20】
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邸の門扉が見えてくると、セドリックが懐から櫛を取り出した。
「失礼致します。」
一言断りを言ってから、ジョージが荒く整えた髪を櫛で梳き直す。
ハンカチで目元と何故か口元を拭われ、そうして
「そのままお部屋へお戻り下さい。お着替えもなさって下さい。」と言われた。
馬車を降りると、いつもはエリザベスの後ろに控えるのを、今日は前になって進んで行く。
出迎えた執事と侍女頭を手で制すると、そのまま二人は道を譲るように脇に除けた。
言われた通りに自室までセドリックに先導されて歩く。
自室に着く前に、途中にいた侍女に声を掛けセドリックが何かを指示をする。それからそのまま部屋まで戻った。
驚いたのは、まだ晩餐前ではあるのに侍女達が湯浴みの支度を始めた事である。
身支度は一人で出来るが、湯を張るのは侍女に頼んでいる。
大体が晩餐を終えてからであるのに、今日はその前に支度をされている。
先程セドリックが指示をしていたのは、湯の用意であったらしい。
「ご令息は帝国の香りをお使いですから。」
暗に、ジョージの香りが身体に残っているのを、洗い清めるようにと言われたようで、頬に熱が籠もるのが分かった。
「何も心配無い」と言ったエリザベスの言葉を、セドリックは一言も信用していなかったらしい。髪まで清めてこいと言うような強い意志が伝わって、もうエリザベスは一言も返すことができなかった。
相変わらず姦しく朗らかな会話を弾ませている母と姉を横に、黙々と食事をするのは珍しくない事であったから、母も姉もエリザベスの様子には気付いていなかっただろう。
スプーンを一度落とした。
ナプキンも落とした。
フォークを間違えて、紅茶のミルクは溢れるところであった。
マナーの教師が見ていたら、きっと多分泣いただろう。
案の定、父に執務室へ呼ばれる事になってしまった。
何もなくても、呼ばれていただろうけれど。
影の様に侍るセドリックが眦を吊り上げて帰ってきたのだから。
最近度々訪う様になった父の執務室である。
今日も父はブランデーを楽しむらしい。
執事がエリザベスのグラスに蜂蜜を入れてくれる。
ソーダは?と聞かれて、このままで良いと答えると、ひとつ頷きそのまま部屋の脇へ控えた。
エリザベスが背を向ける壁側には、既にセドリックが控えている。
いつかの夜の様に、父がグラスを傾け僅かに揺らす。香りを楽しんでいるらしい。
それからひとくち口に含んで口内を転がしてからゆっくり飲み込んだ。
なんだかとっても美味しそう。
釣られてエリザベスも、そろりそろりとひとくち含む。
何故だろう。今日はなんだか美味しく感じる。蜂蜜を入れてもらったからか。鼻から抜けるアルコールを纏った空気が酔いを誘う。寒くなったらホットブランデーを飲んでみたい。
そんな事についつい思考を奪われていると、
「何があった?エリザベス。」
父がそう問うて来た。
大よその詳細は、既にセドリックから報告を受けているだろう。エリザベスが湯浴みをしていた頃には。
何を答えればよいのだろう。
実のところ、エリザベスにはまだ心の整理が出来ていない。自分でも何を考えてよいのか分からない。
く、口付け?口付けをした事?えっと、回数?
「んんっ」あり得ない事にセドリックが小さく咳を払った。思わず振り返りそうになるのを抑えて、そうだった、とても大切な事を言われたわ、と正気に返る。
とても大切な事を言われたのだわ。
どうしてこんな大切な事を忘れるのか、それ程に動揺しているのに気付いていない。
「妻になって欲しいと、」
誰からとも告げずそのままを答えると、
「そうか。」
父は、それだけ言って、もうひと口ブランデーを含んだ。それも味わった後で、
「分かった。」
そう言うと、後は静かに芳醇な香りの蒸留酒を楽しんでいた。
眦が下がって見えたのは酔いのせいか。
本当は、父には聞きたい事も話したい事も、幾つもあった。
妻に望まれて、それを受けて、果たして許されることなのか。
エリザベスはウィリアムとの婚約の解消を申し出た身で、ジョージはエレノアの願いから婚約していて、妻に欲しい妻になりたい、ただその思いだけで望みを通すなど出来うるのか。
共に次期侯爵家・伯爵家の当主であるのに、その二人が婚姻など、土台無理な話ではないか。
好きだからで済ませられない、貴族の婚姻と云う契約に逆らう事など出来るのだろうか。
姉とジョージの婚姻はどうなっているのか。
姉とウィリアムをどうするのか。
ジョージとエリザベスの婚姻を、姉は許してくれるのだろうか。
胸の内を靄(もや)のように埋め尽くす、不安も疑問も全て父に打ち明けて、答えを欲しいと思っていた。
けれども、心地よい夜のひとときを楽しむ父を見ている内に、もう今日はいい。考えるまい。そんな気持ちになってしまった。
おやすみなさいと挨拶をして、父の執務室を出る。
セドリックが灯りを持って少し前を歩き、部屋までの回廊を進んでゆく。
宵の闇に包まれる屋敷の中を、二人の足音が響く。
部屋の前でセドリックを振り返り、
「セドリック、有難う。」そう言えば、
「エリザベス様。何も案ずる事はございません。旦那様とジョージ様をお信じ下さい。」
セドリックは、暗闇の中のエリザベスに光を灯して導いてくれたのだった。
「失礼致します。」
一言断りを言ってから、ジョージが荒く整えた髪を櫛で梳き直す。
ハンカチで目元と何故か口元を拭われ、そうして
「そのままお部屋へお戻り下さい。お着替えもなさって下さい。」と言われた。
馬車を降りると、いつもはエリザベスの後ろに控えるのを、今日は前になって進んで行く。
出迎えた執事と侍女頭を手で制すると、そのまま二人は道を譲るように脇に除けた。
言われた通りに自室までセドリックに先導されて歩く。
自室に着く前に、途中にいた侍女に声を掛けセドリックが何かを指示をする。それからそのまま部屋まで戻った。
驚いたのは、まだ晩餐前ではあるのに侍女達が湯浴みの支度を始めた事である。
身支度は一人で出来るが、湯を張るのは侍女に頼んでいる。
大体が晩餐を終えてからであるのに、今日はその前に支度をされている。
先程セドリックが指示をしていたのは、湯の用意であったらしい。
「ご令息は帝国の香りをお使いですから。」
暗に、ジョージの香りが身体に残っているのを、洗い清めるようにと言われたようで、頬に熱が籠もるのが分かった。
「何も心配無い」と言ったエリザベスの言葉を、セドリックは一言も信用していなかったらしい。髪まで清めてこいと言うような強い意志が伝わって、もうエリザベスは一言も返すことができなかった。
相変わらず姦しく朗らかな会話を弾ませている母と姉を横に、黙々と食事をするのは珍しくない事であったから、母も姉もエリザベスの様子には気付いていなかっただろう。
スプーンを一度落とした。
ナプキンも落とした。
フォークを間違えて、紅茶のミルクは溢れるところであった。
マナーの教師が見ていたら、きっと多分泣いただろう。
案の定、父に執務室へ呼ばれる事になってしまった。
何もなくても、呼ばれていただろうけれど。
影の様に侍るセドリックが眦を吊り上げて帰ってきたのだから。
最近度々訪う様になった父の執務室である。
今日も父はブランデーを楽しむらしい。
執事がエリザベスのグラスに蜂蜜を入れてくれる。
ソーダは?と聞かれて、このままで良いと答えると、ひとつ頷きそのまま部屋の脇へ控えた。
エリザベスが背を向ける壁側には、既にセドリックが控えている。
いつかの夜の様に、父がグラスを傾け僅かに揺らす。香りを楽しんでいるらしい。
それからひとくち口に含んで口内を転がしてからゆっくり飲み込んだ。
なんだかとっても美味しそう。
釣られてエリザベスも、そろりそろりとひとくち含む。
何故だろう。今日はなんだか美味しく感じる。蜂蜜を入れてもらったからか。鼻から抜けるアルコールを纏った空気が酔いを誘う。寒くなったらホットブランデーを飲んでみたい。
そんな事についつい思考を奪われていると、
「何があった?エリザベス。」
父がそう問うて来た。
大よその詳細は、既にセドリックから報告を受けているだろう。エリザベスが湯浴みをしていた頃には。
何を答えればよいのだろう。
実のところ、エリザベスにはまだ心の整理が出来ていない。自分でも何を考えてよいのか分からない。
く、口付け?口付けをした事?えっと、回数?
「んんっ」あり得ない事にセドリックが小さく咳を払った。思わず振り返りそうになるのを抑えて、そうだった、とても大切な事を言われたわ、と正気に返る。
とても大切な事を言われたのだわ。
どうしてこんな大切な事を忘れるのか、それ程に動揺しているのに気付いていない。
「妻になって欲しいと、」
誰からとも告げずそのままを答えると、
「そうか。」
父は、それだけ言って、もうひと口ブランデーを含んだ。それも味わった後で、
「分かった。」
そう言うと、後は静かに芳醇な香りの蒸留酒を楽しんでいた。
眦が下がって見えたのは酔いのせいか。
本当は、父には聞きたい事も話したい事も、幾つもあった。
妻に望まれて、それを受けて、果たして許されることなのか。
エリザベスはウィリアムとの婚約の解消を申し出た身で、ジョージはエレノアの願いから婚約していて、妻に欲しい妻になりたい、ただその思いだけで望みを通すなど出来うるのか。
共に次期侯爵家・伯爵家の当主であるのに、その二人が婚姻など、土台無理な話ではないか。
好きだからで済ませられない、貴族の婚姻と云う契約に逆らう事など出来るのだろうか。
姉とジョージの婚姻はどうなっているのか。
姉とウィリアムをどうするのか。
ジョージとエリザベスの婚姻を、姉は許してくれるのだろうか。
胸の内を靄(もや)のように埋め尽くす、不安も疑問も全て父に打ち明けて、答えを欲しいと思っていた。
けれども、心地よい夜のひとときを楽しむ父を見ている内に、もう今日はいい。考えるまい。そんな気持ちになってしまった。
おやすみなさいと挨拶をして、父の執務室を出る。
セドリックが灯りを持って少し前を歩き、部屋までの回廊を進んでゆく。
宵の闇に包まれる屋敷の中を、二人の足音が響く。
部屋の前でセドリックを振り返り、
「セドリック、有難う。」そう言えば、
「エリザベス様。何も案ずる事はございません。旦那様とジョージ様をお信じ下さい。」
セドリックは、暗闇の中のエリザベスに光を灯して導いてくれたのだった。
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