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「君がこの話を受けてくれて嬉しいよ。」
榛の瞳は今日も穏やかな安心感に満ちている。
学園が休みのこの日、エリザベスはモーランド侯爵邸を訪れていた。
先日、父を通して齎された「共同事業」の詳細を聞く為である。
幼い頃は、父に連れられて日参していた邸である。平民であれば容易く歩いて行ける距離ではあるが、令嬢ではそうはいかない。本日も馬車で訪ってる。
懐かしい。
まるでこの家の子であると言っても分からぬ程、遊びに来ていた邸である。
まだ学園に入る前のことだ。ここで兄弟姉妹が侍女や護衛も合わせ大人数で姦しく騒いでいたのだ。
「懐かしい。」
おっと、独り言が。
「何年ぶり?」
独り言であるのに律儀に拾ってくれたジョージに聞かれて、指を折って数えてみる。
「もう五年も前ですわ。」
姉がジョージとの婚約を望み、エリザベスが後継者となったのが十二歳。その翌年にはジョージもエレノアも学園に入学したし、エリザベスは後継教育の海に放り込まれてあっぷあっぷと溺れていた。それ以後、この邸には訪れていない。
「そんなになるのか、それともそれしか経っていないのか。」
たった五年で自分も周囲も様変わりした。
そして五年経って、ジョージと事業を共にする。これが十年経ったらどうなってしまうのだろう。時が経つと云うのは恐ろしい。
共同事業とは、先日連れられたカフェの経営であった。只一店舗、試行で開いた店である。既に開業している上に、ジョージの手腕の賜物で大変な人気店になっている。そこの何処を今更共同で出来るのか甚だ疑問であるが。
「もう十分安定経営なさっていらっしゃるでしょう?」
「一人ではつまらない。君も一緒にどうかと思ってね。」
まるで一緒に遊ぼうと気安く誘うジョージの余裕に恐れ入る。
「私でお役に立つでしょうか?」
「エリザベス。」名を呼ばれて瞳を見つめゆる。
「一緒に楽しみたいんだよ。今だけだ、自由にやって失敗を恐れる必要も無い。」
それに、と続ける。
「女の子の好みって分からないんだよね。」
ええ、私も。
何せエリザベスは、令嬢の皮を被った経営者見習いである。暗色のワンピースに身を包んで書類とインクに塗(まみ)れている。
女の子の趣味なんて、さっぱり分からない。
「あのぉ、それはもしかしたら姉のほうが、」「私は君を誘ったんだよ。」
お洒落番長は貴方の婚約者の方ですよ、と教えたいのを遮られてしまった。
「私、女の子の事って全然分からないんです。」恥を忍んで言ってしまった。
「僕には十分可愛い女の子だけどね。」
僕って!可愛いって!
何処をツッコんで良いのか分からない。
「で、では、こんな不束者ですが、宜しくお願いします。」まるで新妻の挨拶になってしまうも仕様が無い。
宜しく、と手を差し出されて締結の握手をする。
大きな手だ。エリザベスの手よりも遥かに大きく骨太な手だ。その手に固く握手されて、温かな体温に安堵する。
この方は、何処もかしこも温かな方だわ。
自ずから口元が綻んで笑みが溢れた。その表情にジョージも同じ様に微笑んだ。
「ジョージ様。」
エリザベスはジョージに会ったら確認せねばと思っていた事について、尋ねてみた。
「この事は姉には「話さなくとも良いよ。」
皆まで言う前に遮られてしまった。
「ですが、」
「いいんだよ、大丈夫。君は何も心配せずとも良いよ。それに、彼女に話しても理解出来ない。」
え?ジョージ様、何を仰っているの?
姉はジョージの婚約者である。
妹とは云え、婚約者と事業を経営するのに断りも無いのは。後から姉の知るところとなったなら、きっと面白く無いだろう。
「君の父上にも了承を得ている。何か言われたらビジネスだと答えれば良い。それで彼女は引き下がるさ。」
「そうでしょうか...」
「そうだよ。」
そうなの?
何か消化し切れない気持ちの悪さが残ってしまうも、ジョージの目が「もうこの話は仕舞だ」と語っている。しかもちょっと怒ってる?
目で語れて目で怒れるなんて器用。
と思いながら、もうこれ以上ごねるのは得策では無いのだけは分かって、この話はこれ以上は無理と諦めた。
伯爵邸に戻ると、テラスで姉と母がお茶を楽しんでいた。
遠目に二人の姿を認めて、ジョージ様の言葉を思い出す。楽しそうな母娘に水を差したくない。
報告を兼ねて父に話すことにした。
「エレノアには話す必要は無いだろう。」
父もジョージ様と同じ事を言う。
「後から耳に入ったら、お姉様は不快な思いをなさるのでは?」
「あれの気持ちが果たしてそうなるのか、お前に分かるのか?」
「え?」
「人の気持ちと云うのは、必ずしも自分と同じとは限らない。喩え肉親であっても。」
「そうでしょうか。」
「エリザベス。」
「はい。」
「たまには自分を優先しても良いだろう。」
父の言葉に、色々絡まったまま固まっていたものが解れて瓦解して行く気がした。
与えられた人生の時間の中で、楽しんで良い。自分の事を優先して良い。
たった二つの事で、ぎゅうぎゅう詰めの心の荷を、一つまた一つと手放しているような気持ちになる。
最後に残った大切なものを胸に仕舞って、この先の人生を生きると云う、極々シンプルな答えに行き着いて、エリザベスは深く息が出来る気がした。
榛の瞳は今日も穏やかな安心感に満ちている。
学園が休みのこの日、エリザベスはモーランド侯爵邸を訪れていた。
先日、父を通して齎された「共同事業」の詳細を聞く為である。
幼い頃は、父に連れられて日参していた邸である。平民であれば容易く歩いて行ける距離ではあるが、令嬢ではそうはいかない。本日も馬車で訪ってる。
懐かしい。
まるでこの家の子であると言っても分からぬ程、遊びに来ていた邸である。
まだ学園に入る前のことだ。ここで兄弟姉妹が侍女や護衛も合わせ大人数で姦しく騒いでいたのだ。
「懐かしい。」
おっと、独り言が。
「何年ぶり?」
独り言であるのに律儀に拾ってくれたジョージに聞かれて、指を折って数えてみる。
「もう五年も前ですわ。」
姉がジョージとの婚約を望み、エリザベスが後継者となったのが十二歳。その翌年にはジョージもエレノアも学園に入学したし、エリザベスは後継教育の海に放り込まれてあっぷあっぷと溺れていた。それ以後、この邸には訪れていない。
「そんなになるのか、それともそれしか経っていないのか。」
たった五年で自分も周囲も様変わりした。
そして五年経って、ジョージと事業を共にする。これが十年経ったらどうなってしまうのだろう。時が経つと云うのは恐ろしい。
共同事業とは、先日連れられたカフェの経営であった。只一店舗、試行で開いた店である。既に開業している上に、ジョージの手腕の賜物で大変な人気店になっている。そこの何処を今更共同で出来るのか甚だ疑問であるが。
「もう十分安定経営なさっていらっしゃるでしょう?」
「一人ではつまらない。君も一緒にどうかと思ってね。」
まるで一緒に遊ぼうと気安く誘うジョージの余裕に恐れ入る。
「私でお役に立つでしょうか?」
「エリザベス。」名を呼ばれて瞳を見つめゆる。
「一緒に楽しみたいんだよ。今だけだ、自由にやって失敗を恐れる必要も無い。」
それに、と続ける。
「女の子の好みって分からないんだよね。」
ええ、私も。
何せエリザベスは、令嬢の皮を被った経営者見習いである。暗色のワンピースに身を包んで書類とインクに塗(まみ)れている。
女の子の趣味なんて、さっぱり分からない。
「あのぉ、それはもしかしたら姉のほうが、」「私は君を誘ったんだよ。」
お洒落番長は貴方の婚約者の方ですよ、と教えたいのを遮られてしまった。
「私、女の子の事って全然分からないんです。」恥を忍んで言ってしまった。
「僕には十分可愛い女の子だけどね。」
僕って!可愛いって!
何処をツッコんで良いのか分からない。
「で、では、こんな不束者ですが、宜しくお願いします。」まるで新妻の挨拶になってしまうも仕様が無い。
宜しく、と手を差し出されて締結の握手をする。
大きな手だ。エリザベスの手よりも遥かに大きく骨太な手だ。その手に固く握手されて、温かな体温に安堵する。
この方は、何処もかしこも温かな方だわ。
自ずから口元が綻んで笑みが溢れた。その表情にジョージも同じ様に微笑んだ。
「ジョージ様。」
エリザベスはジョージに会ったら確認せねばと思っていた事について、尋ねてみた。
「この事は姉には「話さなくとも良いよ。」
皆まで言う前に遮られてしまった。
「ですが、」
「いいんだよ、大丈夫。君は何も心配せずとも良いよ。それに、彼女に話しても理解出来ない。」
え?ジョージ様、何を仰っているの?
姉はジョージの婚約者である。
妹とは云え、婚約者と事業を経営するのに断りも無いのは。後から姉の知るところとなったなら、きっと面白く無いだろう。
「君の父上にも了承を得ている。何か言われたらビジネスだと答えれば良い。それで彼女は引き下がるさ。」
「そうでしょうか...」
「そうだよ。」
そうなの?
何か消化し切れない気持ちの悪さが残ってしまうも、ジョージの目が「もうこの話は仕舞だ」と語っている。しかもちょっと怒ってる?
目で語れて目で怒れるなんて器用。
と思いながら、もうこれ以上ごねるのは得策では無いのだけは分かって、この話はこれ以上は無理と諦めた。
伯爵邸に戻ると、テラスで姉と母がお茶を楽しんでいた。
遠目に二人の姿を認めて、ジョージ様の言葉を思い出す。楽しそうな母娘に水を差したくない。
報告を兼ねて父に話すことにした。
「エレノアには話す必要は無いだろう。」
父もジョージ様と同じ事を言う。
「後から耳に入ったら、お姉様は不快な思いをなさるのでは?」
「あれの気持ちが果たしてそうなるのか、お前に分かるのか?」
「え?」
「人の気持ちと云うのは、必ずしも自分と同じとは限らない。喩え肉親であっても。」
「そうでしょうか。」
「エリザベス。」
「はい。」
「たまには自分を優先しても良いだろう。」
父の言葉に、色々絡まったまま固まっていたものが解れて瓦解して行く気がした。
与えられた人生の時間の中で、楽しんで良い。自分の事を優先して良い。
たった二つの事で、ぎゅうぎゅう詰めの心の荷を、一つまた一つと手放しているような気持ちになる。
最後に残った大切なものを胸に仕舞って、この先の人生を生きると云う、極々シンプルな答えに行き着いて、エリザベスは深く息が出来る気がした。
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