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その話しは、父を通してエリザベスへ齎された。
晩餐の後に執務室へ来るように言われて侍従と共に訪えば、驚いた事に父自ら扉を開けてくれた。
「私と共同事業を?」
「ああ。是非にと仰っておられる。」
「ですが...」
エリザベスは戸惑いを隠せずにいる。それを察した父は、
「良い話だと思う。我が家とも侯爵家とも関わることは無いのだから、自由にやってみるといい。」
「ですが私は、」
「エリザベス。」
逡巡するエリザベスは、父に名を呼ばれて思わず面を上げた。
「お前に非は無い。いつまでも囚われる必要は無いんだ。」
「お父様。」
「やってみなさい。それで楽しければいいじゃないか。」
楽しければ良い。楽しんでも良いの?
エリザベスの心の動きを正しく読み取った父が頷いた。
このところ塞ぎがちであった心に温かなものが湧いて来るのを感じて、エリザベスは「はい。」と父に答えた。
父はもう一度、今度は目を細めて頷いた。
「ねえ、セドリック。私、出来るかしら。」
自室へ通ずる長い廊下を歩きながら、後ろに侍る侍従に話し掛ける。
「ええ、エリザベス様でしたら必ず。」
そう答えるセドリックは、元々父に付いていた侍従である。
十二の年にエリザベスが姉と代わって後継者に据えられてからこの五年、ずっとエリザベスに仕えている。
令嬢であるエリザベスには本来であれば侍女が付くのを、次期伯爵として教育を受けながら執務を執り行う為に、護衛も兼ねて父が自分の侍従を付けてくれた。
未だ三十には手が届かないであろうセドリックは、栗色の髪に黒い瞳の物静かな男である。
常に影のようにエリザベスに侍り、手となり足となってエリザベスを支えてくれている。この五年をエリザベスは彼と共に過ごして来た。セドリックは、エリザベスの顔色一つ見逃すことは無い。
邸にあっても孤独なエリザベスにとって、誰よりもエリザベスを知る男は、将来エリザベスが当主となった暁には、腹心の部下として伯爵家の為に仕えるのである。
姉がまだ後継を降りる前、姉には侍女が数人付けられてはいたが、セドリックの様な侍従は付いていなかった。父にどんな考えがあって、自らの部下をエリザベスに付けたのかは分からないが、セドリックがいてくれなければ、エリザベスはこの五年を乗り越える事は出来なかったかもしれない。
いつでもどんな些細なことでも、エリザベス以上にエリザベスを知るセドリックが頷いてくれるだけで「諾」と認められ勇気が湧いて来るのであった。
「有難う、セドリック。お話をお受けしてみるわ。」
セドリックが頷いた気配は見なくても分る。温かな視線が背に向けられているのを感じながら、エリザベスは自室に入った。
エリザベスは侍女を付けていない。
身支度は基本、自分でする。
平素は簡易なワンピースを着ており、髪も自分で整える。
広がりのあるデイドレスは裾が幅を取って執務に差し触る。椅子にも座りにくいし、何よりインクで汚れてしまう。
執務室を自由に歩き、書類を捌き、指先をインクで染めながら執務をとるのに、暗色のワンピースは都合が良い。何より脱着が容易い。
父に付いて外に出る時、客人を迎える時のみ、侍女に手伝ってもらいながらデイドレスに着替えるエリザベスは、平民の商家の娘より自分の事は自分で賄えるだろう。
そういう風に父は教育を施した。
令嬢とは名ばかりの、中身は純然たる成人貴族、実業家気質なのであった。
そのエリザベスに、ビジネスの誘いがあった。共同で事業経営してみないか。家には関わらない、個人として一緒にどうか。
それを父は楽しんでも良いと言ってくれた。
夜着に着替えて寝台に入っても、興奮が冷めやらない。
本当に良いのかしら。とても興味がある。楽しそうだわ。
事業に於いての楽しいと云う感覚は、実業家にはよく解るものである。経営の醍醐味とは、皆一度は経験するものであるが、エリザベスは学ぶ事に精一杯で、未だその領域には至っていなかった。
良い機会だと父が言ったのも、領地経営も事業展開も、ただ過酷で苦しいものでは無いのだと知って欲しかったのかも知れない。
伯爵家を背負う必要が無い。その言葉が枷を外してくれた。
そしてもう一つ、一緒にどうかと誘う人物にエリザベスは絶対的な安心感を抱いている。彼となら大丈夫。きっと大変な事も楽しめるわ。
「有難うございます、ジョージ様。」
心の声が独り言として口をついて出た。
穏やかな声音が夜の闇に溶けていく。
「ジョージ様。」
もう一度その名を呼んでみる。
姉の婚約者と個人的に共同事業に参加する。果たして許される事なのかと逡巡するのを、父が許した。セドリックが大丈夫だと言ってくれた。
「楽しみだわ。」
夜の静寂にエリザベスの声だけが静かに響く。
姉の婚約者でなければ、もう少し荷も軽かっただろう。
この事を姉にも話した方が良いだろう。要らぬ誤解を与えたくは無い。ウィリアムで受けた不快な傷を、エレノアには負わせたくは無い。
喜びと楽しみと、心配と不安が、順繰り心の内を巡る内に、エリザベスは微睡みに沈んでいった。
きっと明日の目覚めは心が軽い。
それだけは分かっていた。
晩餐の後に執務室へ来るように言われて侍従と共に訪えば、驚いた事に父自ら扉を開けてくれた。
「私と共同事業を?」
「ああ。是非にと仰っておられる。」
「ですが...」
エリザベスは戸惑いを隠せずにいる。それを察した父は、
「良い話だと思う。我が家とも侯爵家とも関わることは無いのだから、自由にやってみるといい。」
「ですが私は、」
「エリザベス。」
逡巡するエリザベスは、父に名を呼ばれて思わず面を上げた。
「お前に非は無い。いつまでも囚われる必要は無いんだ。」
「お父様。」
「やってみなさい。それで楽しければいいじゃないか。」
楽しければ良い。楽しんでも良いの?
エリザベスの心の動きを正しく読み取った父が頷いた。
このところ塞ぎがちであった心に温かなものが湧いて来るのを感じて、エリザベスは「はい。」と父に答えた。
父はもう一度、今度は目を細めて頷いた。
「ねえ、セドリック。私、出来るかしら。」
自室へ通ずる長い廊下を歩きながら、後ろに侍る侍従に話し掛ける。
「ええ、エリザベス様でしたら必ず。」
そう答えるセドリックは、元々父に付いていた侍従である。
十二の年にエリザベスが姉と代わって後継者に据えられてからこの五年、ずっとエリザベスに仕えている。
令嬢であるエリザベスには本来であれば侍女が付くのを、次期伯爵として教育を受けながら執務を執り行う為に、護衛も兼ねて父が自分の侍従を付けてくれた。
未だ三十には手が届かないであろうセドリックは、栗色の髪に黒い瞳の物静かな男である。
常に影のようにエリザベスに侍り、手となり足となってエリザベスを支えてくれている。この五年をエリザベスは彼と共に過ごして来た。セドリックは、エリザベスの顔色一つ見逃すことは無い。
邸にあっても孤独なエリザベスにとって、誰よりもエリザベスを知る男は、将来エリザベスが当主となった暁には、腹心の部下として伯爵家の為に仕えるのである。
姉がまだ後継を降りる前、姉には侍女が数人付けられてはいたが、セドリックの様な侍従は付いていなかった。父にどんな考えがあって、自らの部下をエリザベスに付けたのかは分からないが、セドリックがいてくれなければ、エリザベスはこの五年を乗り越える事は出来なかったかもしれない。
いつでもどんな些細なことでも、エリザベス以上にエリザベスを知るセドリックが頷いてくれるだけで「諾」と認められ勇気が湧いて来るのであった。
「有難う、セドリック。お話をお受けしてみるわ。」
セドリックが頷いた気配は見なくても分る。温かな視線が背に向けられているのを感じながら、エリザベスは自室に入った。
エリザベスは侍女を付けていない。
身支度は基本、自分でする。
平素は簡易なワンピースを着ており、髪も自分で整える。
広がりのあるデイドレスは裾が幅を取って執務に差し触る。椅子にも座りにくいし、何よりインクで汚れてしまう。
執務室を自由に歩き、書類を捌き、指先をインクで染めながら執務をとるのに、暗色のワンピースは都合が良い。何より脱着が容易い。
父に付いて外に出る時、客人を迎える時のみ、侍女に手伝ってもらいながらデイドレスに着替えるエリザベスは、平民の商家の娘より自分の事は自分で賄えるだろう。
そういう風に父は教育を施した。
令嬢とは名ばかりの、中身は純然たる成人貴族、実業家気質なのであった。
そのエリザベスに、ビジネスの誘いがあった。共同で事業経営してみないか。家には関わらない、個人として一緒にどうか。
それを父は楽しんでも良いと言ってくれた。
夜着に着替えて寝台に入っても、興奮が冷めやらない。
本当に良いのかしら。とても興味がある。楽しそうだわ。
事業に於いての楽しいと云う感覚は、実業家にはよく解るものである。経営の醍醐味とは、皆一度は経験するものであるが、エリザベスは学ぶ事に精一杯で、未だその領域には至っていなかった。
良い機会だと父が言ったのも、領地経営も事業展開も、ただ過酷で苦しいものでは無いのだと知って欲しかったのかも知れない。
伯爵家を背負う必要が無い。その言葉が枷を外してくれた。
そしてもう一つ、一緒にどうかと誘う人物にエリザベスは絶対的な安心感を抱いている。彼となら大丈夫。きっと大変な事も楽しめるわ。
「有難うございます、ジョージ様。」
心の声が独り言として口をついて出た。
穏やかな声音が夜の闇に溶けていく。
「ジョージ様。」
もう一度その名を呼んでみる。
姉の婚約者と個人的に共同事業に参加する。果たして許される事なのかと逡巡するのを、父が許した。セドリックが大丈夫だと言ってくれた。
「楽しみだわ。」
夜の静寂にエリザベスの声だけが静かに響く。
姉の婚約者でなければ、もう少し荷も軽かっただろう。
この事を姉にも話した方が良いだろう。要らぬ誤解を与えたくは無い。ウィリアムで受けた不快な傷を、エレノアには負わせたくは無い。
喜びと楽しみと、心配と不安が、順繰り心の内を巡る内に、エリザベスは微睡みに沈んでいった。
きっと明日の目覚めは心が軽い。
それだけは分かっていた。
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