ヘンリエッタの再婚約

桃井すもも

文字の大きさ
上 下
77 / 78

【77】

しおりを挟む
大きな熱い手の平が僅かに湿って感じるのは、彼が興奮を覚えているからだろう。

その手の平が、ヘンリエッタの細い腰のくびれを撫で上げる。たったそれだけであるのに身体の芯が熱くなるのは、何度も高められた快楽を身体がすっかり憶えてしまったからだろう。

耳が弱いのを知っていて、そこで囁かれて息が触れると、ふるっと身震いしてしまうのも毎回の事で、そうやって焦らして蕩かしその先になかなか進んでくれない意地悪に、ヘンリエッタは文句も言えない。

「どうしてほしい?」
と聞かれて、

「...」
無言を通すのは、僅かに残ったプライドからか。

「意地っ張りだな、私の妻は。」

なんでいつもいつも毎回毎回、この夫は余裕なのだろう。悔しいけれど、もう無理だ。

「ふ、触れて頂戴、」
「何処を?」
「あ、貴方しか知らないところを..」

途端に腰から指先がするりと降ろされて、柔らかな太腿をなぞる。
それにも身体が反応するも、そうじゃない、そうじやないのよ、もっと深いところを触れて欲しい。

ヘンリエッタの気持ちにとっくに気付いて、マルクスの長い指が内腿をそれから鼠径をそっと撫でた。そうして森の奥深く誰も知らない泉に辿り着いて、それからゆっくりヘンリエッタを追い詰める。

素肌で抱きしめ合うこの瞬間、ヘンリエッタは生きていることを実感する。この世の中にマルクスと二人きり、ぴたりと身体を合わせて何処も隙間が無いほどに、密着しながら一つになって揺れている。
ゆらゆら揺らいで身体の奥底までいっぱいになったまま、瞳を開けばマルクスも瞳を開いて熱の籠もった視線で見下ろしてくる。
もう既に一つになっているのに、力強い腕の中に囲われて、柔らかな唇に飲み込まれれば、海は見たことがないけれど、きっと海を漂ったならこんな気持ちになるのだろうかと思った。
マルクスと二人だけ。深い海の底に沈むのは、きっとそれはそれは幸せなことだろう。


ヘンリエッタの最新作は、つい先日出版された。女流作家としてすっかり人気が安定して、新作が書店に並ぶ日を新聞の広告に載せれば、発売日には開店前から列が出来る。

ヘンリエッタが生み出した文字が原稿用紙に記されて、それが製本へ回されれば、物語はヘンリエッタの手を離れる。
人気であるとか感想だとか、気にならない訳では無いが、何処か他人の物語のように俯瞰の感覚で自身の作品を眺めるのであった。

最新作『リボンの近衛騎士』は、ある見目麗しい貴族少年の物語である。貴族の令息に生まれた少年は、サファイアブルーの青い瞳も美しく、トレードマークである大きなリボンの付いた羽帽子を被り、恵まれた剣の才を磨いて近衛騎士を目指す。幼い内から王城の騎士団に入って、鍛錬に鍛錬を重ねて行くうちに、稽古仲間の王子とか、その側近候補の少年らと友情を深めて行く。しかし、彼は姿は涼し気な美しい少年であるのに、心ばかりは乙女であった。
王子と育む友情は、いつしか淡い恋心となって、互いに惹かれ合いながら、少年の心は乙女でも身体はどちらも男の子。ボーイズのラブなのであった。

一代センセーショナルを巻き起こした超問題作『リボンの近衛騎士』は、何故だろう、本家本元の近衛騎士達に爆発的な人気を博して、書店には強面の騎士達が大きな身体で頬を染めてヘンリエッタの小説を買い求めた。
王都の書店には、そんなシュールな光景があちらこちらで目撃される事となる。


エドワード王子には、今だに縁談は齎されていない様であった。エレノアを廃して漸くカトレアを得られるつもりが、真逆のカトレア本人にフラレてしまった。
あれ以来、エドワードは近衛騎士に混じって剣の稽古に猛進しているのだと聞いた。
彼にもせめて恋が訪れます様に。それはボーイズとのラブかも知れないが、もうこの際良いだろう。 

マルクスは、ヘンリエッタが完徹でペンを走らせたあの朝、仕上がったばかりの原稿を目を通して言った。

「君は私を解っていないようだね。」
そう言って、ヘンリエッタを引き摺って寝室に一日籠もって教え込んだ。

「私は心も身体も男だよ。私が愛するのはどこぞのボケナス王子じゃない。」
そう言いながら、ヘンリエッタが御免なさいと言っても寝台に沈めて、決して許してはくれなかったのは哀しい思い出。



それだけ深く愛されていると、縛られる様な強い愛を幸せに思っても良いのだろう。
夫婦には色んな愛がある。長く連れ添う間には、心が不信に曇る事もあるだろう。初めから相手の不実を飲み込んで、目の前にいる間の夫だけを愛する妻も、世の中には確かにいるのだろう。例えるなら、生家の父と母の様に。

ある日ひょっこりウィリアムが、ヘンリエッタの邸を訪ねて来た。
邸には小さな庭があり、庭を眺めるテラスがある。季節が良いからそこでお茶を飲みながら、久しぶりにウィリアムと話すのは楽しい時間であった。

「別邸の女性が出ていったよ。」
「えっ、本当に?」
「使用人が一人退職したんだ。どうやらソイツに付いて行ったらしい。」
何だろう、物語に良くあるパターン。

「お父様は意気消沈なさっているのでは?」
「全然。すっきりしたんじゃないかな。」
「だって、裏切りに遭ったのよ?」
「父上は、姉上が思う様な気持ちではなかったんじゃないかな。まあ、若気の至りの責任を体よく負わされたのだと、初めから解っていたんだと思うよ。」
「若気の至りって、それってお母様と婚約中にやらかしたって事かしら。」
「うん。奔放なところのある令嬢だったらしいから、生真面目な父上は筆下ろしされちゃったんだろうな。」

いやぁぁぁ~、父親の性事情なんて聴きたくない!

「令嬢に初めてだったと詰られたのかな。乙女の純潔を奪った責任を負って面倒をみたんじゃないかと思うよ。令嬢は男爵家の末娘で嫁ぎ先も勤め先も決まらない身の上であったらしいから。嵌められたのに薄々気付いても、父上は潔癖なところがあるだろう?自分の行為に責任を感じたんだろうね。」

「それにしても二十年よ。」
「その二十年、令嬢のお相手が父上だったと思う?」
「はっ!なんてこと。そうだったのね。その使用人とやらが...」
「見目が良かったらしいよ。」
「なにそれ。お父様も美しい方だわ。」

思わず父の肩を持ってしまう。そうして何処かでほっとする。漸く父は母に詫びることが出来るのだろうか。
世の中に沢山ある夫婦の形の一つを、ヘンリエッタは思い浮かべた。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

騎士の妻ではいられない

Rj
恋愛
騎士の娘として育ったリンダは騎士とは結婚しないと決めていた。しかし幼馴染みで騎士のイーサンと結婚したリンダ。結婚した日に新郎は非常召集され、新婦のリンダは結婚を祝う宴に一人残された。二年目の結婚記念日に戻らない夫を待つリンダはもう騎士の妻ではいられないと心を決める。 全23話。 2024/1/29 全体的な加筆修正をしました。話の内容に変わりはありません。 イーサンが主人公の続編『騎士の妻でいてほしい 』(https://www.alphapolis.co.jp/novel/96163257/36727666)があります。

【完結】失いかけた君にもう一度

暮田呉子
恋愛
偶然、振り払った手が婚約者の頬に当たってしまった。 叩くつもりはなかった。 しかし、謝ろうとした矢先、彼女は全てを捨てていなくなってしまった──。

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

『親友』との時間を優先する婚約者に別れを告げたら

黒木メイ
恋愛
筆頭聖女の私にはルカという婚約者がいる。教会に入る際、ルカとは聖女の契りを交わした。会えない間、互いの不貞を疑う必要がないようにと。 最初は順調だった。燃えるような恋ではなかったけれど、少しずつ心の距離を縮めていけたように思う。 けれど、ルカは高等部に上がり、変わってしまった。その背景には二人の男女がいた。マルコとジュリア。ルカにとって初めてできた『親友』だ。身分も性別も超えた仲。『親友』が教えてくれる全てのものがルカには新鮮に映った。広がる世界。まるで生まれ変わった気分だった。けれど、同時に終わりがあることも理解していた。だからこそ、ルカは学生の間だけでも『親友』との時間を優先したいとステファニアに願い出た。馬鹿正直に。 そんなルカの願いに対して私はダメだとは言えなかった。ルカの気持ちもわかるような気がしたし、自分が心の狭い人間だとは思いたくなかったから。一ヶ月に一度あった逢瀬は数ヶ月に一度に減り、半年に一度になり、とうとう一年に一度まで減った。ようやく会えたとしてもルカの話題は『親友』のことばかり。さすがに堪えた。ルカにとって自分がどういう存在なのか痛いくらいにわかったから。 極めつけはルカと親友カップルの歪な三角関係についての噂。信じたくはないが、間違っているとも思えなかった。もう、半ば受け入れていた。ルカの心はもう自分にはないと。 それでも婚約解消に至らなかったのは、聖女の契りが継続していたから。 辛うじて繋がっていた絆。その絆は聖女の任期終了まで後数ヶ月というところで切れた。婚約はルカの有責で破棄。もう関わることはないだろう。そう思っていたのに、何故かルカは今更になって執着してくる。いったいどういうつもりなの? 戸惑いつつも情を捨てきれないステファニア。プライドは捨てて追い縋ろうとするルカ。さて、二人の未来はどうなる? ※曖昧設定。 ※別サイトにも掲載。

すれ違ってしまった恋

秋風 爽籟
恋愛
別れてから何年も経って大切だと気が付いた… それでも、いつか戻れると思っていた… でも現実は厳しく、すれ違ってばかり…

三度目の嘘つき

豆狸
恋愛
「……本当に良かったのかい、エカテリナ。こんな嘘をついて……」 「……いいのよ。私に新しい相手が出来れば、周囲も殿下と男爵令嬢の仲を認めずにはいられなくなるわ」 なろう様でも公開中ですが、少し構成が違います。内容は同じです。

貴方でなくても良いのです。

豆狸
恋愛
彼が初めて淹れてくれたお茶を口に含むと、舌を刺すような刺激がありました。古い茶葉でもお使いになったのでしょうか。青い瞳に私を映すアントニオ様を傷つけないように、このことは秘密にしておきましょう。

あなたへの恋心を消し去りました

恋愛
 私には両親に決められた素敵な婚約者がいる。  私は彼のことが大好き。少し顔を見るだけで幸せな気持ちになる。  だけど、彼には私の気持ちが重いみたい。  今、彼には憧れの人がいる。その人は大人びた雰囲気をもつ二つ上の先輩。  彼は心は自由でいたい言っていた。  その女性と話す時、私には見せない楽しそうな笑顔を向ける貴方を見て、胸が張り裂けそうになる。  友人たちは言う。お互いに干渉しない割り切った夫婦のほうが気が楽だって……。  だから私は彼が自由になれるように、魔女にこの激しい気持ちを封印してもらったの。 ※このお話はハッピーエンドではありません。 ※短いお話でサクサクと進めたいと思います。

処理中です...