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「お母様は、それでよろしかったの?そんな婚約者の不実を許せたの?」
ヘンリエッタにも覚えがある、婚約者の裏切り。ハロルドには理由があったが、それを知らなかったヘンリエッタには、彼の行為は裏切りにしか思えなかった。
あの苦しみを、母もまた経験している。
「そうね。目の前が暗くなった気持ちがしたわね。漸く諦めようと決めたのに、その決心が揺らいでしまうくらいには。
だけど、同時に胸の奥底から喜びが湧いてしまったの。旦那様から望まれているのだと。あんなに怒った旦那様のお顔を見たのは初めてだったから。私と別れないと、そればかりを言う旦那様が愛しくて仕方が無かったわ。
だからと言って、旦那様は何も変わらなかった。結局、私と婚姻してからも、男爵令嬢を手放さなかった。貴女やウィリアムに悟らせるだなんて、旦那様がなぜそんな下手をなさるのか、流石に失望してしまうけれど。仕方が無いわね。私には、旦那様を愛する事しか出来なかったのですもの。
旦那様はご令嬢を別邸に住まわせながら、私との婚姻生活も大切にして下さったわ。何より貴女とウィリアムを授けて下さった。
旦那様はご令嬢とはお子を得てはいない筈よ。それをお隠しになる人ではないと信じているわ。貴女に異母弟妹はいないでしょうから安心してね。
それに、伯爵家の当主としてもとても優秀でいらっしゃるわ。旦那様が軍馬の育成では国内の関係産業を牽引しているのは貴女も解るでしょう?
ハロルド様との事では私以上に旦那様の方がお怒りになっていらっしゃたわね。ご自分の事はどう思われるのかしらと不思議に思ったくらいよ。
貴女は潔癖な気質であるから、そんな旦那様を虫けら、いえ、ちょっと冷たい目で見たりするでしょう?旦那様はそれにとても気を落とされて、私は何とお慰めしたら良いのか迷ったのよ?」
「お母様は、その女性とはお会いになったの?」
「同じ学園生であったし流石に顔は知っているけれど、私から接触した事は無かったわね。」
「でも、婚約者としてお父様を正す事は望めたのではなくて?」
「貴女はそうした?」
「え?」
ヘンリエッタは、自分に擬えて漸く解る。ヘンリエッタが同じ立場であったなら、きっとヘンリエッタも婚約者の手を離す事を選んだろう。失った愛は縋ったからと戻る訳では無い。母は、そう諦めが付くほど父を慕ったのだろう。慕って愛して諦めた。寧ろ諦め切れなかったのは父の方だろう。
「旦那様との婚姻生活は、決して哀しい事ばかりではなかったわ。幸福な思い出も沢山あるわ。今だにご令嬢、もうご令嬢とは言えないけれど、その元男爵令嬢を手元に置くのには、旦那様なりの理由はお有りなのでしょうね。それを慮ってあげる必要が無いのだと思えたのは、貴女とハロルド様の事があったからよ。
貴女が苦しむ姿は令嬢の頃の私の姿そのものだった。貴女には、自由な選択をして欲しいと思ったわ。貴女が自分で進む未来を見つけて、マルクス様との信頼を深めたのに救われたのは私の方ね。漸く傷付いた娘時代の私に、もう良いのよと言ってあげられる気がしたの。」
ここ最近の母の変化がそこにあったのにヘンリエッタは思い至る。
「お母様は、これからどうなさるおつもり?」
「ふふ」
母はそこでほころぶような笑みを見せた。
「私達、これでも夫婦なのよ。何があっても夫婦なの。色んな事があったけれど、私の前にいる時は、旦那様は私を唯一とお認めになって下さった。一緒に子供を育てて一緒に家を盛り立てた。事業も親族との関わりも、全て二人で励んだわ。
旦那様が別邸に行かれても、私には貴女方も親族も伯爵家の役割も全てお任せ下さるのだもの。もうそれで仕方無いでしょう。
ただ、最後の最後は、私は私で自由になっても良いのだと、そう思えるようになれたのはつい最近のことなの。それでとても楽になれた。ここまでの人生は、全部自分で決めたことよ。これからの人生も自分で決めるわ。
だから、貴女は私の事は心配せずにマルクス様と歩む人生を楽しんで欲しいのよ。マルクス様は仰ったでしょう?貴女に彼の進む道のその先を生涯見ていてほしいのだと。」
「まあ、世の中にはこんな夫婦もいるって事を貴女にお話ししたかっただけなのよ。」母は、そう言って笑って見せた。晴れやかな笑みだと思った。
晩餐のメニューは合鴨であった。合鴨は父の好物である。良い歳をして好物を食するのに分かりやすく喜ぶ父を盗み見る。
ヘンリエッタは母の様に優しくないから、つい父に厳しい目で見てしまう。
父が貴族当主として優秀で、そうして意外ではあるが人望があり、王族からも一目置かれているのは知っている。
ウィリアムはそんな父に似て賢い子である。
それでも、長きに渡って母に不実を通すのは、どうやっても理解が出来ない。
「姉上、凄い凝視してたね。」
「何が?」
「ずっと父上を見てたでしょう。」
「そうかしら。」
「うん。途中から父上、とっても食べ難そうだったよ。」
「そう?あんまり美味しそうに鴨を食べてるから、ついガン見しちゃったのね。」
「ふうん。」
食堂を出てからウィリアムに言われて、そんなに凝視してたのかなと思う。そうして、どうか貴方は父に似ずに、愛する女性には誠実でいてねと、見目は母似であるのに賢明な性質は父によく似た弟の背中に思うのだった。
ヘンリエッタにも覚えがある、婚約者の裏切り。ハロルドには理由があったが、それを知らなかったヘンリエッタには、彼の行為は裏切りにしか思えなかった。
あの苦しみを、母もまた経験している。
「そうね。目の前が暗くなった気持ちがしたわね。漸く諦めようと決めたのに、その決心が揺らいでしまうくらいには。
だけど、同時に胸の奥底から喜びが湧いてしまったの。旦那様から望まれているのだと。あんなに怒った旦那様のお顔を見たのは初めてだったから。私と別れないと、そればかりを言う旦那様が愛しくて仕方が無かったわ。
だからと言って、旦那様は何も変わらなかった。結局、私と婚姻してからも、男爵令嬢を手放さなかった。貴女やウィリアムに悟らせるだなんて、旦那様がなぜそんな下手をなさるのか、流石に失望してしまうけれど。仕方が無いわね。私には、旦那様を愛する事しか出来なかったのですもの。
旦那様はご令嬢を別邸に住まわせながら、私との婚姻生活も大切にして下さったわ。何より貴女とウィリアムを授けて下さった。
旦那様はご令嬢とはお子を得てはいない筈よ。それをお隠しになる人ではないと信じているわ。貴女に異母弟妹はいないでしょうから安心してね。
それに、伯爵家の当主としてもとても優秀でいらっしゃるわ。旦那様が軍馬の育成では国内の関係産業を牽引しているのは貴女も解るでしょう?
ハロルド様との事では私以上に旦那様の方がお怒りになっていらっしゃたわね。ご自分の事はどう思われるのかしらと不思議に思ったくらいよ。
貴女は潔癖な気質であるから、そんな旦那様を虫けら、いえ、ちょっと冷たい目で見たりするでしょう?旦那様はそれにとても気を落とされて、私は何とお慰めしたら良いのか迷ったのよ?」
「お母様は、その女性とはお会いになったの?」
「同じ学園生であったし流石に顔は知っているけれど、私から接触した事は無かったわね。」
「でも、婚約者としてお父様を正す事は望めたのではなくて?」
「貴女はそうした?」
「え?」
ヘンリエッタは、自分に擬えて漸く解る。ヘンリエッタが同じ立場であったなら、きっとヘンリエッタも婚約者の手を離す事を選んだろう。失った愛は縋ったからと戻る訳では無い。母は、そう諦めが付くほど父を慕ったのだろう。慕って愛して諦めた。寧ろ諦め切れなかったのは父の方だろう。
「旦那様との婚姻生活は、決して哀しい事ばかりではなかったわ。幸福な思い出も沢山あるわ。今だにご令嬢、もうご令嬢とは言えないけれど、その元男爵令嬢を手元に置くのには、旦那様なりの理由はお有りなのでしょうね。それを慮ってあげる必要が無いのだと思えたのは、貴女とハロルド様の事があったからよ。
貴女が苦しむ姿は令嬢の頃の私の姿そのものだった。貴女には、自由な選択をして欲しいと思ったわ。貴女が自分で進む未来を見つけて、マルクス様との信頼を深めたのに救われたのは私の方ね。漸く傷付いた娘時代の私に、もう良いのよと言ってあげられる気がしたの。」
ここ最近の母の変化がそこにあったのにヘンリエッタは思い至る。
「お母様は、これからどうなさるおつもり?」
「ふふ」
母はそこでほころぶような笑みを見せた。
「私達、これでも夫婦なのよ。何があっても夫婦なの。色んな事があったけれど、私の前にいる時は、旦那様は私を唯一とお認めになって下さった。一緒に子供を育てて一緒に家を盛り立てた。事業も親族との関わりも、全て二人で励んだわ。
旦那様が別邸に行かれても、私には貴女方も親族も伯爵家の役割も全てお任せ下さるのだもの。もうそれで仕方無いでしょう。
ただ、最後の最後は、私は私で自由になっても良いのだと、そう思えるようになれたのはつい最近のことなの。それでとても楽になれた。ここまでの人生は、全部自分で決めたことよ。これからの人生も自分で決めるわ。
だから、貴女は私の事は心配せずにマルクス様と歩む人生を楽しんで欲しいのよ。マルクス様は仰ったでしょう?貴女に彼の進む道のその先を生涯見ていてほしいのだと。」
「まあ、世の中にはこんな夫婦もいるって事を貴女にお話ししたかっただけなのよ。」母は、そう言って笑って見せた。晴れやかな笑みだと思った。
晩餐のメニューは合鴨であった。合鴨は父の好物である。良い歳をして好物を食するのに分かりやすく喜ぶ父を盗み見る。
ヘンリエッタは母の様に優しくないから、つい父に厳しい目で見てしまう。
父が貴族当主として優秀で、そうして意外ではあるが人望があり、王族からも一目置かれているのは知っている。
ウィリアムはそんな父に似て賢い子である。
それでも、長きに渡って母に不実を通すのは、どうやっても理解が出来ない。
「姉上、凄い凝視してたね。」
「何が?」
「ずっと父上を見てたでしょう。」
「そうかしら。」
「うん。途中から父上、とっても食べ難そうだったよ。」
「そう?あんまり美味しそうに鴨を食べてるから、ついガン見しちゃったのね。」
「ふうん。」
食堂を出てからウィリアムに言われて、そんなに凝視してたのかなと思う。そうして、どうか貴方は父に似ずに、愛する女性には誠実でいてねと、見目は母似であるのに賢明な性質は父によく似た弟の背中に思うのだった。
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