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夫人の語ることにヘンリエッタは言葉が出ない。そんなヘンリエッタへ眉を下げて微笑みながら、夫人はその先を語る。
「マルクスは、その日から騎士団での稽古を辞めてしまったわ。私が目覚める前の早朝に、邸の護衛に剣術の稽古を付けてもらっている様だったけれど、王城へ通う事は辞めてしまったの。
心配なさった騎士団長様やエドワード殿下がお迎えに来て下さるほどの騒ぎになって、女の子の口ぶりで話すあの子が何故そうするのかをお知りになった後は、皆様、もう気の済むまであの子のやりたい様にさせてやろうと、そんな風に諦めて下さって。
マルクスは、幼い頃から一度決めた事は違えない子だったわ。それは多分、貴女もご存知ね。
結局、今日の今日まで夜会以外で王城に登城する事は無かったわ。直ぐに騎士団も脱退してしまって、殿下ともそれきり距離を置いて。
マルクスが殿下のお側を離れてから、その、貴女の前のご婚約者のハロルド様がお側付きに選ばれたの。だから、きっとあの方はマルクスとエドワード殿下のお付き合いについてはあまり詳しくはご存知無いかも知れないわね。
そうそう、あの子ったら、最初はドレスを強請ったのよ?流石にそれは駄目よと言えば、ちえっと男の子の顔をして言ったのが何だかあの子らしくて可愛かったわ。
一筋縄で行かないあの子は、結局学園もそのままで通したのだけれど、審美眼に優れているのは旦那様に似たらしくて。剣術以外にも商才があったりとか何でも器用に熟しちゃって、私も家族ももう良いだろう、どんな姿をしていてもマルクスに違いないからと、好きなようにさせていたの。
御婦人方のお相手なんてとても評判が良くて、旦那様もそれであの子に外商を任せたのよ。
貴女には、本当に感謝しているわ。マルクスを本来の姿に戻してくれた。貴女の為にドレスを作って、貴女の為に奔走する姿は、我が子ながら立派な騎士にも紳士にも見えたわ。私も旦那様もあの子の兄達も、みんなマルクスが貴女と一緒に幸せになって欲しいと思っているのよ。」
聞き始めは動揺していたヘンリエッタは、途中からは心が凪の様に鎮まった。
聞けば聞くほどヘンリエッタの知るマルクスそのものじゃないか。
女の子が欲しかった母の為に女の子になろうとした。成長してからは男の娘になった。剣術の稽古は怠ることなく、美への探究も極めて、心も身体も磨き鍛錬を欠かさない。
それってヘンリエッタが知るマリーそのもので、つまりはマルクスそのものの姿だろう。清々しいほどマリーはマリーで、それがマルクスかマリーかは呼び名を変えた渾名くらいの差しか無い。
どちらもヘンリエッタの信じるマルクスであるから、結局どんな彼でも愛してる。
「何だ。そんな事。」
ほら、マルクスならそう言うと思った。
「母が女の子が欲しいと思うのなら、私がなってやろうと思っただけだよ。兄達では無理があったからね。」
マルクスの兄二人は、揃いも揃って大柄で屈強な体躯をしている。マクルズ子爵家とは元々は騎士の家系であり、数代前の子息が商いで才能を開花したのが今の子爵家の元になっているのだと言う。マルクスが剣技に才があるのも頷ける。
「あんなゴツい兄達では全然可愛くないだろう。私は見目が良かったからね。適任だと思ったのさ。」
さらっと自分を褒めてるわ。
「それに。美しいのは嫌いじゃない。強くて美しいなら最強だ。好みの女の子がいなかったから、別に変わる必要を感じなかった、それだけだよ。」
え、そ、それは、私は貴方のお好みなのかしら。
頬を染めて俯けば、それを追いかけるように覗き込まれて益々顔が熱くなる。
「欲しいと願ったのは君だけだ。後は何でもそれほど苦労せずとも習得出来た。君だけが手が届かない女性だった。別の男のものであったから。それをアイツが蔑ろにするのを腹立たしく思っていた。頓珍漢なエドワード殿下にも。殿下も殿下だ。優しいばかりに目が曇る。折角の才気が惜しまれるよ。アレックスにきっちり締めとけって言ったんだけどな。」
ヘンリエッタは、多分生涯マルクスには敵わないと思った。
マルクスは、どこまでも守備範囲が広くて懐が深くて自由で強くて美しい。この世の最終兵器みたいな婚約者に、成すがままにされるしか、自分には術が無いと諦めた。
そうして唯一持てるスキル「執筆」にて、この麗しい婚約者を次なる餌食、ゲフン、テーマにしようと思った。
そうだわ、こんなお話しどうだろう。赤いキャンディと青いキャンディがあって、赤いキャンディを舐めると女の子になる。青いキャンディを舐めると男の子になる。本当の心と身体は女の子で、青いキャンディで男の子になったら赤いキャンディで女の子に戻る。キャンディで変化しながら世を欺き、時にはご令嬢の友となり、時には王子の側近となり...。良いわね、それ。
タイトルはぁ~、不思議なお話しだから、不思議、不思議、『ふしぎなメルメ』はどうかしら。なんでメルメ?そんなのはインスピレーションよ。深く考えてはいけないわ。
熱い眼差しで射抜く様に見つめて来る婚約者の、文字通り射る様な熱視線から、ヘンリエッタは次回作の構想を思い描くことで現実逃避した。
ヘンリエッタは懲りない系女子の筆頭なので、そんな事をしたならこの婚約者が、二度と自分の前で現実から逃れようなどと思わない様に、熱くて甘くて蕩ける口付けをお見舞いするだなんて、これっぽっちも考えられないのだった。
後悔とは、後からは悔やむから後悔と言う。大切な教訓を一つ憶えたヘンリエッタなのであった。
「マルクスは、その日から騎士団での稽古を辞めてしまったわ。私が目覚める前の早朝に、邸の護衛に剣術の稽古を付けてもらっている様だったけれど、王城へ通う事は辞めてしまったの。
心配なさった騎士団長様やエドワード殿下がお迎えに来て下さるほどの騒ぎになって、女の子の口ぶりで話すあの子が何故そうするのかをお知りになった後は、皆様、もう気の済むまであの子のやりたい様にさせてやろうと、そんな風に諦めて下さって。
マルクスは、幼い頃から一度決めた事は違えない子だったわ。それは多分、貴女もご存知ね。
結局、今日の今日まで夜会以外で王城に登城する事は無かったわ。直ぐに騎士団も脱退してしまって、殿下ともそれきり距離を置いて。
マルクスが殿下のお側を離れてから、その、貴女の前のご婚約者のハロルド様がお側付きに選ばれたの。だから、きっとあの方はマルクスとエドワード殿下のお付き合いについてはあまり詳しくはご存知無いかも知れないわね。
そうそう、あの子ったら、最初はドレスを強請ったのよ?流石にそれは駄目よと言えば、ちえっと男の子の顔をして言ったのが何だかあの子らしくて可愛かったわ。
一筋縄で行かないあの子は、結局学園もそのままで通したのだけれど、審美眼に優れているのは旦那様に似たらしくて。剣術以外にも商才があったりとか何でも器用に熟しちゃって、私も家族ももう良いだろう、どんな姿をしていてもマルクスに違いないからと、好きなようにさせていたの。
御婦人方のお相手なんてとても評判が良くて、旦那様もそれであの子に外商を任せたのよ。
貴女には、本当に感謝しているわ。マルクスを本来の姿に戻してくれた。貴女の為にドレスを作って、貴女の為に奔走する姿は、我が子ながら立派な騎士にも紳士にも見えたわ。私も旦那様もあの子の兄達も、みんなマルクスが貴女と一緒に幸せになって欲しいと思っているのよ。」
聞き始めは動揺していたヘンリエッタは、途中からは心が凪の様に鎮まった。
聞けば聞くほどヘンリエッタの知るマルクスそのものじゃないか。
女の子が欲しかった母の為に女の子になろうとした。成長してからは男の娘になった。剣術の稽古は怠ることなく、美への探究も極めて、心も身体も磨き鍛錬を欠かさない。
それってヘンリエッタが知るマリーそのもので、つまりはマルクスそのものの姿だろう。清々しいほどマリーはマリーで、それがマルクスかマリーかは呼び名を変えた渾名くらいの差しか無い。
どちらもヘンリエッタの信じるマルクスであるから、結局どんな彼でも愛してる。
「何だ。そんな事。」
ほら、マルクスならそう言うと思った。
「母が女の子が欲しいと思うのなら、私がなってやろうと思っただけだよ。兄達では無理があったからね。」
マルクスの兄二人は、揃いも揃って大柄で屈強な体躯をしている。マクルズ子爵家とは元々は騎士の家系であり、数代前の子息が商いで才能を開花したのが今の子爵家の元になっているのだと言う。マルクスが剣技に才があるのも頷ける。
「あんなゴツい兄達では全然可愛くないだろう。私は見目が良かったからね。適任だと思ったのさ。」
さらっと自分を褒めてるわ。
「それに。美しいのは嫌いじゃない。強くて美しいなら最強だ。好みの女の子がいなかったから、別に変わる必要を感じなかった、それだけだよ。」
え、そ、それは、私は貴方のお好みなのかしら。
頬を染めて俯けば、それを追いかけるように覗き込まれて益々顔が熱くなる。
「欲しいと願ったのは君だけだ。後は何でもそれほど苦労せずとも習得出来た。君だけが手が届かない女性だった。別の男のものであったから。それをアイツが蔑ろにするのを腹立たしく思っていた。頓珍漢なエドワード殿下にも。殿下も殿下だ。優しいばかりに目が曇る。折角の才気が惜しまれるよ。アレックスにきっちり締めとけって言ったんだけどな。」
ヘンリエッタは、多分生涯マルクスには敵わないと思った。
マルクスは、どこまでも守備範囲が広くて懐が深くて自由で強くて美しい。この世の最終兵器みたいな婚約者に、成すがままにされるしか、自分には術が無いと諦めた。
そうして唯一持てるスキル「執筆」にて、この麗しい婚約者を次なる餌食、ゲフン、テーマにしようと思った。
そうだわ、こんなお話しどうだろう。赤いキャンディと青いキャンディがあって、赤いキャンディを舐めると女の子になる。青いキャンディを舐めると男の子になる。本当の心と身体は女の子で、青いキャンディで男の子になったら赤いキャンディで女の子に戻る。キャンディで変化しながら世を欺き、時にはご令嬢の友となり、時には王子の側近となり...。良いわね、それ。
タイトルはぁ~、不思議なお話しだから、不思議、不思議、『ふしぎなメルメ』はどうかしら。なんでメルメ?そんなのはインスピレーションよ。深く考えてはいけないわ。
熱い眼差しで射抜く様に見つめて来る婚約者の、文字通り射る様な熱視線から、ヘンリエッタは次回作の構想を思い描くことで現実逃避した。
ヘンリエッタは懲りない系女子の筆頭なので、そんな事をしたならこの婚約者が、二度と自分の前で現実から逃れようなどと思わない様に、熱くて甘くて蕩ける口付けをお見舞いするだなんて、これっぽっちも考えられないのだった。
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