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マルクス・パーカー・マクルズとは、決して敵に回してはならない人物である。
一度心に決めたことは徹底して守り抜く。その為なら、一層鮮やかな程それ以外の物事は容易く切り捨てる。
そうして何より仕事が早い。
もうそれは、生家の商う商会で外商なんてものに燻らせておくのは宝の持ち腐れであると、宰相閣下より目を付けられていたとかいないとか。
噂は噂でしかないから真偽の程は定かでないが、確かにマルクスは仕事が早かった。それを何気に仕事の早い父と組んだものだから、もう最速であった。
マルクスの婚姻申し込みの直後に、母は二人を父に面会させた。多忙な父が邸にいるのは珍しく、年明け早々であったのも味方してくれたのだろう。
マルクスは、以前、父から謝罪を受けた時の様にキリッと涼しい顔をして、ヘンリエッタとの婚姻を許して欲しいと願い出た。
本来であれば、ハロルドの妻となって伯爵夫人となる身であったのに、爵位の劣る子爵家のしかも三男坊との婚姻は、ヘンリエッタの身分が平民となる事を意味している。
ヘンリエッタは一度ならず幾度も修道院を終の棲家と決めた事があったし、ハロルドとの縁談が破談に終わってこの先良縁には恵まれないと思っていた。
元よりウィリアムが爵位を継いだ後は、貴族令嬢の身分を失うのは定まった未来であったから、当然の事と受け止めていた。しかし、婚姻により夫共々平民となる事を、父はなんと思うだろう。その一点のみがヘンリエッタが不安に思うところであった。
父は、どこかマルクスと似ているところがある。
それは平素の父ではなくて、出るところに出た時だとか、大きな判断を下す場面であるとか、瞬間で物事を決める勘の様なものであったりする。
だから結果から言えば、父の判断は早かったし、年明け早々の役所や神殿に諸々の書類を申請したり、挙式に縁起の良い日をピックアップしたり、先触れと同時に訪問すると云う何とも性急な手段を取って、その日のうちにマクルズ邸を訪ったりと、兎に角仕事が早かった。軍馬育成のエキスパートである父は、正に「生き馬の目を抜く」とはこういう事だと行動で示したのである。
名目を思い悩んだ新年祝賀の夜会には、ヘンリエッタはマルクスの婚約者として参加することと相成った。
「貴女にお話ししておきたい事があったの。あの子はきっと言わないのではないかと思ったから。」
暖かな日射しが降り注ぐティールームで、ヘンリエッタはマクルズ子爵夫人と向き合ってお茶を楽しんでいた。
マルクスとの婚約は、何ひとつ滞る事なくあっという間に成されてしまった。
ヘンリエッタは、マルクスのプロポーズに諾と答えた後からは、婚約誓約書にサインした以外の仕事を一つもしていない。
婚約誓約書を前に少し考え込んでしまったのは、ここにサインをするのが三度目で、もう今度こそこれで最後であってほしいと念を込めていたのだが、それを逡巡していると受け取ったらしいマルクスが、サインする箇所をトントン指で指し示して催促した。
圧が凄かった。「書け、サイン書け」と、とんとんトントン指し示したから。
そんなこんなでそれからは、ヘンリエッタはすっかり子爵家に打ち解けて、子爵などは、これからのヘンリエッタの執筆活動はマクルズ子爵家が全面的にバックアップすると宣言した。
マルガレーテ・М・ミッチェルが商会名と同じM&Mなのも神の導きなのだとか何とかこじつけた。それにはヘンリエッタも、いや、それ偶然ですとは言えなかった。
「私達、女の子が欲しいと思っていたの。続けて男児二人に恵まれて、後継もスペアも揃ったからと親族にも認められて、妻の責務を果たせたのに正直ほっとしたわ。
だから、今度は女の子に恵まれたなら、きっと可愛いだろうと思ったのよ。なんてことは無い、よくあるささやかな希望であったわ。
三人目に生まれたのがマルクスで、結局男の子であったけれど、とても嬉しかった。
マルクスは難産の末に漸く生まれて来た子だったのよ。私は産褥も思わしくなくて、なかなか床が上げられなくて、医師様からは次の子は望めないかも知れないと言われたけれど、もう十分だと思えたわ。
子供はみんな可愛かった。マルクスなんて余りに難産であったから、直ぐに女神様の元へ帰ってしまうのではないかと心配したのに、誰よりも元気に逞しく育ってくれた。
余りにやんちゃが過ぎるし、兎に角すばしっこくて身体を持て余しているようだったから、旦那様が王城の少年騎士団にマルクスを入団させたの。そこにはエドワード殿下が既に入団されていて、今の側近の方々もいらして、一緒に稽古を励んでいたのだけれど...」
そこで夫人は、窓の外に視線を移して冬空を眺めた。まるで過ぎた日を思い出す様な横顔に見えた。
「どうやらマルクスには剣の才があったようで、近衛騎士団の団長様が養子に欲しいと仰ったり、なんと言いましょうか、マルクスにライバル心をお持ちになったエドワード殿下と決闘の真似事をして打ち負かしてしまったり、その後は随分打ち解けて仲良くなったり。マルクスは三男で継ぐ爵位も無いからこのまま騎士になるのが良いだろうと、皆そう思っていたの。
マルクス自身も騎士を天職だと思っていたでしょう。エドワード殿下はお小さい頃から、将来は立派な王弟となられて兄殿下をお支えするのだと仰って、マルクスはそんな殿下に仕えて、自分は殿下をお支えするのだと、そんな事を言っていたわ。
それなのに。
それなのに。どうしてあんな事になってしまったのかしら。心無い親族から、私達が実は女児を願っていて、マルクスを産んだ事で次の子が望めなくなってしまったと、そんな事を吹聴されたらしくて。きっと王子や騎士団長に重用されるマルクスへのやっかみだったのでしょうね。
なのにマルクスは...、
マルクスは、ある日、目覚めた朝から女の子になってしまったわ。
それまで「母上」と呼んでいたのが、こう、両手を揃えて「お母様、お早うございます」としおらしく言ったのを、私は今も忘れることが出来ないの。」
一度心に決めたことは徹底して守り抜く。その為なら、一層鮮やかな程それ以外の物事は容易く切り捨てる。
そうして何より仕事が早い。
もうそれは、生家の商う商会で外商なんてものに燻らせておくのは宝の持ち腐れであると、宰相閣下より目を付けられていたとかいないとか。
噂は噂でしかないから真偽の程は定かでないが、確かにマルクスは仕事が早かった。それを何気に仕事の早い父と組んだものだから、もう最速であった。
マルクスの婚姻申し込みの直後に、母は二人を父に面会させた。多忙な父が邸にいるのは珍しく、年明け早々であったのも味方してくれたのだろう。
マルクスは、以前、父から謝罪を受けた時の様にキリッと涼しい顔をして、ヘンリエッタとの婚姻を許して欲しいと願い出た。
本来であれば、ハロルドの妻となって伯爵夫人となる身であったのに、爵位の劣る子爵家のしかも三男坊との婚姻は、ヘンリエッタの身分が平民となる事を意味している。
ヘンリエッタは一度ならず幾度も修道院を終の棲家と決めた事があったし、ハロルドとの縁談が破談に終わってこの先良縁には恵まれないと思っていた。
元よりウィリアムが爵位を継いだ後は、貴族令嬢の身分を失うのは定まった未来であったから、当然の事と受け止めていた。しかし、婚姻により夫共々平民となる事を、父はなんと思うだろう。その一点のみがヘンリエッタが不安に思うところであった。
父は、どこかマルクスと似ているところがある。
それは平素の父ではなくて、出るところに出た時だとか、大きな判断を下す場面であるとか、瞬間で物事を決める勘の様なものであったりする。
だから結果から言えば、父の判断は早かったし、年明け早々の役所や神殿に諸々の書類を申請したり、挙式に縁起の良い日をピックアップしたり、先触れと同時に訪問すると云う何とも性急な手段を取って、その日のうちにマクルズ邸を訪ったりと、兎に角仕事が早かった。軍馬育成のエキスパートである父は、正に「生き馬の目を抜く」とはこういう事だと行動で示したのである。
名目を思い悩んだ新年祝賀の夜会には、ヘンリエッタはマルクスの婚約者として参加することと相成った。
「貴女にお話ししておきたい事があったの。あの子はきっと言わないのではないかと思ったから。」
暖かな日射しが降り注ぐティールームで、ヘンリエッタはマクルズ子爵夫人と向き合ってお茶を楽しんでいた。
マルクスとの婚約は、何ひとつ滞る事なくあっという間に成されてしまった。
ヘンリエッタは、マルクスのプロポーズに諾と答えた後からは、婚約誓約書にサインした以外の仕事を一つもしていない。
婚約誓約書を前に少し考え込んでしまったのは、ここにサインをするのが三度目で、もう今度こそこれで最後であってほしいと念を込めていたのだが、それを逡巡していると受け取ったらしいマルクスが、サインする箇所をトントン指で指し示して催促した。
圧が凄かった。「書け、サイン書け」と、とんとんトントン指し示したから。
そんなこんなでそれからは、ヘンリエッタはすっかり子爵家に打ち解けて、子爵などは、これからのヘンリエッタの執筆活動はマクルズ子爵家が全面的にバックアップすると宣言した。
マルガレーテ・М・ミッチェルが商会名と同じM&Mなのも神の導きなのだとか何とかこじつけた。それにはヘンリエッタも、いや、それ偶然ですとは言えなかった。
「私達、女の子が欲しいと思っていたの。続けて男児二人に恵まれて、後継もスペアも揃ったからと親族にも認められて、妻の責務を果たせたのに正直ほっとしたわ。
だから、今度は女の子に恵まれたなら、きっと可愛いだろうと思ったのよ。なんてことは無い、よくあるささやかな希望であったわ。
三人目に生まれたのがマルクスで、結局男の子であったけれど、とても嬉しかった。
マルクスは難産の末に漸く生まれて来た子だったのよ。私は産褥も思わしくなくて、なかなか床が上げられなくて、医師様からは次の子は望めないかも知れないと言われたけれど、もう十分だと思えたわ。
子供はみんな可愛かった。マルクスなんて余りに難産であったから、直ぐに女神様の元へ帰ってしまうのではないかと心配したのに、誰よりも元気に逞しく育ってくれた。
余りにやんちゃが過ぎるし、兎に角すばしっこくて身体を持て余しているようだったから、旦那様が王城の少年騎士団にマルクスを入団させたの。そこにはエドワード殿下が既に入団されていて、今の側近の方々もいらして、一緒に稽古を励んでいたのだけれど...」
そこで夫人は、窓の外に視線を移して冬空を眺めた。まるで過ぎた日を思い出す様な横顔に見えた。
「どうやらマルクスには剣の才があったようで、近衛騎士団の団長様が養子に欲しいと仰ったり、なんと言いましょうか、マルクスにライバル心をお持ちになったエドワード殿下と決闘の真似事をして打ち負かしてしまったり、その後は随分打ち解けて仲良くなったり。マルクスは三男で継ぐ爵位も無いからこのまま騎士になるのが良いだろうと、皆そう思っていたの。
マルクス自身も騎士を天職だと思っていたでしょう。エドワード殿下はお小さい頃から、将来は立派な王弟となられて兄殿下をお支えするのだと仰って、マルクスはそんな殿下に仕えて、自分は殿下をお支えするのだと、そんな事を言っていたわ。
それなのに。
それなのに。どうしてあんな事になってしまったのかしら。心無い親族から、私達が実は女児を願っていて、マルクスを産んだ事で次の子が望めなくなってしまったと、そんな事を吹聴されたらしくて。きっと王子や騎士団長に重用されるマルクスへのやっかみだったのでしょうね。
なのにマルクスは...、
マルクスは、ある日、目覚めた朝から女の子になってしまったわ。
それまで「母上」と呼んでいたのが、こう、両手を揃えて「お母様、お早うございます」としおらしく言ったのを、私は今も忘れることが出来ないの。」
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