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マルクスの次兄が出版社を買い取った。王都郊外に印刷所を持つ小さな出版社である。
元々が印刷所を経営していたのを先代が酔狂であったらしく、趣味で書いた私小説を世に出したいが為に興した出版社であった。
当代はそこまで経営の熱意は無く、平民には珍しく大学で学んだ生粋の学者肌である彼は、常々経営から抜け出して学術研究に没頭したいと願っていた。
マルクスの次兄はそこで彼と契約を結び、印刷所ごと出版社を買い取ったのだと言う。元の経営者はその益で生涯研究に勤しむのだとほくほく顔で語ったらしい。
「先代様もご自分の願望を実現して、当代様も結局は同じ結果を得たのね。凄いわ、望みを引き寄せる力に脱帽だわ。
それに貴女のお次兄様。そんなピンポイントで利益の合致するターゲットを探し当てるだなんて、商人の嗅覚って恐ろしいわね。」
ヘンリエッタはマルクスの商才にいつも驚かされていたのだが、どうやらそれは彼の次兄も同じであるらしい。
「まあ、元は父が目を付けていたのよ。貴女の話しを打ち明けたら、父が次兄に力を貸してくれたの。」
「貴女のお父様って、噂以上のお方なのね。」
マクルズ子爵は兎に角鼻が利く。商才も有れば審美眼も有しており、彼の商会を贔屓にする貴族家は多い。爵位こそ高くはないが、彼と縁を結びたいのは貴族だけに限らない。そうして子爵は、ジェントリクラスも平民の富裕層も、そればかりか政治家達にも顔が利く。
「父は貴女に興味を持っているの。きっと早く小説を読みたいのね、何気に原稿を見せろと言って来るから。あれは多分待ち切れなかったのだわ。貴女、覚悟してね。小説は最速で書店に並ぶ事になるわ。気持ちをしっかり持たないと、取り残されてしまうわよ。ビジネスは生き馬の目を抜く勢いで背に乗る主人も振り落としてしまうのよ。」
「こ、心しておくわ。だけど、お見せするも何も、小説のストーリーは社交界に出回る私の噂そのものよ。」
「だからでしょう。噂の令嬢がそれをどんな物語に仕立て上げたのか愉しみなのではないかしら。」
「それってなかなか悪趣味なことよ。傷物令嬢の物語に興味をお持ちになるだなんて。でも感謝しなければならないわね。お陰で出版が早々に叶うのですもの。」
父には平民被れだと蔑まれた文筆業を、同じ貴族のマクルズ子爵からエールを受けている事に、ヘンリエッタは大きな勇気を得た。
それから、マルクスと一緒に書籍の詳細についてを話し合った。
文字に使用するフォントから始まり、紙質やら表紙の装丁やら、果ては栞の色まで事細かな諸々の事柄を一気に決め進んだ。
出版に関わる契約書も読み合わせて、そこにサインを書き込めば、ヘンリエッタの小説はこの世に息吹を吹き込まれることを約束されたのである。
「ヘンリエッタ。この処女作はこれから貴女に決して絶えることのない力をくれるわ。悩ましい物事も、上手く行かない壁にぶち当たっても、貴女の生み出した物語が生涯貴女を支えるでしょう。私はそんな貴女の横にいて、貴女が貴族に生まれた女としてこの世界を泳ぎ切るのを痛快な気分で眺めさせてもらうわね。」
青く澄んだ瞳は静謐な色を湛えて、マルクスが真実からヘンリエッタの人生の船出を喜んでくれているのだと教えてくれた。
こんな美しい瞳を持つたった一人の友人が、どうかこの先の人生で彼女らしく花開いて欲しいと、ヘンリエッタも心から願った。
閉塞した人生は、一度動き出したら止まらない。流れを止められていた川が堰を切って放たれる様に、滑車が急勾配を走るように、猛スピードでヘンリエッタを表舞台に引き摺り出す。それに振り回されないように、マルクスと二人、猛スピードをきゃあきゃあ言って楽しんで、二人でこの先に拓ける未来と言う名の大海原を泳いでみたい。
泳ぎ切ったその先の、海の向こうには何が見えるのだろう。
まだ始まったばかり、初めの一歩を踏み出す直前にいて、ヘンリエッタは鼓舞する胸のこの感情を生涯忘れないだろうと思うのだった。
冬を迎える頃に、粉雪が石畳を白銀に埋める街角で、臙脂を帯びた赤い布張りの表紙の本が人々の目を引いた。
『Hの悲劇』と金地で題が刷られている。
名のある貴族家に生まれたご令嬢が、出会った婚約者に恋心を抱く。その初恋こそが彼女の悲恋の幕開けであった。裏切り、謀略、王侯貴族世界の闇。寄る辺ないご令嬢を取り巻く貴族社会。産まれたての仔鹿が四方を霧に囲まれた森に取り残されて、そこから一歩、また一歩と歩き成長する、そんな儚い令嬢の半生を描いた短編小説である。
それは王都に一大ムーブメントを巻き起こした。初めはひっそりと、偶々手に取ったご令嬢の手からご友人の手へ。噂を聞いた御婦人の手からお茶会で同席した御婦人の手へ。貴族から貴族へ、平民から平民へ。静かなうねりは確かな潮流となって、聖夜を迎える頃にはセンセーショナルな物語として、人々の話題に上がるのであった。
作家の名は誰も聞いたことが無かった。では、新人作家による処女作であるのだろう。
作家の名とは、
マルガレーテ・M・ミッチェルと言う。
元々が印刷所を経営していたのを先代が酔狂であったらしく、趣味で書いた私小説を世に出したいが為に興した出版社であった。
当代はそこまで経営の熱意は無く、平民には珍しく大学で学んだ生粋の学者肌である彼は、常々経営から抜け出して学術研究に没頭したいと願っていた。
マルクスの次兄はそこで彼と契約を結び、印刷所ごと出版社を買い取ったのだと言う。元の経営者はその益で生涯研究に勤しむのだとほくほく顔で語ったらしい。
「先代様もご自分の願望を実現して、当代様も結局は同じ結果を得たのね。凄いわ、望みを引き寄せる力に脱帽だわ。
それに貴女のお次兄様。そんなピンポイントで利益の合致するターゲットを探し当てるだなんて、商人の嗅覚って恐ろしいわね。」
ヘンリエッタはマルクスの商才にいつも驚かされていたのだが、どうやらそれは彼の次兄も同じであるらしい。
「まあ、元は父が目を付けていたのよ。貴女の話しを打ち明けたら、父が次兄に力を貸してくれたの。」
「貴女のお父様って、噂以上のお方なのね。」
マクルズ子爵は兎に角鼻が利く。商才も有れば審美眼も有しており、彼の商会を贔屓にする貴族家は多い。爵位こそ高くはないが、彼と縁を結びたいのは貴族だけに限らない。そうして子爵は、ジェントリクラスも平民の富裕層も、そればかりか政治家達にも顔が利く。
「父は貴女に興味を持っているの。きっと早く小説を読みたいのね、何気に原稿を見せろと言って来るから。あれは多分待ち切れなかったのだわ。貴女、覚悟してね。小説は最速で書店に並ぶ事になるわ。気持ちをしっかり持たないと、取り残されてしまうわよ。ビジネスは生き馬の目を抜く勢いで背に乗る主人も振り落としてしまうのよ。」
「こ、心しておくわ。だけど、お見せするも何も、小説のストーリーは社交界に出回る私の噂そのものよ。」
「だからでしょう。噂の令嬢がそれをどんな物語に仕立て上げたのか愉しみなのではないかしら。」
「それってなかなか悪趣味なことよ。傷物令嬢の物語に興味をお持ちになるだなんて。でも感謝しなければならないわね。お陰で出版が早々に叶うのですもの。」
父には平民被れだと蔑まれた文筆業を、同じ貴族のマクルズ子爵からエールを受けている事に、ヘンリエッタは大きな勇気を得た。
それから、マルクスと一緒に書籍の詳細についてを話し合った。
文字に使用するフォントから始まり、紙質やら表紙の装丁やら、果ては栞の色まで事細かな諸々の事柄を一気に決め進んだ。
出版に関わる契約書も読み合わせて、そこにサインを書き込めば、ヘンリエッタの小説はこの世に息吹を吹き込まれることを約束されたのである。
「ヘンリエッタ。この処女作はこれから貴女に決して絶えることのない力をくれるわ。悩ましい物事も、上手く行かない壁にぶち当たっても、貴女の生み出した物語が生涯貴女を支えるでしょう。私はそんな貴女の横にいて、貴女が貴族に生まれた女としてこの世界を泳ぎ切るのを痛快な気分で眺めさせてもらうわね。」
青く澄んだ瞳は静謐な色を湛えて、マルクスが真実からヘンリエッタの人生の船出を喜んでくれているのだと教えてくれた。
こんな美しい瞳を持つたった一人の友人が、どうかこの先の人生で彼女らしく花開いて欲しいと、ヘンリエッタも心から願った。
閉塞した人生は、一度動き出したら止まらない。流れを止められていた川が堰を切って放たれる様に、滑車が急勾配を走るように、猛スピードでヘンリエッタを表舞台に引き摺り出す。それに振り回されないように、マルクスと二人、猛スピードをきゃあきゃあ言って楽しんで、二人でこの先に拓ける未来と言う名の大海原を泳いでみたい。
泳ぎ切ったその先の、海の向こうには何が見えるのだろう。
まだ始まったばかり、初めの一歩を踏み出す直前にいて、ヘンリエッタは鼓舞する胸のこの感情を生涯忘れないだろうと思うのだった。
冬を迎える頃に、粉雪が石畳を白銀に埋める街角で、臙脂を帯びた赤い布張りの表紙の本が人々の目を引いた。
『Hの悲劇』と金地で題が刷られている。
名のある貴族家に生まれたご令嬢が、出会った婚約者に恋心を抱く。その初恋こそが彼女の悲恋の幕開けであった。裏切り、謀略、王侯貴族世界の闇。寄る辺ないご令嬢を取り巻く貴族社会。産まれたての仔鹿が四方を霧に囲まれた森に取り残されて、そこから一歩、また一歩と歩き成長する、そんな儚い令嬢の半生を描いた短編小説である。
それは王都に一大ムーブメントを巻き起こした。初めはひっそりと、偶々手に取ったご令嬢の手からご友人の手へ。噂を聞いた御婦人の手からお茶会で同席した御婦人の手へ。貴族から貴族へ、平民から平民へ。静かなうねりは確かな潮流となって、聖夜を迎える頃にはセンセーショナルな物語として、人々の話題に上がるのであった。
作家の名は誰も聞いたことが無かった。では、新人作家による処女作であるのだろう。
作家の名とは、
マルガレーテ・M・ミッチェルと言う。
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