ヘンリエッタの再婚約

桃井すもも

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マルクスは、仕上がった原稿を持ち帰った。彼の次兄に持ち掛けると言っていた出版事業がどうなっているのかは聞かなかった。原稿がヘンリエッタの手を離れたその瞬間から物語は独り立ちを始めて、ヘンリエッタから巣立ったのだと思った。

マルクスが言うには、ここから装丁を考えたり販売価格や出版部数を決めたり、勿論その前に契約書類の遣り取りなど諸々の決め事があるらしい。取り敢えず、ヘンリエッタは彼等にお任せと云うていで丸投げを決め込んだ。

ヘンリエッタもそのへんの難しい物事を考えない訳ではなかったが、解らないものは仕方がない。何よりヘンリエッタは猛烈に眠かった。
昨晩は若さに任せてまたもや完徹となった。朝餉を食べ終えたら寝るかななんてのんびり考えていたのが、マルクスからの先触れが届いて午後一番で来ると言う。

そこからは、マルクスが訪れるまで只管ひたすら清書に勤しんだ。
ヘンリエッタは癖の無い美しい文字を書く。それは幼い頃からガヴァネスにも褒められていたもので、学園に入学してからも時折教師に読み易く品がある文字と評されていた。
その為か書く作業を厭わしく思う事が無い。寧ろ、黙々と書き仕事をするのは気持ちが鎮まり落ち着きを得られる。
だから、原稿を清書する作業には全集中で挑めるのだった。

清書とは物語を脳裏に再現する作業となる。書いてる自分が自分で書いた物語に没頭するという不思議な感覚に浸る。
文字に起こしただけなのに、喩えそれがどれほど拙い文章であったとしても、ひとつの物語としての確かな息吹が感じられた。

最早それは現実のヘンリエッタの回顧録ではなく、主人公を中心に展開される物語となって生き生きとヘンリエッタの目の前に現れる。書き記しながら読み込むうちに、ヘンリエッタは一人の読者として物語に没頭していくのであった。

急ぐ必要はなかったのに、胸の内に湧き上がる情熱を抑えられない。その情熱が冷めやらぬ内に仕上げてしまいたいと思った。後から何度も見返すうちに、きっとこの情熱は少しずつ冷めて薄まって、極まった情熱を欠いて失って行くのだと思われた。だから、どうしても今日仕上げてマルクスに預けたいと思った。


「お嬢様、さあさあ、お休み下さいませ。昨晩からずっと頑張られていらっしゃったのですから。」

例の如く、ブリジットが肩や首をモミモミしてくれて、寝台でうつ伏せになって揉んでもらう内に、ヘンリエッタは深い眠りに陥った。


「やっぱりこうなるのね。」

目が覚めたのは、朝だった。
朝の日射しが眩しい。
朝に目覚めるのは至極真っ当な事である。

しかしどうやらヘンリエッタは、昨日マルクスが帰った後、ブリジットに凝り固まった身体をモミモミしてもらいながら入眠して、今の今まで眠っていたらしい。

ほんの二度ほど完徹しただけなのに、すっかり夜型体質になってしまった。これこそ作家体質ではあるまいか。

真夜中のあの静謐な空気が好きだ。思考が澄んで物事を深く掘り下げて考えられる。煩わしい日常から切り離されて、誰にも邪魔されない独りきりの時間を、ヘンリエッタはとても心地良いと思った。

「やだわ、すっかり夜型人間になっちゃったわ。」

早朝の冷え込みに、寒っ、ともう一度毛布に包まる。
もうひと寝しちゃおう。二度寝ってほんとに気持ち良いわね。惰眠に蝕まれていく幸せ~。
ヘンリエッタはこの日、完徹の後に貪る惰眠の歓びを知ってしまった。



週明けの学園は、今だ夜会の喧騒が抜けきらぬまま、学生達にその余韻と興奮を残していた。
あちらこちらから聞こえるのは、夜会で誰と会ったとか、誰とダンスをしたとか、ドレスがどんなであったとか、誰と誰がどうしたとか。
早々に帰宅したヘンリエッタと違って、皆は最後まで楽しんだ様である。

参加者が多かった為か、幸いヘンリエッタを目にした学友は居ないようであった。彼女達は大抵学生同士で交流していたし、ヘンリエッタはどちらかと言えば、熟女達、失礼、御婦人方との社交に励んでいたから、学生達との接点が無かった。

唯一人、ロバートばかりはヘンリエッタの姿を認めていたらしい。

「ヘンリエッタ嬢、美しい装いであったね。」

そう話し掛けられて、

「有難うございます。ロバート殿下はどちらにいらしたので?」

そう問うてみるも、ロバートははっきりとした事を答えなかった。
ただ、
「マクルズ子爵家の令息とはどこで知り合ったの?」
と、質問を質問で返された。

「以前から、マクルズ子爵家の商会を利用していたのです。マルクス様は外商として邸を訪って下さっておりましたから、ドレスをお願いしました御縁で。」

そう答えればロバートは、
「それでエスコートを頼んだのかな?」
と、再び質問を重ねた。

「ええ。私にはエスコートして下さるお相手がおりませんでしたから。」

有りの儘を答えたヘンリエッタを、ロバートは苦い物を噛んだような顔で見つめた。
ええ~、困るんですけど、私にそんなお顔をされても。
内心、それもこれも不誠実な婚約者が原因で、私はなんにも悪くないんですと、文句たらたらとなる。

「君がエスコートについては大丈夫だと言っていたから、」

「ええ。確かにその様にお答え致しましたわ。マルクス様がエスコートして下さると仰って下さいましたので。」

「しまった、リサーチ不足であった、私の詰めが甘かった。やはり私がエスコートすべきで...ゴニョゴニョ」

ロバートらしからぬ歯切れの悪いゴニョゴニョに、ヘンリエッタはちょっと引いてしまった。
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