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「M&M?何だか美味しそうなお名前ね。」
マルクスが興した商会とは『M&M商会』と言って、自身の名を冠したものであった。
「御免なさいね、ヘンリエッタ。屋号はもう登記済みなのよ。貴女の名を入れたいところなのだけれど。」
翌日の午後、マルクスは約束通りヘンリエッタの邸を訪れた。
どんな早業を使ったのか、ヘンリエッタでは皆目訳の解らない難解な単語が並ぶ分厚い契約書類を携えて来た。
その一枚一枚に、これはここ、それはこちらと言われる通りにサインを記す。
内容がさっぱり頭に入って来ないのにも関わらず、ヘンリエッタはマルクスに全幅の信頼を置いてサインをした。
裏切られたならそれで良い。元より先細りの人生だったのをひと時の夢を与えて貰ったのだと、そう思うだけで感謝出来た。
それに、裏切られるのなら慣れっこだ。
何故だか世間はヘンリエッタに世知辛い。
信じて慕って愛情を傾けた人にも幼い頃からの友人と思った令嬢達からも裏切られた。これって立派な"裏切られのプロフェッショナル"であろう。哀しいネーミングも横文字なら少しばかり格好良い。
「気にしないで、マリー。私は名も身分も明かさない覆面共同経営者よ。屋号に私のイニシャルは不要なの。」
「覆面共同経営者って、とてもミステリアスな存在ね。良いわね、それで良いでしょう。貴女、経営者としては表舞台には立ちたくないのでしょう?それなら、私の友人枠で夜会に出れば良いのよ。どうせ貴女の名ばかり婚約者は貴女に対して放置プレイを決め込むのでしょうから。」
「放置プレイ...」
「来週末の夜会、不貞男が貴女に放置プレイを貫くのなら、良いわ私が貴女をエスコートするわ。一層のこと、放置プレイ不貞男からの誘いが来てもお断りしてしまえば良いのよ。私の名を出して良いわ。キメキメに決めてエスコートしてあげるから。」
見てらっしゃい、とマルクスは鼻息を荒げた。ちょっと女の子がそんな事しちゃ駄目よと注意をすれば、シュンとしたのが可愛らしかった。
来週いっぱいは父子爵の商会に勤務して、その後は新たな商会の経営に移ると言って、マルクスは分厚い原稿用紙の束を置いて行った。原稿用紙の中央下部にはM&Mの名入れがされており、マルクスがヘンリエッタの執筆の為に一日で用意してくれたのだと解った。
この世にたった一つ残ってくれた友情に涙が滲む。それをぐっと飲み込んで、ヘンリエッタは机に向かった。
書きたい事は既に決まっている。なにせ、現在進行形で我が身で体験中の事であるから、登場人物の名をちょちょっと変えて、粗い筋書きで思うまま書き散らしてみた。
一度書き出してしまえば、その後はスルスルと言葉が出てくる。後で手直しをするのだし、言い回しも誤字も気にせずに、折角勢いついた言葉達を途切れさせない様に書き連ねた。
あんな事もあった、そうだ、その前にこんな事もあったのだ。
出会いから別れ、再びの出会い。
記憶の限りを思い出し、そこへ途中途中、エキストラ的に家族の事も書いてみる。
書き出すほどに酷い有様だ。こんな経験、珍しくは無いかもしれないが、そうそうあるわけでも無いだろう。
友人が一人また一人と離れて行く段では、これ、思った以上にキツいわと涙が滲んだ。
ブリジットには部屋を出てもらい独りになって、只管短い半生に向き合いながら文字に起こす。
コイツ、とんでもない奴だなと書きながら思ったのは、やはり第二王子殿下であったし、隣国王女の事なんて、婚約者のいる他国の貴族に擦り寄るか?なんてなかなか不敬な事を考えながら書き進めた。
寝食を忘れて、明日は学園があると言うのに夜更けになっても書き続け、インクがみるみる内に減っていくのにも気が付かなかった。
手首が痛い、腰が痛い、肩はガチガチに固まってしまった。
それでも手が止まらないのは、書けば書くほどそれは誰にも言えなかった心の漏らす発露の言葉であったから。時には涙が零れる目元をハンカチで押さえながら、尚も手は止まることを許さない。
その気迫たるや、執筆の神が乗り移った様に近寄りがたい鬼気迫る覇気すら放って、ブリジットも母も声を掛けることが出来なかった。
ヘンリエッタは気が付いた。
これは私の物語。私の心の痛み、心の叫び、心の歓びを文字に記して浄化しているのだわ。
これは供養よ。泣いて哀しんで誰にも理解されなかった心の供養。
泣かないで恋心、貴女は恋をしただけなのよ、与えられた日々を精一杯生きて来ただけなのよ、頑張って来たのよヘンリエッタ、貴女は得難い人生を生きて来た、そうしてこれからも我が人生を生きて行く。
「疲れた。」
「当たり前です。」
朝日が眩しいと思ったら、真逆の夜明けを迎えていた。手元に日射しが伸びて来て、漸くヘンリエッタは頭を上げた。
一言、今一番言いたい言葉を呟いた途端、背中からブリジットの声がした。
「お疲れ様です、お嬢様。でも無理は禁物です。貴方様の小説家人生は始まったばかり。これから先は長いのですよ。御身体は何よりの資本です、御自分をもっと大切になさって下さいませ。」
ブリジットはそう言って、ヘンリエッタの肩をもみもみ揉んでくれた。それからカチカチの首筋を、背中を、腕を、痛い痛いと言うヘンリエッタにお構い無くもみもみモミモミ揉んでくれた。
最後は二人ともくずくず涙と鼻水を溢して、やだわ汚いわよブリジット、お嬢様こそばっちいですわと、泣きながら二人して笑った。
マルクスが興した商会とは『M&M商会』と言って、自身の名を冠したものであった。
「御免なさいね、ヘンリエッタ。屋号はもう登記済みなのよ。貴女の名を入れたいところなのだけれど。」
翌日の午後、マルクスは約束通りヘンリエッタの邸を訪れた。
どんな早業を使ったのか、ヘンリエッタでは皆目訳の解らない難解な単語が並ぶ分厚い契約書類を携えて来た。
その一枚一枚に、これはここ、それはこちらと言われる通りにサインを記す。
内容がさっぱり頭に入って来ないのにも関わらず、ヘンリエッタはマルクスに全幅の信頼を置いてサインをした。
裏切られたならそれで良い。元より先細りの人生だったのをひと時の夢を与えて貰ったのだと、そう思うだけで感謝出来た。
それに、裏切られるのなら慣れっこだ。
何故だか世間はヘンリエッタに世知辛い。
信じて慕って愛情を傾けた人にも幼い頃からの友人と思った令嬢達からも裏切られた。これって立派な"裏切られのプロフェッショナル"であろう。哀しいネーミングも横文字なら少しばかり格好良い。
「気にしないで、マリー。私は名も身分も明かさない覆面共同経営者よ。屋号に私のイニシャルは不要なの。」
「覆面共同経営者って、とてもミステリアスな存在ね。良いわね、それで良いでしょう。貴女、経営者としては表舞台には立ちたくないのでしょう?それなら、私の友人枠で夜会に出れば良いのよ。どうせ貴女の名ばかり婚約者は貴女に対して放置プレイを決め込むのでしょうから。」
「放置プレイ...」
「来週末の夜会、不貞男が貴女に放置プレイを貫くのなら、良いわ私が貴女をエスコートするわ。一層のこと、放置プレイ不貞男からの誘いが来てもお断りしてしまえば良いのよ。私の名を出して良いわ。キメキメに決めてエスコートしてあげるから。」
見てらっしゃい、とマルクスは鼻息を荒げた。ちょっと女の子がそんな事しちゃ駄目よと注意をすれば、シュンとしたのが可愛らしかった。
来週いっぱいは父子爵の商会に勤務して、その後は新たな商会の経営に移ると言って、マルクスは分厚い原稿用紙の束を置いて行った。原稿用紙の中央下部にはM&Mの名入れがされており、マルクスがヘンリエッタの執筆の為に一日で用意してくれたのだと解った。
この世にたった一つ残ってくれた友情に涙が滲む。それをぐっと飲み込んで、ヘンリエッタは机に向かった。
書きたい事は既に決まっている。なにせ、現在進行形で我が身で体験中の事であるから、登場人物の名をちょちょっと変えて、粗い筋書きで思うまま書き散らしてみた。
一度書き出してしまえば、その後はスルスルと言葉が出てくる。後で手直しをするのだし、言い回しも誤字も気にせずに、折角勢いついた言葉達を途切れさせない様に書き連ねた。
あんな事もあった、そうだ、その前にこんな事もあったのだ。
出会いから別れ、再びの出会い。
記憶の限りを思い出し、そこへ途中途中、エキストラ的に家族の事も書いてみる。
書き出すほどに酷い有様だ。こんな経験、珍しくは無いかもしれないが、そうそうあるわけでも無いだろう。
友人が一人また一人と離れて行く段では、これ、思った以上にキツいわと涙が滲んだ。
ブリジットには部屋を出てもらい独りになって、只管短い半生に向き合いながら文字に起こす。
コイツ、とんでもない奴だなと書きながら思ったのは、やはり第二王子殿下であったし、隣国王女の事なんて、婚約者のいる他国の貴族に擦り寄るか?なんてなかなか不敬な事を考えながら書き進めた。
寝食を忘れて、明日は学園があると言うのに夜更けになっても書き続け、インクがみるみる内に減っていくのにも気が付かなかった。
手首が痛い、腰が痛い、肩はガチガチに固まってしまった。
それでも手が止まらないのは、書けば書くほどそれは誰にも言えなかった心の漏らす発露の言葉であったから。時には涙が零れる目元をハンカチで押さえながら、尚も手は止まることを許さない。
その気迫たるや、執筆の神が乗り移った様に近寄りがたい鬼気迫る覇気すら放って、ブリジットも母も声を掛けることが出来なかった。
ヘンリエッタは気が付いた。
これは私の物語。私の心の痛み、心の叫び、心の歓びを文字に記して浄化しているのだわ。
これは供養よ。泣いて哀しんで誰にも理解されなかった心の供養。
泣かないで恋心、貴女は恋をしただけなのよ、与えられた日々を精一杯生きて来ただけなのよ、頑張って来たのよヘンリエッタ、貴女は得難い人生を生きて来た、そうしてこれからも我が人生を生きて行く。
「疲れた。」
「当たり前です。」
朝日が眩しいと思ったら、真逆の夜明けを迎えていた。手元に日射しが伸びて来て、漸くヘンリエッタは頭を上げた。
一言、今一番言いたい言葉を呟いた途端、背中からブリジットの声がした。
「お疲れ様です、お嬢様。でも無理は禁物です。貴方様の小説家人生は始まったばかり。これから先は長いのですよ。御身体は何よりの資本です、御自分をもっと大切になさって下さいませ。」
ブリジットはそう言って、ヘンリエッタの肩をもみもみ揉んでくれた。それからカチカチの首筋を、背中を、腕を、痛い痛いと言うヘンリエッタにお構い無くもみもみモミモミ揉んでくれた。
最後は二人ともくずくず涙と鼻水を溢して、やだわ汚いわよブリジット、お嬢様こそばっちいですわと、泣きながら二人して笑った。
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