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その日はマルクスが邸を訪れていた。夜会の為に発注していたドレスは仮縫いが終わり、その試着と微調整の為であった。
「次の御用命は婚礼のドレスでしょうか。」
「それは気が早いわ。」
マルクスの言葉をヘンリエッタが否定する。実のところ、婚約は結んだものの婚姻の日取りは未定であった。
蜂蜜たっぷりのミルクティーをひと口飲んで、マルクスが目を細める。男の娘のマルクスは、甘々の甘党である。ところがマルクスは、次の瞬間にはその表情をがらりと変えた。
季節は秋の終わりを極めていた。もうすぐ冬を迎える。学園の卒業まで、残すところ半年を切っている。婚約者のいる令嬢達の大半が、学園の卒業と同時か半年以内に婚姻する。
つい先日まで、卒業後は修道院直行かと身辺整理に勤しんでいたヘンリエッタは、神の悪戯か元の婚約者と再婚約の運びとなった。
けれど、だからといって直ぐ様婚姻の日取りまで決まると言うことは無く、先々の事は未定であった。婚約とは飽くまで婚姻の約束である。その約束が果たされない事があることをヘンリエッタは知っている。
この婚約に見えない影を落としていたのは、過去の二人の事情ばかりでなく、今のハロルドの状態にあった。
あの耳飾りを受け取ってハロルドの申し込みに諾と答えたその日から、ハロルドとは一度も会っていない。
王族に侍るハロルドが、一般的な文官の様に規則正しい勤務である筈もなく、それは学生のヘンリエッタにも容易く想像の付く事である。
それでも再婚約の前に、再び交流を持つようになってからのハロルドは、屡々多忙の間を縫って邸を訪れていた。その際も、前日までに先触れの文を寄越していたから、城勤めであっても先々の予定は付けられたのだろう。
それが何故だか、ハロルドとはぷつりと交流が途絶えてしまって、文すら届かなくなった。文すら無いのだからご機嫌伺いの花束が届くだなんて有り様筈もない。
これには流石の母も眉を顰めた。
おっとりしていた母は、最近では豪胆な気質をちらちらチラチラちら見せして、ヘンリエッタは幼い頃から知っていた母とは仮初の姿であって、この何処か吹っ切った肝の据わった母こそが本来の母であるのだと思い始めている。
その母は、熱意を持って再婚約を望んだのに、釣った魚には餌をやらない主義らしいハロルドに是非とも梃入れしてやろうと手薬煉を引いているように見える。
正直、怒った母は恐ろしい。父に見せた仄暗い不穏な気配を纏った母の姿は怖かった。
それに、ハロルドもハロルドだ。母が不審を抱くのも当然で、実はヘンリエッタだって気になっていた。仕方無いだろう。ハロルドを信じてこの再婚約を受け入れてしまったのに、婚約誓約書にサインをした直後から、ハロルドとは音信不通になったのだから。
「何、落ち着いちゃってらっしゃるの?」
「え、」
マルクスが眉を潜める。
「伺いましたわ。噂で。」
「えーと、何を?」
「貴女様のご婚約者様。」
「な、なにかしら?」
「おとぼけにならずとも宜しいわ。あの方、身勝手にも貴女様へ二度目の婚約を申し込んでおきながら、」
「お、おきながら?」
「エレノア王女殿下に侍っておられるのだとか。」
それは初耳。いやいや、落ち着いて驚いている場合ではないわ、いや自分、何を言ってるの?
脳内で軽くパニックに陥るくらいは動揺した。
「えーっと、聞き間違いだったかしら。もう一度聞いても良い?」
マルクスに阿ねいて尋ねて見れば、マルクスは潜めた眉を顰めて眉間に縦皺を寄せた。
「聞こえなかったのですか?耳かっぽじいてお聞きになってね。貴女様のご婚約者様、エ、レ、ノ、ア、王女にくっついていらっしゃるそうですわよ。」
「真逆、」
「最近、ハロルド様とはお会いになっていらっしゃるので?」
「いいえ、」
「文は届いているので?」
「い、いいえ、」
「贈り物は?」
「い、いいえ、」
「お花は?」
「い、一輪も頂いてないわ、」
「もうそれは黒ですわ、ハロルド様は真っ黒よ。」
「真っ黒...」
マルクスは、そこで瞬時に男の娘の顔を脱ぎ捨てて、
「ヘンリエッタ嬢、早急に確かめられた方が宜しい」
と、凛々しい貴公子の仮面を被ってヘンリエッタの重い尻に火を付けようとけしかけた。
「貴女は何も心配しなくて良いのよ、ヘンリエッタ。」
帰って行くマルクスを見送っていると、背後から声を掛けられた。くるりと振り返ったヘンリエッタに、
「私が確かめておくから。ちょっと確認したい事もあるし。」
母はうっそりと口元だけに笑みを浮かべた。
ハロルド様、逃げて。貴方様、母に目を付けられているわ。母は実はおっかないのよ。怒らせてはいけない人なのよ。現に父は最近すっかり萎れてしまった。母に愛想を尽かされて、半身をあの世に置いているように、全然全く元気が無い。
貴方様も父の様にはなりたくないでしょう?
元はと言えば全てハロルドに原因があるのに、ヘンリエッタはついハロルドを擁護してしまいそうになる。
いやいやいやいや、ハロルド様が悪いのよ。危うく情けを掛けそうになって思いとどまった。
そんな風に冗談めいた風に流してしまわねば、ヘンリエッタは心が揺れ動いて堪らない。
第二王子殿下のエドワードも、隣国第二王女殿下のエレノアも、ヘンリエッタにとっては鬼門である。もう「第二」と聞くだけで自動的に嫌になってしまうのだ。
「次の御用命は婚礼のドレスでしょうか。」
「それは気が早いわ。」
マルクスの言葉をヘンリエッタが否定する。実のところ、婚約は結んだものの婚姻の日取りは未定であった。
蜂蜜たっぷりのミルクティーをひと口飲んで、マルクスが目を細める。男の娘のマルクスは、甘々の甘党である。ところがマルクスは、次の瞬間にはその表情をがらりと変えた。
季節は秋の終わりを極めていた。もうすぐ冬を迎える。学園の卒業まで、残すところ半年を切っている。婚約者のいる令嬢達の大半が、学園の卒業と同時か半年以内に婚姻する。
つい先日まで、卒業後は修道院直行かと身辺整理に勤しんでいたヘンリエッタは、神の悪戯か元の婚約者と再婚約の運びとなった。
けれど、だからといって直ぐ様婚姻の日取りまで決まると言うことは無く、先々の事は未定であった。婚約とは飽くまで婚姻の約束である。その約束が果たされない事があることをヘンリエッタは知っている。
この婚約に見えない影を落としていたのは、過去の二人の事情ばかりでなく、今のハロルドの状態にあった。
あの耳飾りを受け取ってハロルドの申し込みに諾と答えたその日から、ハロルドとは一度も会っていない。
王族に侍るハロルドが、一般的な文官の様に規則正しい勤務である筈もなく、それは学生のヘンリエッタにも容易く想像の付く事である。
それでも再婚約の前に、再び交流を持つようになってからのハロルドは、屡々多忙の間を縫って邸を訪れていた。その際も、前日までに先触れの文を寄越していたから、城勤めであっても先々の予定は付けられたのだろう。
それが何故だか、ハロルドとはぷつりと交流が途絶えてしまって、文すら届かなくなった。文すら無いのだからご機嫌伺いの花束が届くだなんて有り様筈もない。
これには流石の母も眉を顰めた。
おっとりしていた母は、最近では豪胆な気質をちらちらチラチラちら見せして、ヘンリエッタは幼い頃から知っていた母とは仮初の姿であって、この何処か吹っ切った肝の据わった母こそが本来の母であるのだと思い始めている。
その母は、熱意を持って再婚約を望んだのに、釣った魚には餌をやらない主義らしいハロルドに是非とも梃入れしてやろうと手薬煉を引いているように見える。
正直、怒った母は恐ろしい。父に見せた仄暗い不穏な気配を纏った母の姿は怖かった。
それに、ハロルドもハロルドだ。母が不審を抱くのも当然で、実はヘンリエッタだって気になっていた。仕方無いだろう。ハロルドを信じてこの再婚約を受け入れてしまったのに、婚約誓約書にサインをした直後から、ハロルドとは音信不通になったのだから。
「何、落ち着いちゃってらっしゃるの?」
「え、」
マルクスが眉を潜める。
「伺いましたわ。噂で。」
「えーと、何を?」
「貴女様のご婚約者様。」
「な、なにかしら?」
「おとぼけにならずとも宜しいわ。あの方、身勝手にも貴女様へ二度目の婚約を申し込んでおきながら、」
「お、おきながら?」
「エレノア王女殿下に侍っておられるのだとか。」
それは初耳。いやいや、落ち着いて驚いている場合ではないわ、いや自分、何を言ってるの?
脳内で軽くパニックに陥るくらいは動揺した。
「えーっと、聞き間違いだったかしら。もう一度聞いても良い?」
マルクスに阿ねいて尋ねて見れば、マルクスは潜めた眉を顰めて眉間に縦皺を寄せた。
「聞こえなかったのですか?耳かっぽじいてお聞きになってね。貴女様のご婚約者様、エ、レ、ノ、ア、王女にくっついていらっしゃるそうですわよ。」
「真逆、」
「最近、ハロルド様とはお会いになっていらっしゃるので?」
「いいえ、」
「文は届いているので?」
「い、いいえ、」
「贈り物は?」
「い、いいえ、」
「お花は?」
「い、一輪も頂いてないわ、」
「もうそれは黒ですわ、ハロルド様は真っ黒よ。」
「真っ黒...」
マルクスは、そこで瞬時に男の娘の顔を脱ぎ捨てて、
「ヘンリエッタ嬢、早急に確かめられた方が宜しい」
と、凛々しい貴公子の仮面を被ってヘンリエッタの重い尻に火を付けようとけしかけた。
「貴女は何も心配しなくて良いのよ、ヘンリエッタ。」
帰って行くマルクスを見送っていると、背後から声を掛けられた。くるりと振り返ったヘンリエッタに、
「私が確かめておくから。ちょっと確認したい事もあるし。」
母はうっそりと口元だけに笑みを浮かべた。
ハロルド様、逃げて。貴方様、母に目を付けられているわ。母は実はおっかないのよ。怒らせてはいけない人なのよ。現に父は最近すっかり萎れてしまった。母に愛想を尽かされて、半身をあの世に置いているように、全然全く元気が無い。
貴方様も父の様にはなりたくないでしょう?
元はと言えば全てハロルドに原因があるのに、ヘンリエッタはついハロルドを擁護してしまいそうになる。
いやいやいやいや、ハロルド様が悪いのよ。危うく情けを掛けそうになって思いとどまった。
そんな風に冗談めいた風に流してしまわねば、ヘンリエッタは心が揺れ動いて堪らない。
第二王子殿下のエドワードも、隣国第二王女殿下のエレノアも、ヘンリエッタにとっては鬼門である。もう「第二」と聞くだけで自動的に嫌になってしまうのだ。
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