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ハロルドが隣国へ留学する前に、ヘンリエッタはこの店を一度訪れている。
その頃、ヘンリエッタは王立の貴族学園への入学を間近に控えており、ハロルドもまた学園を卒業したばかりであった。
隣国へ渡る直前に、ハロルドは今日の様にヘンリエッタを邸まで迎えに来てくれた。何処に行くのかも明かさぬまま店の前に到着すると、ハロルドはヘンリエッタへ手を差し伸べて馬車から降ろしてくれた。
十代の若き恋人達がこの店で購入出来るものなど限られている。伯爵家嫡男とは云え無位の学生の身分である。自由になる私財も少なかっただろうハロルドは、王都で屈指の宝飾店でヘンリエッタに指輪をひとつ贈ってくれた。
小さなサファイアが一つだけ立て爪に嵌められている指輪であった。
「次に会うときには、二人揃いの指輪を買おう。」
一年間の留学を終えたなら、婚姻式が執り行われる。神の御前で指輪を交わすのだと、ヘンリエッタは露ほどの疑いも持たずに信じていた。
青い石はとても小さかったが、日射しに透かすとハロルドの瞳を思い起こさせた。
ヘンリエッタはそれを大切にチェーンに通して肌身に付けた。それを僅か半年の後に手放す事になるなんて、僅かにも思わなかった。
小さなサファイアが嵌められた指輪は、今はヘンリエッタではない誰かの指を飾っている筈である。今、ヘンリエッタの身の回りには、ハロルドから贈られた物は一つも残されてはいない。それをハロルドが知ったとしても、彼はヘンリエッタを責めないだろう。
今では王族の側近として禄を食むハロルドは、あの頃とは比べ物にならない大粒のサファイアを耳飾りに仕立てて贈ってくれた。貴婦人が身に着けるのに、何処に出ても相応しい装飾品である。
ハロルドが言いたい事の意味を理解した上で、ヘンリエッタはその贈り物を受け取った。
ダウンゼン伯爵家嫡男とノーザランド伯爵令嬢との再婚約は、静かに、しかし瞬く内に貴族達の間に広まった。
曰く付きの二人である。スキャンダラスな過去がある。
隣国王女へ心を移した挙句、その王女を仕える王子に奪われた。不実を通した不貞の末に最初の婚約を解消した二人が、何があって今再び婚約を結んだのかと、貴族達も陰では噂しただろう。しかし、両家の権勢が大きい為に、表立って噂が聞こえることは無かった。
あの日、宝飾店を出たハロルドは、その足でヘンリエッタの邸を訪った。仕事の早いハロルドは、その事を事前に両親に伝えていたらしい。
父は硬い表情で二人を出迎えた。ウィリアムも共にいて、どんな顔をすれば良いのか分からずに戸惑っている様であった。母ばかりがにこにこと笑みを湛えて、ハロルドを晩餐の席に誘っていた。
翌日には両家の話し合いが為されて、父とダウンゼン伯爵との間で書類が交わされた。どんな話し合いが持たれたのか、父はヘンリエッタには明かさなかった。それを確かめる事をしないまま、ヘンリエッタは帰宅した父が携えてきた書類にサインをした。
婚約誓約書には通り一遍の決まり文句が並んでいた。それを一読してから署名するヘンリエッタを、父は言葉も無く見詰めていた。
父は一体何を思っているのだろう。最近は言葉少なな父である。娘の婚約に自身の過去を重ねている様にヘンリエッタには思えたが、ヘンリエッタから父に何かを問う事はしなかった。
人生とは、何処で何が起こるか解らない。自分の気持ちすらままならないものである。ハロルドとは、良くも悪くも二度と再び交わらない絶縁の関係だと思っていた。
それがエドワード殿下の文を発端にして、再び縁が交わった。
いつの間にか茶飲み元婚約者という可怪しな間柄になってしまった。それがこんな事になるだなんて。
サファイアの耳飾りを嵌めたヘンリエッタにハロルドは、
「もう一度、もう一度、君に婚約を申し込みたい。もう一度、私を受け入れてはくれないか。」
何処にも逃がすまいとする様にヘンリエッタの手を握り締め、ハロルドは再びの婚約を申し込んだ。
「僭越ながら、私が立会人となりましょう。お二人のご婚約のご意志を今ここに見届けさせて頂きましょう。」
宝飾店の支配人がそう言って、ハロルドと視線を交わして頷く。
ヘンリエッタは、懇願するにも見えるハロルドの強い視線を間近に受け止めた。
聞きたい事が残っている。確かめたい事が残っている。二年前に、二年の間に何があったのかを、一つも知らされてはいなかった。
どうする、ヘンリエッタ。
自問自答をしてみたが、そんなのは初めから意味の無い事であった。
胸が震えて歓喜している。とんでもない疵を負わせた酷い男である筈なのに、ヘンリエッタの心に住まう小さなヘンリエッタが小躍りしている。
母の言葉を思い出し、それを自分に問い掛けて、そうしてヘンリエッタは人生の大きな一歩を踏み出す覚悟を決めた。
「お受け致しましょう。」
ヘンリエッタの細い声が部屋に響く。
「お目出度うございます、ダウンゼン様。」
支配人が手を伸ばし、二人はそこで固く握手を交わす。その様を呆然と見詰めるヘンリエッタは、私、承知してしまったわ、と自分で返事をしておきながら信じられない気持ちでいた。
ヘンリエッタの邸に戻る馬車の中で、ハロルドは約束をした。
「君に全てを打ち明けたい。もう少し待ってはくれないか。」
その言葉だけを頼りにして、ヘンリエッタはハロルドを信じる事を決めたのであった。
その頃、ヘンリエッタは王立の貴族学園への入学を間近に控えており、ハロルドもまた学園を卒業したばかりであった。
隣国へ渡る直前に、ハロルドは今日の様にヘンリエッタを邸まで迎えに来てくれた。何処に行くのかも明かさぬまま店の前に到着すると、ハロルドはヘンリエッタへ手を差し伸べて馬車から降ろしてくれた。
十代の若き恋人達がこの店で購入出来るものなど限られている。伯爵家嫡男とは云え無位の学生の身分である。自由になる私財も少なかっただろうハロルドは、王都で屈指の宝飾店でヘンリエッタに指輪をひとつ贈ってくれた。
小さなサファイアが一つだけ立て爪に嵌められている指輪であった。
「次に会うときには、二人揃いの指輪を買おう。」
一年間の留学を終えたなら、婚姻式が執り行われる。神の御前で指輪を交わすのだと、ヘンリエッタは露ほどの疑いも持たずに信じていた。
青い石はとても小さかったが、日射しに透かすとハロルドの瞳を思い起こさせた。
ヘンリエッタはそれを大切にチェーンに通して肌身に付けた。それを僅か半年の後に手放す事になるなんて、僅かにも思わなかった。
小さなサファイアが嵌められた指輪は、今はヘンリエッタではない誰かの指を飾っている筈である。今、ヘンリエッタの身の回りには、ハロルドから贈られた物は一つも残されてはいない。それをハロルドが知ったとしても、彼はヘンリエッタを責めないだろう。
今では王族の側近として禄を食むハロルドは、あの頃とは比べ物にならない大粒のサファイアを耳飾りに仕立てて贈ってくれた。貴婦人が身に着けるのに、何処に出ても相応しい装飾品である。
ハロルドが言いたい事の意味を理解した上で、ヘンリエッタはその贈り物を受け取った。
ダウンゼン伯爵家嫡男とノーザランド伯爵令嬢との再婚約は、静かに、しかし瞬く内に貴族達の間に広まった。
曰く付きの二人である。スキャンダラスな過去がある。
隣国王女へ心を移した挙句、その王女を仕える王子に奪われた。不実を通した不貞の末に最初の婚約を解消した二人が、何があって今再び婚約を結んだのかと、貴族達も陰では噂しただろう。しかし、両家の権勢が大きい為に、表立って噂が聞こえることは無かった。
あの日、宝飾店を出たハロルドは、その足でヘンリエッタの邸を訪った。仕事の早いハロルドは、その事を事前に両親に伝えていたらしい。
父は硬い表情で二人を出迎えた。ウィリアムも共にいて、どんな顔をすれば良いのか分からずに戸惑っている様であった。母ばかりがにこにこと笑みを湛えて、ハロルドを晩餐の席に誘っていた。
翌日には両家の話し合いが為されて、父とダウンゼン伯爵との間で書類が交わされた。どんな話し合いが持たれたのか、父はヘンリエッタには明かさなかった。それを確かめる事をしないまま、ヘンリエッタは帰宅した父が携えてきた書類にサインをした。
婚約誓約書には通り一遍の決まり文句が並んでいた。それを一読してから署名するヘンリエッタを、父は言葉も無く見詰めていた。
父は一体何を思っているのだろう。最近は言葉少なな父である。娘の婚約に自身の過去を重ねている様にヘンリエッタには思えたが、ヘンリエッタから父に何かを問う事はしなかった。
人生とは、何処で何が起こるか解らない。自分の気持ちすらままならないものである。ハロルドとは、良くも悪くも二度と再び交わらない絶縁の関係だと思っていた。
それがエドワード殿下の文を発端にして、再び縁が交わった。
いつの間にか茶飲み元婚約者という可怪しな間柄になってしまった。それがこんな事になるだなんて。
サファイアの耳飾りを嵌めたヘンリエッタにハロルドは、
「もう一度、もう一度、君に婚約を申し込みたい。もう一度、私を受け入れてはくれないか。」
何処にも逃がすまいとする様にヘンリエッタの手を握り締め、ハロルドは再びの婚約を申し込んだ。
「僭越ながら、私が立会人となりましょう。お二人のご婚約のご意志を今ここに見届けさせて頂きましょう。」
宝飾店の支配人がそう言って、ハロルドと視線を交わして頷く。
ヘンリエッタは、懇願するにも見えるハロルドの強い視線を間近に受け止めた。
聞きたい事が残っている。確かめたい事が残っている。二年前に、二年の間に何があったのかを、一つも知らされてはいなかった。
どうする、ヘンリエッタ。
自問自答をしてみたが、そんなのは初めから意味の無い事であった。
胸が震えて歓喜している。とんでもない疵を負わせた酷い男である筈なのに、ヘンリエッタの心に住まう小さなヘンリエッタが小躍りしている。
母の言葉を思い出し、それを自分に問い掛けて、そうしてヘンリエッタは人生の大きな一歩を踏み出す覚悟を決めた。
「お受け致しましょう。」
ヘンリエッタの細い声が部屋に響く。
「お目出度うございます、ダウンゼン様。」
支配人が手を伸ばし、二人はそこで固く握手を交わす。その様を呆然と見詰めるヘンリエッタは、私、承知してしまったわ、と自分で返事をしておきながら信じられない気持ちでいた。
ヘンリエッタの邸に戻る馬車の中で、ハロルドは約束をした。
「君に全てを打ち明けたい。もう少し待ってはくれないか。」
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