ヘンリエッタの再婚約

桃井すもも

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「う、うう、うううっ」
「だ、大丈夫かっ、ヘンリエッタ嬢、」

猛烈に感情が揺さぶられ、涙が滝の様に流れ出る。嗚咽も止まらず肩が震える。

「もう出よう、ヘンリエッタ嬢、何処か具合が悪いのか?」
「いいえ、いいえ、大丈夫ですわ。これは感涙からの涙なのですっ、うううっ、オスカールっ」
「全然大丈夫では無いだろうっ、それに私の前で他の男の名など呼んでっ、」
「ちょっとお静まりになってっ、ハロルド様。今、良いところなのよ、それにオスカールは女の子ですわ。」
「ちょっとそこら辺はよく解らないが、大丈夫なんだな?大丈夫なんだな?!」

滝涙が止まる気配が無いことから、ヘンリエッタは秘密兵器大判ハンカチを取り出した。これでもう暫くは安心して泣き濡れられそうだ。

「アンド~レっ、オスカ~ルっ!」
「ヘンリエッタ~っ!大丈夫かっ、」

エンディングのカーテンコールで惜しみない拍手を贈る。ブラボー!素晴らしい!もう死んでもいい!

「死んでは駄目だっ!ヘンリエッタっ!」

ハロルドはすっかりヘンリエッタを呼ぶのに敬称が外れてしまった。けれども興奮の大海原を泳ぐヘンリエッタは全くそれには気付かない。もしかしたら、隣りにハロルドがいるのも忘れているのではなかろうか?

座席から立ち上がり、人生初の黄色い声援を声の限りに張り上げたのだった。

アンド~レっ!!
オスカ~ルっ!!


「夢の様な時間でしたわ。」
「私には修羅のようであった。」

感激の内に観劇も終わり、二人は今、カフェテラスでお茶を飲んでいた。これが『ベルかす同志』であったなら、さながら反省会と銘打って、主役の役者達を褒めちぎるところであるが、どうやらハロルドは感激の「か」の字も浮かばなかったらしい。

世知辛い世の中だ。王城勤めで神経を擦り減らしたのか、すっかり『ベルかす』の素晴らしさが理解出来ないほど心の疲れた御人と成り下がってしまわれた。

「君が涙を流せる様になってくれて嬉しく思った。けれどあれほど泣かれては胸が痛む。」
「まあ!何処かお悪いのではないですか?王城の医局へご相談された方が宜しいのでは?」
「...いや、それには及ばない。」
「何事も未病のうちに対処をすれば健康を損なう事は無いと祖父は常々申しておりました。まあ、その祖父は残念ながらどちらかと言えば短命でありましたけれど。」
「....。」


落ち着いて周りを見渡せば、瀟洒な造りの店内は気品漂う空間で、テーブルに座る御婦人方は装いも華やかにこの場を楽しむ風である。
最近オープンした話題のカフェだそうで、ヘンリエッタは中身が若干おじさん寄りなので、こんなオサレな店は知らなかった。
逆に聞きたい。『ベルかす』の素晴らしさも解らぬほどに神経を擦り減らしているハロルドが、何故にこんなお洒落スポットを知っているのか。

さては、不埒な異性交遊を覚えてしまって何処もかしこも女好きの御人になってしまわれたかと、失望の目線でハロルドを見つめれば、突然冷ややかな視線を投げかけられたハロルドは、「え?」と戸惑いを見せていた。

なにはともあれ、婚約を解消した「友達でもない」「恋人でもない」ハロルドとの、演劇鑑賞と云う難解ミッションは無事にクリアした。美味しいお茶も飲んだ事だし、さて、そろそろ帰ろうか。

「今日は大変お世話になりました。得難い機会を頂戴出来まして感謝ばかりでございます。チケットをお譲り下さいましたお姉様にもどうぞ宜しくお伝え下さいませ。では、本日はこれにて失礼させて頂きます。」

すっくと立ち上がり、ワンピースの裾を少し持ち上げて礼をすれば、ほんの僅かな時間、呆気に取られてその様を見つめていたハロルドは、

「待て、待て、待て、ヘンリエッタ嬢、待ってくれ。君の邸までお送りする。私を置いて行かないでくれないか。」
慌ててヘンリエッタを引き止めた。

え~、でもぉ~。私達ってよく解らない曖昧な間柄ですよね。
ヘンリエッタは戸惑ってしまう。あまりハロルドと近くいるべきでは無い。長く側にいると虚しい寂しさが沸いて来る。付かず離れずではなくて、付かずちょっと遠巻きで付き合う方がお互いの為なのだ。

こうしてヘンリエッタを外へ連れ出した実績は、エドワード殿下へ結果報告するのに値するだろう。
ヘンリエッタは、何処かでこの頃のハロルドの急接近を、主の命で任務として請負ったものだと思っている。

「ハロルド様。ご親切なお気持ちだけ頂戴させて頂きますわ。でも、本当に大丈夫なのです。ほら、ご覧になって、彼処を。もう邸より迎えの馬車が着いておりますの。どうぞお気になさらず、お仕事頑張って下さいませ。」

今度こそ流れるカーテシーでお別れの挨拶をすれば、ハロルドははくはくと口を開けたり閉めたりしている。

余程お疲れなのだわ。あのバカボン、違った、エドワード殿下から無理矢理に元婚約者と接近せよと難題を押し付けられて、縁の切れた過去の婚約者と会わねばならないのですもの。それは疲れて当然です。お疲れ様です、ハロルド様。どうぞ今日はゆっくりお休みになってねと、ちょっとコテンと頭を傾けて言葉に出せぬ思いを目線で示してみた。

「うっ、」とハロルドが胸を抑えたのが心配だ。おのれ、バカボン。我儘ばっかり部下に押し付けて。いつか会ったら文句の一つや二つや三つくらいなら言っても良いだろう。

ぷりぷりしながらヘンリエッタはカフェを出て、迎えの馬車に乗り込んだ。





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