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「生憎、何もないところでお構いも出来ず申し訳ございません。」
ヘンリエッタの言葉にハロルドは、
「いや、」と言ったが、言葉が続かなかったらしい。
物珍しげに左右ばかりか天井まで見渡している。その後ろでブリジットがめちゃくちゃ苦い物を噛んでしまった様な顔をした。
「どうぞ、粗茶ですが。」
ヘンリエッタはハロルドにお茶を勧めた。嘘偽り無い正真正銘粗茶である。なにせ使用人達の休憩室から拝借したのだから。
ヘンリエッタの邸では使用人との距離も近く、給金も食事も他の貴族家より水準が高いとブリジットからは聞いていた。けれども、これは間違い無く客人用のお茶とは違うから、王族に侍る男からすればきっと不味い筈である。
どうだ、粗茶、飲め。
あれからヘンリエッタは着替えもせぬままハロルドを階下の裏側に案内した。面倒な両親達に出くわすのは避けたかったので、使用人用の通路から案内した。
案内した部屋は、ランドリールームの脇にある洗濯婦の控え室である。
ここは通いの洗濯婦が使う部屋であったから、住み込みの使用人達も夜に訪れる事は無い。何より夜間は鍵が掛かっているのを、ブリジットが侍女頭に頼んで鍵を開けてもらった。
「お寒くはないですか?」
「いや、大丈夫だ。」
大丈夫でないのは後ろに控える侍女頭とブリジットだろう。なんでこんなところに案内したんだと目が怒ってる。
やさぐれたヘンリエッタには、その原因たる客人を持て成すのにこの部屋しか思い当たらなかったのだから仕方が無い。そんなに眉間に皺を寄せては跡が残っちゃうわよ。ブリジットに目線で語るも、ヘンリエッタには念力なんてものは無いのだから通じる訳が無い。
部屋を囲むパイプには浴槽へと繋がるお湯が通っており、それが暖房代わりになって今も部屋の中は暖かい。
勧められるままひと口お茶を含んだハロルドは、ちょっと不思議そうな顔をした。
どうだ、平民のお茶など知らないだろう。それはドクダミ茶だ。洗濯で身体を冷やしがちな洗濯婦の為にヘンリエッタが取り寄せた薬草茶だ。どうだ苦いだろう、苦いと言え!
出来得る限りの小賢しい嫌がらせをお見舞いして、少しばかり気が済んだヘンリエッタは、まるで部屋の主の様に鷹揚に聞く。
「お話しとは何でございましょう。」
「今の君に何を話したとしても、きっと私の言葉は信じてはもらえないだろうな。」
「信じるも何も、まだ何もお伺いしてはおりません。」
「そうだな。あんな下手なお喋りに付き合うばかりであったから。」
「下手なお喋り?」
「君のご両親は必死だった。」
「え?何処が?」
「必死に場を明るく和ませようと、気を遣われていた。だからそれにお答えせねばと、つい私まで必死になってしまった。」
「あれの何処が。私には楽しい歓談にしか見えませんでしたが。」
「ふっ」
そこでハロルドは小さく笑みを漏らした。久しぶり、多分二年半ぶりに見る笑顔だ。
「お父上もお母上も、君の事ばかり気に掛けておられた。どうしたら君が話しに加われるのか、あれこれ話題を変えてはお話しになられていた。黙って聴いていれば解ったろう。話題が次々と変わって脈絡の無い事に。」
後ろで侍女頭が、ぶんぶんと首を縦に振っている。
訝し気にするヘンリエッタの顔を、ハロルドは正面から見つめた。ヘンリエッタもつい釣られて青い瞳を見つめてしまった。
「漸く、君に目を合わせてもらえた。」
そこでハロルドは、まるでヘンリエッタの頬をその指先で撫でる様に、視線でヘンリエッタの顔の上をなぞった。
「君にまた会えるなんて、」
「何を、」
勝手な事を、と言いたかった。言いたいのに言葉が続かなかった。ハロルドはヘンリエッタの知らない顔をした。それは泣き出しそうな笑い出しそうな、可怪しな表情であった。
「君に話したい事がある。話さねばならない事がある。だがその前に、何も知らない他人から始めないか。今日此処で初めて会った名前だけ互いが知っている、そこから始めないか。」
「何を仰っておられるの?貴方と私は終わったのです。勝手な事を言わないで。何もかも無くして始めから?馬鹿にしないで下さいな。御自分の都合ばかりを考えて仰るのなら、貴方と会うのは今日この時が最後です。」
忘れ掛けた激しい感情が、再び腹の底から沸いてくる。怒りのあまり目元が赤く染まるのが見えずとも解る。ぐっと膝の上に置いた手を握り締めた。
「そうじゃない、そうじゃないんだ、君を不快にさせたのは謝る、」「快とか不快とかでは無いのです。貴方の事をこれ以上嫌いにさせないで。せめて思い出の中だけは誠実な貴方のまま憶えていたいの。なのに、こんな目の前で巫山戯た事を言われては、私の中の貴方の全てを無くしてしまう。今の貴方の事はどうでも良いの、貴方は私の知らない人だから。私の知っているハロルド様とは、陽の光の様に暖かで誠実な人だった。私の知るハロルド様を壊さないで頂戴!」
「は、...、漸く名を呼んでくれた。」
「何を、」
「初めからこうすれば良かったんだ。」
「一体、何を言っているの?」
「初めから、君に話してぶつかって、喧嘩になっても良いから、君を信じて話せば良かった。そうしたらきっと君は、君は今みたいに泣きながら私に怒って怒鳴って叱ってくれたんだろうな。」
そう言って、ハロルドはヘンリエッタの頬に手を伸ばした。ヘンリエッタはそれが見えているのに身動きが出来なかった。
ゴツゴツした太い親指の腹で、ハロルドはヘンリエッタの目元を拭う。
いつの間にか涙が零れていたらしい。泣けないヘンリエッタは、ハロルドへ怒りをぶつけた拍子に二年ぶりに涙を流した。
ヘンリエッタの言葉にハロルドは、
「いや、」と言ったが、言葉が続かなかったらしい。
物珍しげに左右ばかりか天井まで見渡している。その後ろでブリジットがめちゃくちゃ苦い物を噛んでしまった様な顔をした。
「どうぞ、粗茶ですが。」
ヘンリエッタはハロルドにお茶を勧めた。嘘偽り無い正真正銘粗茶である。なにせ使用人達の休憩室から拝借したのだから。
ヘンリエッタの邸では使用人との距離も近く、給金も食事も他の貴族家より水準が高いとブリジットからは聞いていた。けれども、これは間違い無く客人用のお茶とは違うから、王族に侍る男からすればきっと不味い筈である。
どうだ、粗茶、飲め。
あれからヘンリエッタは着替えもせぬままハロルドを階下の裏側に案内した。面倒な両親達に出くわすのは避けたかったので、使用人用の通路から案内した。
案内した部屋は、ランドリールームの脇にある洗濯婦の控え室である。
ここは通いの洗濯婦が使う部屋であったから、住み込みの使用人達も夜に訪れる事は無い。何より夜間は鍵が掛かっているのを、ブリジットが侍女頭に頼んで鍵を開けてもらった。
「お寒くはないですか?」
「いや、大丈夫だ。」
大丈夫でないのは後ろに控える侍女頭とブリジットだろう。なんでこんなところに案内したんだと目が怒ってる。
やさぐれたヘンリエッタには、その原因たる客人を持て成すのにこの部屋しか思い当たらなかったのだから仕方が無い。そんなに眉間に皺を寄せては跡が残っちゃうわよ。ブリジットに目線で語るも、ヘンリエッタには念力なんてものは無いのだから通じる訳が無い。
部屋を囲むパイプには浴槽へと繋がるお湯が通っており、それが暖房代わりになって今も部屋の中は暖かい。
勧められるままひと口お茶を含んだハロルドは、ちょっと不思議そうな顔をした。
どうだ、平民のお茶など知らないだろう。それはドクダミ茶だ。洗濯で身体を冷やしがちな洗濯婦の為にヘンリエッタが取り寄せた薬草茶だ。どうだ苦いだろう、苦いと言え!
出来得る限りの小賢しい嫌がらせをお見舞いして、少しばかり気が済んだヘンリエッタは、まるで部屋の主の様に鷹揚に聞く。
「お話しとは何でございましょう。」
「今の君に何を話したとしても、きっと私の言葉は信じてはもらえないだろうな。」
「信じるも何も、まだ何もお伺いしてはおりません。」
「そうだな。あんな下手なお喋りに付き合うばかりであったから。」
「下手なお喋り?」
「君のご両親は必死だった。」
「え?何処が?」
「必死に場を明るく和ませようと、気を遣われていた。だからそれにお答えせねばと、つい私まで必死になってしまった。」
「あれの何処が。私には楽しい歓談にしか見えませんでしたが。」
「ふっ」
そこでハロルドは小さく笑みを漏らした。久しぶり、多分二年半ぶりに見る笑顔だ。
「お父上もお母上も、君の事ばかり気に掛けておられた。どうしたら君が話しに加われるのか、あれこれ話題を変えてはお話しになられていた。黙って聴いていれば解ったろう。話題が次々と変わって脈絡の無い事に。」
後ろで侍女頭が、ぶんぶんと首を縦に振っている。
訝し気にするヘンリエッタの顔を、ハロルドは正面から見つめた。ヘンリエッタもつい釣られて青い瞳を見つめてしまった。
「漸く、君に目を合わせてもらえた。」
そこでハロルドは、まるでヘンリエッタの頬をその指先で撫でる様に、視線でヘンリエッタの顔の上をなぞった。
「君にまた会えるなんて、」
「何を、」
勝手な事を、と言いたかった。言いたいのに言葉が続かなかった。ハロルドはヘンリエッタの知らない顔をした。それは泣き出しそうな笑い出しそうな、可怪しな表情であった。
「君に話したい事がある。話さねばならない事がある。だがその前に、何も知らない他人から始めないか。今日此処で初めて会った名前だけ互いが知っている、そこから始めないか。」
「何を仰っておられるの?貴方と私は終わったのです。勝手な事を言わないで。何もかも無くして始めから?馬鹿にしないで下さいな。御自分の都合ばかりを考えて仰るのなら、貴方と会うのは今日この時が最後です。」
忘れ掛けた激しい感情が、再び腹の底から沸いてくる。怒りのあまり目元が赤く染まるのが見えずとも解る。ぐっと膝の上に置いた手を握り締めた。
「そうじゃない、そうじゃないんだ、君を不快にさせたのは謝る、」「快とか不快とかでは無いのです。貴方の事をこれ以上嫌いにさせないで。せめて思い出の中だけは誠実な貴方のまま憶えていたいの。なのに、こんな目の前で巫山戯た事を言われては、私の中の貴方の全てを無くしてしまう。今の貴方の事はどうでも良いの、貴方は私の知らない人だから。私の知っているハロルド様とは、陽の光の様に暖かで誠実な人だった。私の知るハロルド様を壊さないで頂戴!」
「は、...、漸く名を呼んでくれた。」
「何を、」
「初めからこうすれば良かったんだ。」
「一体、何を言っているの?」
「初めから、君に話してぶつかって、喧嘩になっても良いから、君を信じて話せば良かった。そうしたらきっと君は、君は今みたいに泣きながら私に怒って怒鳴って叱ってくれたんだろうな。」
そう言って、ハロルドはヘンリエッタの頬に手を伸ばした。ヘンリエッタはそれが見えているのに身動きが出来なかった。
ゴツゴツした太い親指の腹で、ハロルドはヘンリエッタの目元を拭う。
いつの間にか涙が零れていたらしい。泣けないヘンリエッタは、ハロルドへ怒りをぶつけた拍子に二年ぶりに涙を流した。
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