ヘンリエッタの再婚約

桃井すもも

文字の大きさ
上 下
4 / 78

【4】

しおりを挟む
学園にいる時間は、授業に耳を傾けているだけで煩わしい思考から逃れられた。

まだハロルドの婚約者であった頃、王族に侍る婚約者に恥ずかしい思いをさせぬよう勉学に励んだヘンリエッタは、学園に入学して直ぐ成績優秀者のクラスに入った。
その半年後には婚約解消の憂き目にあって、更に勉学に没頭する事で時が過ぎ行くのを堪えていたから、お蔭で三年になった今も最優秀クラスに在籍している。

何かを極めることは、結局最後は自分を支えてくれる。知識も技術も何れ世間に出た時に我が身を立てるのに役立つだろう。
母はああ言ったが、ヘンリエッタは自身の将来に婚姻は望めないだろうと漠然と考えていた。

婚約解消は決して珍しい事では無い。
理由次第では恥ずべき疵にもなるだろうが、ヘンリエッタの場合はこちらに非は無い。婚約解消後の新たな婚約とは度々聞くし、離縁の後の再婚だって幾らでもある。
なのに不思議な程にヘンリエッタへの婚約の申し込みは無かった。せめてもう少し見目が良かったらと思わなくもない。母に似たらきっと今頃は婚約者を得られていたのではないだろうか。

母は美しい女性ひとである。髪色もヘンリエッタより金色に近く瞳も碧色で、子を二人産んだあともほっそりとした体型を保っている。
何故、父がそんな母を軽んじて他所に心を移すのか。ヘンリエッタにとっての母とは夫にも子にも愛情を尽くし、貴族夫人としての礼節も気品も持ち合わせた申し分のない女性である。

傍目には、父と母は仲の良い夫婦だろう。確かに邸にいる時には、父と母の関係は良好に見えた。

母の様に寛大になれたら良いのか。
いやいや、やはりあれは無いだろう。帰国も告げず、王女を連れた夜会の後も、婚約を解消した後も、ハロルドからヘンリエッタには詫び状の一つも無かった。親同士では何某なにがしかの補償があったのかも知れない。それが金銭であるなら、父はこの先ヘンリエッタが嫁げない場合の相続財産に加算するつもりなのかも知れない。

でも、お金じゃあないのよ。
だからと言って、あの時、謝罪されたとしても果して納得出来ただろうか。面と向かって一言くらい何かを言えるのかは今になっても想像出来ない。
だから結局、あのまま別れ別れで良かったのだ。留学するハロルドを見送りに行った。あの時の笑顔を最後の記憶に留めよう。夜会の彼は、もうヘンリエッタにとっては知らない人であったのだ。

来春になればヘンリエッタも社交の場に出る。そうなれば、王家主催の夜会では顔を合わせる事もあるだろう。その時に、せめて俯かない様に、堂々としていようじゃないかと、そう思うのであった。



邸の敷地に馬車が入ると、馬車止まりに見慣れない馬車が停まっているのが見えた。窓から馬車の紋を確かめて、ヘンリエッタは背中に汗が伝うのが分かった。

紋はダウンゼン伯爵家のものだった。このまま降りたくない。迂回したいと思うも、敷地から出るのにも一度玄関ポーチの前を通るから、ヘンリエッタの帰宅は使用達に解ってしまう。
しかしそれも、既に母の姿が見えて、このまま逃げる訳には行かないのだと観念した。

「只今帰りました。」

ヘンリエッタがそう言えば、母は眉を下げた。

「お客様よ。着替えなくても良いわ。」

そのまま応接室まで向かえと言う。

「お母様は?」
「勿論、一緒に行くわ。」

母が一緒にいてくれるのが心強い。
父はヘンリエッタの心中など理解出来ないのだから、せめて母には味方でいてほしかった。


執事がヘンリエッタの帰宅を告げれば、中から入りなさいと父の声が聞こえた。

「失礼致します。」

部屋に入れば、室内には紅茶の良い香りが漂っていた。この果実を思わせる香りは隣国の茶葉だろう。さては第二王子殿下が手土産に持たせたか。

視線を感じるのは部屋に入った時からだが、誰とも視線を合わせずにヘンリエッタは母に示された席に進んだ。


「久しぶりだね。ヘンリエッタ嬢。」

「...お久しぶりに御座います。ダウンゼン伯爵ご令息様。」

ヘンリエッタの挨拶に、父が息を飲んだのが気配で解った。

再会は二年ぶりではない。その前、隣国に留学するのを見送って以来、二年半ぶりの事である。

「座ってくれないか。」

何時までも座る気配を見せないヘンリエッタに、ハロルドが声を掛けた。

真向かいに座っているのに、ヘンリエッタは視線をその胸元から上には上げなかった。声だけが耳に沁みる様に、目の前にいるのがハロルドその人なのだと知らせた。

どんな顔をすれば良いのだろう。
あまりにその声音が穏やかで、最後に別れた時と何も変わらないものだったから、ヘンリエッタは今がまだ別れ別れになる前で、彼が隣国へ旅立つ前で、涙の泉が枯れる前である様な錯覚を覚えた。

「少し二人で話しても?」

それは父に聞いたのか、ヘンリエッタに聞いたのか。

頼みの綱の母が立ち上がり、ヘンリエッタは心の中で行かないで~っと願うも、両親ばかりか執事も侍女も下がってしまい、未婚の二人に扉だけが僅かに開けられたままにされた。

「顔を上げてくれないか。」

何を今更言うのだろう。好いた女性の為に不貞の末に不誠実を重ねて放ったのに、第二王子殿下に命じられたからと元婚約者に今更何を言うのだ。

「その必要は御座いません。」

ヘンリエッタは、思った以上に固い声に、それが自分の声とは思えなかった。
頑張れヘンリエッタ。この詰まらない茶番を仕舞にするのよと、腹に力を込める。

「エドワード殿下のお考えは私には理解の及ばぬものですが、お心遣いは無用に御座います。それは貴方様も同じです。どうぞ、過ぎたえにしはお忘れになって下さいませ。これ以上のご縁を私は望んでおりません。」

「ヘンリエッタ嬢、顔を見せてくれないか。」
「出来かねます。」

どれくらい時間が経ったのだろう。ハロルドが極々小さな溜め息を漏らしたのが解った。聞き分けの無い小娘の駄々に苛ついたのだろう。

「悪かった。君を傷付けた。」

今更な事を掘り返す言葉は、酷く寒々しく聞こえた。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

三度目の嘘つき

豆狸
恋愛
「……本当に良かったのかい、エカテリナ。こんな嘘をついて……」 「……いいのよ。私に新しい相手が出来れば、周囲も殿下と男爵令嬢の仲を認めずにはいられなくなるわ」 なろう様でも公開中ですが、少し構成が違います。内容は同じです。

踏み台(王女)にも事情はある

mios
恋愛
戒律の厳しい修道院に王女が送られた。 聖女ビアンカに魔物をけしかけた罪で投獄され、処刑を免れた結果のことだ。 王女が居なくなって平和になった筈、なのだがそれから何故か原因不明の不調が蔓延し始めて……原因究明の為、王女の元婚約者が調査に乗り出した。

今日は私の結婚式

豆狸
恋愛
ベッドの上には、幼いころからの婚約者だったレーナと同じ色の髪をした女性の腐り爛れた死体があった。 彼女が着ているドレスも、二日前僕とレーナの父が結婚を拒むレーナを屋根裏部屋へ放り込んだときに着ていたものと同じである。

廃妃の再婚

束原ミヤコ
恋愛
伯爵家の令嬢としてうまれたフィアナは、母を亡くしてからというもの 父にも第二夫人にも、そして腹違いの妹にも邪険に扱われていた。 ある日フィアナは、川で倒れている青年を助ける。 それから四年後、フィアナの元に国王から結婚の申し込みがくる。 身分差を気にしながらも断ることができず、フィアナは王妃となった。 あの時助けた青年は、国王になっていたのである。 「君を永遠に愛する」と約束をした国王カトル・エスタニアは 結婚してすぐに辺境にて部族の反乱が起こり、平定戦に向かう。 帰還したカトルは、族長の娘であり『精霊の愛し子』と呼ばれている美しい女性イルサナを連れていた。 カトルはイルサナを寵愛しはじめる。 王城にて居場所を失ったフィアナは、聖騎士ユリシアスに下賜されることになる。 ユリシアスは先の戦いで怪我を負い、顔の半分を包帯で覆っている寡黙な男だった。 引け目を感じながらフィアナはユリシアスと過ごすことになる。 ユリシアスと過ごすうち、フィアナは彼と惹かれ合っていく。 だがユリシアスは何かを隠しているようだ。 それはカトルの抱える、真実だった──。

貧乏令嬢はお断りらしいので、豪商の愛人とよろしくやってください

今川幸乃
恋愛
貧乏令嬢のリッタ・アストリーにはバート・オレットという婚約者がいた。 しかしある日突然、バートは「こんな貧乏な家は我慢できない!」と一方的に婚約破棄を宣言する。 その裏には彼の領内の豪商シーモア商会と、そこの娘レベッカの姿があった。 どうやら彼はすでにレベッカと出来ていたと悟ったリッタは婚約破棄を受け入れる。 そしてバートはレベッカの言うがままに、彼女が「絶対儲かる」という先物投資に家財をつぎ込むが…… 一方のリッタはひょんなことから幼いころの知り合いであったクリフトンと再会する。 当時はただの子供だと思っていたクリフトンは実は大貴族の跡取りだった。

さようなら、わたくしの騎士様

夜桜
恋愛
騎士様からの突然の『さようなら』(婚約破棄)に辺境伯令嬢クリスは微笑んだ。 その時を待っていたのだ。 クリスは知っていた。 騎士ローウェルは裏切ると。 だから逆に『さようなら』を言い渡した。倍返しで。

皇太子夫妻の歪んだ結婚 

夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。 その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。 本編完結してます。 番外編を更新中です。

【完結】生贄になった婚約者と間に合わなかった王子

ゴールデンフィッシュメダル
恋愛
フィーは第二王子レイフの婚約者である。 しかし、仲が良かったのも今は昔。 レイフはフィーとのお茶会をすっぽかすようになり、夜会にエスコートしてくれたのはデビューの時だけだった。 いつしか、レイフはフィーに嫌われていると噂がながれるようになった。 それでも、フィーは信じていた。 レイフは魔法の研究に熱心なだけだと。 しかし、ある夜会で研究室の同僚をエスコートしている姿を見てこころが折れてしまう。 そして、フィーは国守樹の乙女になることを決意する。 国守樹の乙女、それは樹に喰らわれる生贄だった。

処理中です...