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学園にいる時間は、授業に耳を傾けているだけで煩わしい思考から逃れられた。
まだハロルドの婚約者であった頃、王族に侍る婚約者に恥ずかしい思いをさせぬよう勉学に励んだヘンリエッタは、学園に入学して直ぐ成績優秀者のクラスに入った。
その半年後には婚約解消の憂き目にあって、更に勉学に没頭する事で時が過ぎ行くのを堪えていたから、お蔭で三年になった今も最優秀クラスに在籍している。
何かを極めることは、結局最後は自分を支えてくれる。知識も技術も何れ世間に出た時に我が身を立てるのに役立つだろう。
母はああ言ったが、ヘンリエッタは自身の将来に婚姻は望めないだろうと漠然と考えていた。
婚約解消は決して珍しい事では無い。
理由次第では恥ずべき疵にもなるだろうが、ヘンリエッタの場合はこちらに非は無い。婚約解消後の新たな婚約とは度々聞くし、離縁の後の再婚だって幾らでもある。
なのに不思議な程にヘンリエッタへの婚約の申し込みは無かった。せめてもう少し見目が良かったらと思わなくもない。母に似たらきっと今頃は婚約者を得られていたのではないだろうか。
母は美しい女性である。髪色もヘンリエッタより金色に近く瞳も碧色で、子を二人産んだあともほっそりとした体型を保っている。
何故、父がそんな母を軽んじて他所に心を移すのか。ヘンリエッタにとっての母とは夫にも子にも愛情を尽くし、貴族夫人としての礼節も気品も持ち合わせた申し分のない女性である。
傍目には、父と母は仲の良い夫婦だろう。確かに邸にいる時には、父と母の関係は良好に見えた。
母の様に寛大になれたら良いのか。
いやいや、やはりあれは無いだろう。帰国も告げず、王女を連れた夜会の後も、婚約を解消した後も、ハロルドからヘンリエッタには詫び状の一つも無かった。親同士では何某かの補償があったのかも知れない。それが金銭であるなら、父はこの先ヘンリエッタが嫁げない場合の相続財産に加算するつもりなのかも知れない。
でも、お金じゃあないのよ。
だからと言って、あの時、謝罪されたとしても果して納得出来ただろうか。面と向かって一言くらい何かを言えるのかは今になっても想像出来ない。
だから結局、あのまま別れ別れで良かったのだ。留学するハロルドを見送りに行った。あの時の笑顔を最後の記憶に留めよう。夜会の彼は、もうヘンリエッタにとっては知らない人であったのだ。
来春になればヘンリエッタも社交の場に出る。そうなれば、王家主催の夜会では顔を合わせる事もあるだろう。その時に、せめて俯かない様に、堂々としていようじゃないかと、そう思うのであった。
邸の敷地に馬車が入ると、馬車止まりに見慣れない馬車が停まっているのが見えた。窓から馬車の紋を確かめて、ヘンリエッタは背中に汗が伝うのが分かった。
紋はダウンゼン伯爵家のものだった。このまま降りたくない。迂回したいと思うも、敷地から出るのにも一度玄関ポーチの前を通るから、ヘンリエッタの帰宅は使用達に解ってしまう。
しかしそれも、既に母の姿が見えて、このまま逃げる訳には行かないのだと観念した。
「只今帰りました。」
ヘンリエッタがそう言えば、母は眉を下げた。
「お客様よ。着替えなくても良いわ。」
そのまま応接室まで向かえと言う。
「お母様は?」
「勿論、一緒に行くわ。」
母が一緒にいてくれるのが心強い。
父はヘンリエッタの心中など理解出来ないのだから、せめて母には味方でいてほしかった。
執事がヘンリエッタの帰宅を告げれば、中から入りなさいと父の声が聞こえた。
「失礼致します。」
部屋に入れば、室内には紅茶の良い香りが漂っていた。この果実を思わせる香りは隣国の茶葉だろう。さては第二王子殿下が手土産に持たせたか。
視線を感じるのは部屋に入った時からだが、誰とも視線を合わせずにヘンリエッタは母に示された席に進んだ。
「久しぶりだね。ヘンリエッタ嬢。」
「...お久しぶりに御座います。ダウンゼン伯爵ご令息様。」
ヘンリエッタの挨拶に、父が息を飲んだのが気配で解った。
再会は二年ぶりではない。その前、隣国に留学するのを見送って以来、二年半ぶりの事である。
「座ってくれないか。」
何時までも座る気配を見せないヘンリエッタに、ハロルドが声を掛けた。
真向かいに座っているのに、ヘンリエッタは視線をその胸元から上には上げなかった。声だけが耳に沁みる様に、目の前にいるのがハロルドその人なのだと知らせた。
どんな顔をすれば良いのだろう。
あまりにその声音が穏やかで、最後に別れた時と何も変わらないものだったから、ヘンリエッタは今がまだ別れ別れになる前で、彼が隣国へ旅立つ前で、涙の泉が枯れる前である様な錯覚を覚えた。
「少し二人で話しても?」
それは父に聞いたのか、ヘンリエッタに聞いたのか。
頼みの綱の母が立ち上がり、ヘンリエッタは心の中で行かないで~っと願うも、両親ばかりか執事も侍女も下がってしまい、未婚の二人に扉だけが僅かに開けられたままにされた。
「顔を上げてくれないか。」
何を今更言うのだろう。好いた女性の為に不貞の末に不誠実を重ねて放ったのに、第二王子殿下に命じられたからと元婚約者に今更何を言うのだ。
「その必要は御座いません。」
ヘンリエッタは、思った以上に固い声に、それが自分の声とは思えなかった。
頑張れヘンリエッタ。この詰まらない茶番を仕舞にするのよと、腹に力を込める。
「エドワード殿下のお考えは私には理解の及ばぬものですが、お心遣いは無用に御座います。それは貴方様も同じです。どうぞ、過ぎた縁はお忘れになって下さいませ。これ以上のご縁を私は望んでおりません。」
「ヘンリエッタ嬢、顔を見せてくれないか。」
「出来かねます。」
どれくらい時間が経ったのだろう。ハロルドが極々小さな溜め息を漏らしたのが解った。聞き分けの無い小娘の駄々に苛ついたのだろう。
「悪かった。君を傷付けた。」
今更な事を掘り返す言葉は、酷く寒々しく聞こえた。
まだハロルドの婚約者であった頃、王族に侍る婚約者に恥ずかしい思いをさせぬよう勉学に励んだヘンリエッタは、学園に入学して直ぐ成績優秀者のクラスに入った。
その半年後には婚約解消の憂き目にあって、更に勉学に没頭する事で時が過ぎ行くのを堪えていたから、お蔭で三年になった今も最優秀クラスに在籍している。
何かを極めることは、結局最後は自分を支えてくれる。知識も技術も何れ世間に出た時に我が身を立てるのに役立つだろう。
母はああ言ったが、ヘンリエッタは自身の将来に婚姻は望めないだろうと漠然と考えていた。
婚約解消は決して珍しい事では無い。
理由次第では恥ずべき疵にもなるだろうが、ヘンリエッタの場合はこちらに非は無い。婚約解消後の新たな婚約とは度々聞くし、離縁の後の再婚だって幾らでもある。
なのに不思議な程にヘンリエッタへの婚約の申し込みは無かった。せめてもう少し見目が良かったらと思わなくもない。母に似たらきっと今頃は婚約者を得られていたのではないだろうか。
母は美しい女性である。髪色もヘンリエッタより金色に近く瞳も碧色で、子を二人産んだあともほっそりとした体型を保っている。
何故、父がそんな母を軽んじて他所に心を移すのか。ヘンリエッタにとっての母とは夫にも子にも愛情を尽くし、貴族夫人としての礼節も気品も持ち合わせた申し分のない女性である。
傍目には、父と母は仲の良い夫婦だろう。確かに邸にいる時には、父と母の関係は良好に見えた。
母の様に寛大になれたら良いのか。
いやいや、やはりあれは無いだろう。帰国も告げず、王女を連れた夜会の後も、婚約を解消した後も、ハロルドからヘンリエッタには詫び状の一つも無かった。親同士では何某かの補償があったのかも知れない。それが金銭であるなら、父はこの先ヘンリエッタが嫁げない場合の相続財産に加算するつもりなのかも知れない。
でも、お金じゃあないのよ。
だからと言って、あの時、謝罪されたとしても果して納得出来ただろうか。面と向かって一言くらい何かを言えるのかは今になっても想像出来ない。
だから結局、あのまま別れ別れで良かったのだ。留学するハロルドを見送りに行った。あの時の笑顔を最後の記憶に留めよう。夜会の彼は、もうヘンリエッタにとっては知らない人であったのだ。
来春になればヘンリエッタも社交の場に出る。そうなれば、王家主催の夜会では顔を合わせる事もあるだろう。その時に、せめて俯かない様に、堂々としていようじゃないかと、そう思うのであった。
邸の敷地に馬車が入ると、馬車止まりに見慣れない馬車が停まっているのが見えた。窓から馬車の紋を確かめて、ヘンリエッタは背中に汗が伝うのが分かった。
紋はダウンゼン伯爵家のものだった。このまま降りたくない。迂回したいと思うも、敷地から出るのにも一度玄関ポーチの前を通るから、ヘンリエッタの帰宅は使用達に解ってしまう。
しかしそれも、既に母の姿が見えて、このまま逃げる訳には行かないのだと観念した。
「只今帰りました。」
ヘンリエッタがそう言えば、母は眉を下げた。
「お客様よ。着替えなくても良いわ。」
そのまま応接室まで向かえと言う。
「お母様は?」
「勿論、一緒に行くわ。」
母が一緒にいてくれるのが心強い。
父はヘンリエッタの心中など理解出来ないのだから、せめて母には味方でいてほしかった。
執事がヘンリエッタの帰宅を告げれば、中から入りなさいと父の声が聞こえた。
「失礼致します。」
部屋に入れば、室内には紅茶の良い香りが漂っていた。この果実を思わせる香りは隣国の茶葉だろう。さては第二王子殿下が手土産に持たせたか。
視線を感じるのは部屋に入った時からだが、誰とも視線を合わせずにヘンリエッタは母に示された席に進んだ。
「久しぶりだね。ヘンリエッタ嬢。」
「...お久しぶりに御座います。ダウンゼン伯爵ご令息様。」
ヘンリエッタの挨拶に、父が息を飲んだのが気配で解った。
再会は二年ぶりではない。その前、隣国に留学するのを見送って以来、二年半ぶりの事である。
「座ってくれないか。」
何時までも座る気配を見せないヘンリエッタに、ハロルドが声を掛けた。
真向かいに座っているのに、ヘンリエッタは視線をその胸元から上には上げなかった。声だけが耳に沁みる様に、目の前にいるのがハロルドその人なのだと知らせた。
どんな顔をすれば良いのだろう。
あまりにその声音が穏やかで、最後に別れた時と何も変わらないものだったから、ヘンリエッタは今がまだ別れ別れになる前で、彼が隣国へ旅立つ前で、涙の泉が枯れる前である様な錯覚を覚えた。
「少し二人で話しても?」
それは父に聞いたのか、ヘンリエッタに聞いたのか。
頼みの綱の母が立ち上がり、ヘンリエッタは心の中で行かないで~っと願うも、両親ばかりか執事も侍女も下がってしまい、未婚の二人に扉だけが僅かに開けられたままにされた。
「顔を上げてくれないか。」
何を今更言うのだろう。好いた女性の為に不貞の末に不誠実を重ねて放ったのに、第二王子殿下に命じられたからと元婚約者に今更何を言うのだ。
「その必要は御座いません。」
ヘンリエッタは、思った以上に固い声に、それが自分の声とは思えなかった。
頑張れヘンリエッタ。この詰まらない茶番を仕舞にするのよと、腹に力を込める。
「エドワード殿下のお考えは私には理解の及ばぬものですが、お心遣いは無用に御座います。それは貴方様も同じです。どうぞ、過ぎた縁はお忘れになって下さいませ。これ以上のご縁を私は望んでおりません。」
「ヘンリエッタ嬢、顔を見せてくれないか。」
「出来かねます。」
どれくらい時間が経ったのだろう。ハロルドが極々小さな溜め息を漏らしたのが解った。聞き分けの無い小娘の駄々に苛ついたのだろう。
「悪かった。君を傷付けた。」
今更な事を掘り返す言葉は、酷く寒々しく聞こえた。
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