ヘンリエッタの再婚約

桃井すもも

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自室へ戻る長い廊下を歩きながら、ヘンリエッタは先程の事を思い返していた。

信じられない事を聞いた筈なのに、まるで間違っているのは自分の方なのかと、そんな空気が窺えた。

「あり得ないわ、そんな事。」

小さく呟く声は、薄暗い廊下の闇に溶けて消えた。



「それは、王命なのでしょうか。」

ヘンリエッタは向かいに座る父に尋ねた。

「いや、流石にそこまでのものではないだろう。だが、第二王子殿下のお勧めを受けては、そうそう無碍に出来るものではない。」

「お父様はそれで宜しいの?」

「過ちは誰にでもある。」

「また同じ事が起こらないとお思いなので?」

「ヘンリエッタ。お前の清廉な気質は貴族の令嬢として誇らしい美点だ。だが、それも度を過ぎてしまえば悪癖となる。清いものだけでなく濁りを飲み込む度量も必要だ。」

「お父様。私、思うのです。二度ある事は三度あると。同じ事を繰り返されないとどうして言えるのでしょう。それは、お父様。お父様だって御自分で良くお解かりでしょう?」

ヘンリエッタは父に向けて痛烈な皮肉を放った。父の隣りに座る母は表情が固い。

父は度を越した娘の発言に一瞬眉を顰めるも、

「また話そう。今日はもう戻りなさい。」
と、ヘンリエッタへ退席を促した。



ヘンリエッタ・モンタギュー・ノーザランドは、ノーザランド伯爵家の息女である。
二つ下に弟がおり、伯爵家はこの弟が継承する。

貴族学園に通うヘンリエッタは、この春から三学年に進級していた。卒業まであと半年、縁談話が持ち上がるのは、寧ろ遅い方だろう。

それも当然の事かも知れない。
ヘンリエッタは一昨年婚約の解消をしていた。所謂、疵持ちである。その疵を付けたのが元の婚約者で、彼とは十四歳の春に婚約を結んでいた。

元の婚約者とは、ハロルド・シーモア・ダウンゼンと言って、ダウンゼン伯爵家の嫡男であった。

王城勤めの宮廷貴族であるダウンゼン伯爵家であるが、父伯爵は宰相補佐官を務めており、当時のハロルドは王国の第二王子殿下の側近候補で、親友的な間柄にあった。

黒髪に濃い青の瞳。三つ年上の彼の大人びた表情に、初見の席で惹かれたのはヘンリエッタの方であった。

聡明な青年だと思った。誠実な人だと思った。
政略的な意味合いからの婚約も貴族であれば当然で、令嬢の立場から相手を選ぶ事など難しい。せめて、暴力的な人柄で無いこと、生理的に相容れない人物でなければ良いと思っていたのが、ハロルドはすっきりと涼し気な目元が印象的な、面立ちの整った落ち着きのある青年であった。十四歳のヘンリエッタが、ほぼ一目惚れに近い感情を抱いたのは仕方の無い事だったろう。

ハロルドとの婚約は、滞り無く結ばれた。
ハロルドは婚約の顔合わせの席でも、三つ年下で幼さの残るヘンリエッタを下に見る風も無く、常に紳士的な態度であった。婚約後直ぐに設けられた二人だけの茶会の席で、「これから宜しく」と言った彼は、確かに温かな笑みを向けてくれた。

だから、彼に限ってそんな事は起こらないと信じていたし疑いの欠片も抱く事は無かった。

婚約して二年が過ぎた春に、貴族学園に入学するヘンリエッタと入れ替わって学園を卒業したハロルドは、同じく卒業を迎えた第二王子の遊学に付いて、隣国の大学に留学した。

その間も、ヘンリエッタは文を書いた。
ハロルドの体調を気遣うものであったり、王国での出来事を伝えるものであったり。甘い感情を記すものではなかったが、書き記す言葉の一言一言に思慕を乗せて丁寧に手紙を書いた。

返事はいつもきちんと届いた。隣国の様子を伝える言葉が並ぶばかりで、こちらも甘やかな単語の一つも無かったが、必ず最後は「君が健やかであることを祈る」と締めくくられていた。

そうして半年後、帰国した彼が最初に現れた夜会には、婚約者のヘンリエッタではなく別の女性を伴っていた。

夜会の前に、ハロルドからの知らせは何も無かった。帰って来たと知らせる文だとか、夜会の衣装を合わせようと誘う文だとか、迎えに行く時間を伝える文だとか。
それ以前に、彼の帰国を知ったのは、第二王子殿下の帰国が書かれた新聞記事によってであった。その帰国祝いの夜会にも、ヘンリエッタへは文もドレスも贈られる事は無かった。

両親に付いて参加した夜会の場で、ハロルドが隣国の第二王女殿下をエスコートする姿を見て初めて、ヘンリエッタは初恋が終わってしまったのだと悟った。

程無くして二人の婚約は解消される。
解消と言うよりも何もかも有耶無耶のうちに解かれていた。

解消の手続きは両親のみで行われ、双方でどんな話しが為されたのかは詳しい事は解らない。知ったからと何も変わらない。変わったのはハロルドの心であり、変わらないのはヘンリエッタの失恋と婚約解消の事実であった。 


あれから二年が経っていた。

「私が傷付かないと思ったのかしら。」

自室へ戻り夜着に着替えて、ヘンリエッタは独りごちた。

新聞で知る前から微かに胸が騒いだのは、それから起こる出来事への予感であったのかも知れない。

裏切られた末に壊れた初恋は、ヘンリエッタの柔らかな心に傷を残した。それは、隣国王女に婚約者を奪われた令嬢に対する世間が思う疵とは別で、生涯忘れられそうにはなかった。

学園では、二人の婚約も破談も知るのは限られた者であったし、同学年には王族もいた事から、王族にも関わる噂話が表立って耳に入ることは無かった。そればかりは救いであった。



灯りを小さくした部屋には、窓辺から月明かりが射している。明るい筈だ。今宵は満月である。
欠けるところの無い月を眺めながら、欠けてしまったのは自分なのだと思う。とても大切なものを欠いて失ってしまったのだとヘンリエッタは思っている。


父から齎された話とは、ハロルドとの再婚約を持ち掛ける文についてであった。
文には金色に輝く王家の紋の封蝋が押されていた。




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