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湖へ向かう小径は、ひと月前とは違って見えた。辺境伯の騎士等が毎日見回りをしている為に、歩く道だけは踏みならされていたものの、その両脇は夏草が生い茂ってステファニアの腰の辺りまで覆うほどであった。
夏至の夜明けにここを歩いた時には、暗闇の中でエルリックを隣に感じながら進むうちに、いつしか二人きりの世界にいるようで暗闇の恐怖も霧散した。
今もまた、草木に足を取られない様に、
エルリックが前を塞ぐ植物を剣で払いながら歩いている。彼が帯剣する姿を初めて見て、エルリックが辺境の騎士でありステファニアはその妻になるのだと改めて実感した。
エルリックは、その左手はステファニアの手を握り締めて、木の根につっかかりそうになるとひょいと持ち上げてくれる。その力強い手がステファニアを安心させた。
前にここを通ったのは記憶に新しい筈なのに、昼中だからか夏の盛りであるからか、まるで初めて歩く道の様に感じられた。ただ、向こう側に確かに湖らしきものが覗いて見えて、この道があの日歩いた道で間違いないのだと解った。
ひと月ぶりの辺境伯領は、辺境伯も夫人も、エルリックの兄も騎士達も使用人達も、皆変わらぬ温かさで二人を出迎えてくれた。
変わったとしたらそれは二人の方で、このひと月でステファニアはエルリックの婚約者となり、現辺境伯家が迎え入れる最初の令息夫人の立場となった。
四人いる子息達は、これまで誰も婚約者を得てはいなかった。その理由は解らないが、嫡男である長兄は既に二十歳であるが、彼もまた未だ誰とも婚約を結んではいなかった。
前回は会えなかったエルリックの弟にも会えて、彼はこの春から王国の北側にある寄宿制の学園に通っており、初めての夏休みに帰省していた。
誰も言葉に出さないからステファニアも聞かずにいたのは、もう一人の子息の存在であった。
エルリックは男子ばかりの四人兄弟である。兄が二人に弟が一人いるのだと聞いたのは、まだシャーロットが学園にいた頃だ。
前回辺境伯領地を訪れた時も今回も、誰の口にも上らなかったのは、次兄であるこの辺境伯家の次男であった。
ステファニアとお茶を飲みながら、夫人は春に入学したばかりの末息子を案ずる様な事を話していたが、次兄の影は見えなかった。
「エルリック様」
「ん?」
ステファニアの呼び掛けに、エルリックがステファニアを見下ろした。白銀の髪が陽の光に透けて見える。彼は騎士であるのに白く美しい肌をしている。だが、太陽の下でよく見れば、頬にも目元にも薄っすらと切り傷の跡が幾つも残っているのが解った。
真っ青な瞳に向かって「湖だわ」と言えば、エルリックはうんと頷いた。
あの日と同じ様に、木立の中にそこだけがぽっかり空いて、燦めく水面が現れた。
真上から降りそそぐ太陽の日射しを受けて、あの日オレンジ色に染まった湖は、今はきらきらと陽の光を反射していた。
畔まで歩きながら、夏至の夜明けの記憶を呼び起こす。瞼に浮かぶのはオレンジ色に染まる水面で朝日に照らされて耀くシャーロットの姿であった。
「ステファニア、気を付けて。ここの岸辺は浅瀬が無い。水に入れば行き成り深くなっている。透明度が高いから底まで見えるが、それは浅い底などではないんだ。何処までも深い奈落の穴だ。ここは深く空いた穴に水が張った様なものなんだ。」
エルリックが心配するのは仕方が無い。ステファニアは結局泳げなかった。
辺境伯領地を訪れて直ぐに、エルリックはステファニアに泳ぎ方を教えてくれた。
大きな盥に水を張り、そこに顔を付ける事から練習したが、冷たい水が頬に触れた途端、ばくばくと心臓が音を立てて、それは周囲にも聴こえるのではないかと思う程で、ステファニアは怖くて怖くてとてもじゃないがそれ以上は潜れなかった。
盥に張られた浅い水の、どこが「潜る」と言うのかと呆れられそうなものであるが、何度挑戦しても目と鼻と頬が水に触れた途端、ばくばくばくばく心臓が早鐘を打つ。
ぶるぶる手が震えるのを見て、
「ステファニア、無理をするな!」
と、慌ててエルリックがステファニアの肩を引き顔を起こさせた。
直ぐ側で見守っていた侍女がすかさずタオルで顔を覆う。
「大丈夫?!無理をしては駄目よ!」
夫人がごしごしステファニアの顔を拭った。
ステファニアが潜ったのは、多分3cm。それって潜ったのか?潜ったことになるのか?
なるんです。西の辺境伯では今日から水深3cmは潜ったことになるんです。
それでもステファニアは頑張り屋さんであったから、皆が止めるのを押して練習を続けた。
そうしてステファニアはやり遂げた。
盥の中に顔を沈めて耳まで潜った。そうしてパチパチ、瞼を開ける事に成功した。
「ステファニア、よく頑張った!もう良いんだ、それだけで良いんだよ、君が水遊びをしたい時は僕が抱き上げる。君は雨の日に水溜りを歩けるだけで良いんだよ。」
エルリックのとんでも過保護発言は誰も彼もストンと腑に落ちて、遠泳の鬼である夫人は涙を流して「無理をしちゃ駄目よ」と駄目よ駄目よを繰り返した。後に「鬼の目にも涙」とも「辺境伯令息の若妻とは鬼を泣かせた武人」とも語られる事になる。
こうして金槌ステファニアは、盥で潜れるステファニアに昇進したのである。詰まる所、結局薬局泳げない。
夏至の夜明けにここを歩いた時には、暗闇の中でエルリックを隣に感じながら進むうちに、いつしか二人きりの世界にいるようで暗闇の恐怖も霧散した。
今もまた、草木に足を取られない様に、
エルリックが前を塞ぐ植物を剣で払いながら歩いている。彼が帯剣する姿を初めて見て、エルリックが辺境の騎士でありステファニアはその妻になるのだと改めて実感した。
エルリックは、その左手はステファニアの手を握り締めて、木の根につっかかりそうになるとひょいと持ち上げてくれる。その力強い手がステファニアを安心させた。
前にここを通ったのは記憶に新しい筈なのに、昼中だからか夏の盛りであるからか、まるで初めて歩く道の様に感じられた。ただ、向こう側に確かに湖らしきものが覗いて見えて、この道があの日歩いた道で間違いないのだと解った。
ひと月ぶりの辺境伯領は、辺境伯も夫人も、エルリックの兄も騎士達も使用人達も、皆変わらぬ温かさで二人を出迎えてくれた。
変わったとしたらそれは二人の方で、このひと月でステファニアはエルリックの婚約者となり、現辺境伯家が迎え入れる最初の令息夫人の立場となった。
四人いる子息達は、これまで誰も婚約者を得てはいなかった。その理由は解らないが、嫡男である長兄は既に二十歳であるが、彼もまた未だ誰とも婚約を結んではいなかった。
前回は会えなかったエルリックの弟にも会えて、彼はこの春から王国の北側にある寄宿制の学園に通っており、初めての夏休みに帰省していた。
誰も言葉に出さないからステファニアも聞かずにいたのは、もう一人の子息の存在であった。
エルリックは男子ばかりの四人兄弟である。兄が二人に弟が一人いるのだと聞いたのは、まだシャーロットが学園にいた頃だ。
前回辺境伯領地を訪れた時も今回も、誰の口にも上らなかったのは、次兄であるこの辺境伯家の次男であった。
ステファニアとお茶を飲みながら、夫人は春に入学したばかりの末息子を案ずる様な事を話していたが、次兄の影は見えなかった。
「エルリック様」
「ん?」
ステファニアの呼び掛けに、エルリックがステファニアを見下ろした。白銀の髪が陽の光に透けて見える。彼は騎士であるのに白く美しい肌をしている。だが、太陽の下でよく見れば、頬にも目元にも薄っすらと切り傷の跡が幾つも残っているのが解った。
真っ青な瞳に向かって「湖だわ」と言えば、エルリックはうんと頷いた。
あの日と同じ様に、木立の中にそこだけがぽっかり空いて、燦めく水面が現れた。
真上から降りそそぐ太陽の日射しを受けて、あの日オレンジ色に染まった湖は、今はきらきらと陽の光を反射していた。
畔まで歩きながら、夏至の夜明けの記憶を呼び起こす。瞼に浮かぶのはオレンジ色に染まる水面で朝日に照らされて耀くシャーロットの姿であった。
「ステファニア、気を付けて。ここの岸辺は浅瀬が無い。水に入れば行き成り深くなっている。透明度が高いから底まで見えるが、それは浅い底などではないんだ。何処までも深い奈落の穴だ。ここは深く空いた穴に水が張った様なものなんだ。」
エルリックが心配するのは仕方が無い。ステファニアは結局泳げなかった。
辺境伯領地を訪れて直ぐに、エルリックはステファニアに泳ぎ方を教えてくれた。
大きな盥に水を張り、そこに顔を付ける事から練習したが、冷たい水が頬に触れた途端、ばくばくと心臓が音を立てて、それは周囲にも聴こえるのではないかと思う程で、ステファニアは怖くて怖くてとてもじゃないがそれ以上は潜れなかった。
盥に張られた浅い水の、どこが「潜る」と言うのかと呆れられそうなものであるが、何度挑戦しても目と鼻と頬が水に触れた途端、ばくばくばくばく心臓が早鐘を打つ。
ぶるぶる手が震えるのを見て、
「ステファニア、無理をするな!」
と、慌ててエルリックがステファニアの肩を引き顔を起こさせた。
直ぐ側で見守っていた侍女がすかさずタオルで顔を覆う。
「大丈夫?!無理をしては駄目よ!」
夫人がごしごしステファニアの顔を拭った。
ステファニアが潜ったのは、多分3cm。それって潜ったのか?潜ったことになるのか?
なるんです。西の辺境伯では今日から水深3cmは潜ったことになるんです。
それでもステファニアは頑張り屋さんであったから、皆が止めるのを押して練習を続けた。
そうしてステファニアはやり遂げた。
盥の中に顔を沈めて耳まで潜った。そうしてパチパチ、瞼を開ける事に成功した。
「ステファニア、よく頑張った!もう良いんだ、それだけで良いんだよ、君が水遊びをしたい時は僕が抱き上げる。君は雨の日に水溜りを歩けるだけで良いんだよ。」
エルリックのとんでも過保護発言は誰も彼もストンと腑に落ちて、遠泳の鬼である夫人は涙を流して「無理をしちゃ駄目よ」と駄目よ駄目よを繰り返した。後に「鬼の目にも涙」とも「辺境伯令息の若妻とは鬼を泣かせた武人」とも語られる事になる。
こうして金槌ステファニアは、盥で潜れるステファニアに昇進したのである。詰まる所、結局薬局泳げない。
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