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午後になっても教室の中はどこか浮ついた空気が漂って、皆そわそわと落ち着かない様子だった。
教師もそれが理解出来るからか、今日ばかりは朗読や板書で時間を費やしていた。
漸く授業が終わると、デイヴィッド殿下はシャーロットを向いて声を掛けた。
「シャーロット嬢、疲れたろう。」
「お気遣い有難うございます、殿下。」
一瞬、教室内の空気が止まった様だった。音の無い世界で時間が止まった様に思われた。
これが聖女の声なのだわ。
高い訳では無いのに軽やかで、低い訳では無いのに耳に残る。大きな声では無かったのに、どこまでも響いて届く不思議な声音。
ステファニアは思わずシャーロットを凝視してしまった。立ち上がり殿下に向き合う彼女は、その表情がこちらからもよく見えた。
眉の辺りで切り揃えた前髪。その下にある漆黒の瞳がデイヴィッド殿下を見上げている。長く真っ黒な睫毛が瞼を覆って、それが目元に影を落として瞳は一層潤んで見えた。
一昨日、街で見かけた時に可憐だと思ったが、より近い距離で見るシャーロットは美しい女性だった。
この世に女性の美を形容する言葉は山ほどあるが、彼女にはそのどれも当て嵌まらないと思えた。
透明な氷が清水に沈み溶け込むように、混じり気の無い純粋な美しさだと、そう思った。
ステファニアはそこで漸く息を吐く。呼吸すら忘れて見入っていたらしい。
息を吸って、もう一度小さく吐いた。
シャーロットが鞄を持って席を離れる。
一歩先にデイヴィッド殿下が待っていて、気遣う様に彼女を出口まで誘う。二人の背後には側近候補の令息が二人ぴたりと付いて、そうして彼らは教室を出て行った。
息が上手く出来なかったのはステファニアばかりでは無かったらしい。教室内は時が止まった様に静まり返っていた。
それから、縛りを解かれたように皆が一斉に声を発したから、教室の中は相当騒がしかった事だろう。
「聖女だわ。シャーロット様は正しく聖女だわ。」
誰かがそう言うと、それが引き金になって聖女聖女とあちらこちらで「聖女」と云う呼び名が飛び交う。
ステファニアの席は一番後ろであったから教室内が見渡せる。皆が興奮して沸くその様子が一望出来た。だから直ぐに分かった。
皆が興奮の坩堝に沸くその中で、白銀の彼だけが常と変わらず机上を片付けている。それも直ぐに終えて、彼は立ち上がった。
「エルリック様、また明日。」
直ぐ目の前にいる彼に挨拶をすれば、エルリックは、
「ああ、ステファニア嬢も。また明日。」
そう言ってまだ熱く興奮している皆の後ろを通って教室を出て行った。
「あの方のお生まれは平民ではないわ。」
「ステファニアもそう思った?」
帰りの馬車が迎えに来るまで少し時間があった。
ステファニアはアメリアと一緒に校舎を出て、馬車止まりが見える位置にあるベンチに座った。
二人並んで座りながら、ステファニアは目の前にある花壇の花を見るともなく見ながら、先ほど感じた事を口にした。
昼間も感じた違和感は、授業が終わった後にも感じたものだった。もっと言うなら、彼女の居住まい佇まい、その全てに感じる事だった。
あの身の熟し。椅子に座っているだけなのに、背中に一本芯がある様に僅かにもぶれる事のない姿勢。立ち上がるのに音はしただろうか。身を翻すのにスカートの裾は広がっただろうか。
デイヴィッド殿下に声を掛けられて、それに耳を傾け頷く時でさえ、その背中は軸を失う事は無かった。
何より退室する際に、デイヴィッド殿下は目立たない程度に左手を差し出し、そこにシャーロットは右手を添えた。その手は直ぐに離されたが、あれは間違いなくエスコートをしたのだろう。
退室するのに殿下はシャーロットをエスコートして、直ぐにその手は離されたからきっと皆は気が付かなかったのだろう。
貴人からエスコートを受けて、それを自然に受け入れる。あの身の熟し、あの姿、あの笑み。彼女こそ貴人である。
最初から不自然だった。
王族に伴われて萎縮する気配が一切無かった。
行き成り貴族学園に入ったのに、彼女は授業の間、ずっと教師を見つめていた。
それは、授業の内容について行けないのではなくて、既に彼女が知っているからだろう。
「ステファニア、あの方、一体何者なのかしら。」
「多分、あの方は貴人でしょう。王都の貴族であれば私達でも分かる筈よね。もしかしたらあの方、他国の貴族でいらっしゃるのかも知れないわね。」
「他国の貴族だとして、どうしてそれが聖女などと呼ばれているのかしら。」
アメリアの言った事はステファニアも思った事だった。
「そうよね。確かに今は子爵家の令嬢となられているから、この国の貴族で間違い無いのだけれど。」
「ねえ、ステファニア、きっと彼なら分かるわね。」
「彼?」
「エルリック様よ。」
あの騒ぎの中にあって、一人常と変わらぬ様子で帰って行ったエルリック。
「確かに。」
「でしょう?」
少しの間、二人は無言になった。
余りに強烈な一日に、少しばかり疲れてしまった。
「ステファニア、聞いてみない?」
「え?何を?」
どうやらアメリアの思考は、まだ先程の会話の事を考えていたらしい。
「エルリック様によ。聖女の事を。聖女が見つかった時の様子を聞いてみるのよ。」
「え~。それは無理じゃないかしら。彼女の事は王家が保護をするほどよ?辺境伯家がそれを外に漏らすかしら。」
「駄目で元々、ダメ元よ。聞くだけ聞いてみましょうよ。」
「ふふ、ダメ元って。」
アメリアは楽天的である。
侯爵家の末っ子四女として、大変おおらかに育った。明るく真っ直ぐな彼女の気質がステファニアは好きである。
そうして時折こんな突拍子も無い事を言い出すところも、憎めなくてついつい笑ってしまうのであった。
教師もそれが理解出来るからか、今日ばかりは朗読や板書で時間を費やしていた。
漸く授業が終わると、デイヴィッド殿下はシャーロットを向いて声を掛けた。
「シャーロット嬢、疲れたろう。」
「お気遣い有難うございます、殿下。」
一瞬、教室内の空気が止まった様だった。音の無い世界で時間が止まった様に思われた。
これが聖女の声なのだわ。
高い訳では無いのに軽やかで、低い訳では無いのに耳に残る。大きな声では無かったのに、どこまでも響いて届く不思議な声音。
ステファニアは思わずシャーロットを凝視してしまった。立ち上がり殿下に向き合う彼女は、その表情がこちらからもよく見えた。
眉の辺りで切り揃えた前髪。その下にある漆黒の瞳がデイヴィッド殿下を見上げている。長く真っ黒な睫毛が瞼を覆って、それが目元に影を落として瞳は一層潤んで見えた。
一昨日、街で見かけた時に可憐だと思ったが、より近い距離で見るシャーロットは美しい女性だった。
この世に女性の美を形容する言葉は山ほどあるが、彼女にはそのどれも当て嵌まらないと思えた。
透明な氷が清水に沈み溶け込むように、混じり気の無い純粋な美しさだと、そう思った。
ステファニアはそこで漸く息を吐く。呼吸すら忘れて見入っていたらしい。
息を吸って、もう一度小さく吐いた。
シャーロットが鞄を持って席を離れる。
一歩先にデイヴィッド殿下が待っていて、気遣う様に彼女を出口まで誘う。二人の背後には側近候補の令息が二人ぴたりと付いて、そうして彼らは教室を出て行った。
息が上手く出来なかったのはステファニアばかりでは無かったらしい。教室内は時が止まった様に静まり返っていた。
それから、縛りを解かれたように皆が一斉に声を発したから、教室の中は相当騒がしかった事だろう。
「聖女だわ。シャーロット様は正しく聖女だわ。」
誰かがそう言うと、それが引き金になって聖女聖女とあちらこちらで「聖女」と云う呼び名が飛び交う。
ステファニアの席は一番後ろであったから教室内が見渡せる。皆が興奮して沸くその様子が一望出来た。だから直ぐに分かった。
皆が興奮の坩堝に沸くその中で、白銀の彼だけが常と変わらず机上を片付けている。それも直ぐに終えて、彼は立ち上がった。
「エルリック様、また明日。」
直ぐ目の前にいる彼に挨拶をすれば、エルリックは、
「ああ、ステファニア嬢も。また明日。」
そう言ってまだ熱く興奮している皆の後ろを通って教室を出て行った。
「あの方のお生まれは平民ではないわ。」
「ステファニアもそう思った?」
帰りの馬車が迎えに来るまで少し時間があった。
ステファニアはアメリアと一緒に校舎を出て、馬車止まりが見える位置にあるベンチに座った。
二人並んで座りながら、ステファニアは目の前にある花壇の花を見るともなく見ながら、先ほど感じた事を口にした。
昼間も感じた違和感は、授業が終わった後にも感じたものだった。もっと言うなら、彼女の居住まい佇まい、その全てに感じる事だった。
あの身の熟し。椅子に座っているだけなのに、背中に一本芯がある様に僅かにもぶれる事のない姿勢。立ち上がるのに音はしただろうか。身を翻すのにスカートの裾は広がっただろうか。
デイヴィッド殿下に声を掛けられて、それに耳を傾け頷く時でさえ、その背中は軸を失う事は無かった。
何より退室する際に、デイヴィッド殿下は目立たない程度に左手を差し出し、そこにシャーロットは右手を添えた。その手は直ぐに離されたが、あれは間違いなくエスコートをしたのだろう。
退室するのに殿下はシャーロットをエスコートして、直ぐにその手は離されたからきっと皆は気が付かなかったのだろう。
貴人からエスコートを受けて、それを自然に受け入れる。あの身の熟し、あの姿、あの笑み。彼女こそ貴人である。
最初から不自然だった。
王族に伴われて萎縮する気配が一切無かった。
行き成り貴族学園に入ったのに、彼女は授業の間、ずっと教師を見つめていた。
それは、授業の内容について行けないのではなくて、既に彼女が知っているからだろう。
「ステファニア、あの方、一体何者なのかしら。」
「多分、あの方は貴人でしょう。王都の貴族であれば私達でも分かる筈よね。もしかしたらあの方、他国の貴族でいらっしゃるのかも知れないわね。」
「他国の貴族だとして、どうしてそれが聖女などと呼ばれているのかしら。」
アメリアの言った事はステファニアも思った事だった。
「そうよね。確かに今は子爵家の令嬢となられているから、この国の貴族で間違い無いのだけれど。」
「ねえ、ステファニア、きっと彼なら分かるわね。」
「彼?」
「エルリック様よ。」
あの騒ぎの中にあって、一人常と変わらぬ様子で帰って行ったエルリック。
「確かに。」
「でしょう?」
少しの間、二人は無言になった。
余りに強烈な一日に、少しばかり疲れてしまった。
「ステファニア、聞いてみない?」
「え?何を?」
どうやらアメリアの思考は、まだ先程の会話の事を考えていたらしい。
「エルリック様によ。聖女の事を。聖女が見つかった時の様子を聞いてみるのよ。」
「え~。それは無理じゃないかしら。彼女の事は王家が保護をするほどよ?辺境伯家がそれを外に漏らすかしら。」
「駄目で元々、ダメ元よ。聞くだけ聞いてみましょうよ。」
「ふふ、ダメ元って。」
アメリアは楽天的である。
侯爵家の末っ子四女として、大変おおらかに育った。明るく真っ直ぐな彼女の気質がステファニアは好きである。
そうして時折こんな突拍子も無い事を言い出すところも、憎めなくてついつい笑ってしまうのであった。
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