ふられちゃったら

桃井すもも

文字の大きさ
上 下
5 / 60

【5】

しおりを挟む
学園の校門が見えて来て、ゆっくりと馬車が止まった。御者が扉を開ければ、先にニコラスが降りた。

ステップを軽々と飛び越えて颯爽と降り立つ姿に、何処からかきゃあと聞こえたのは下級生の令嬢か。

一度くらいステファニアも真似をして、あんな風に降りてみたい。
ステファニアも馬車を降りようとステップに足を掛ける前に、ニコラスが手を差し伸べて来た。
その手に軽く手の平を乗せれば、思いもかけず強い力で手を握られて、そうしてクイっと引き寄せられた。

わわわ、落ちちゃうと思った瞬間に、ふわりと身体が浮き上がった。
まるで幼子を抱き上げる様に、ニコラスが両手でステファニアの腰を持ち上げて馬車から降ろした。

「「「きゃあ!」」」

今度ははっきり黄色い悲鳴が聞こえて、周りで見ていたらしい令嬢達が頬を染めているのがこちらからも見て分かった。

「ニ、ニコラス様...」

ニコラスがこんな事をするのは初めてだった。ダンスを一緒に踊った事はあっても、こんな風にステファニアの身体と接触するなんて事はこれまで無かった。

「行こう。」

何事もなかった様にニコラスが先に進む。
気を取り直して、ステファニアも後を追った。 


二年前、婚約をしたばかりの頃はうなじが見えていたのが、今は首元を過ぎた金の髪が肩で揺れている。元々上背のあったニコラスだが、こんなにも背が高くなって今ではステファニアと頭一つ分は差がある。

腰を掴んだ手の平が大きかった。
あんな風に誰かに抱えられる事なんて、幼い頃に父に抱っこをしてもらった時しか思い出せない。


ニコラスとステファニアはクラスが違う。
ニコラスはBクラスでステファニアがAクラス。教室は隣同士であった。

「教室まで送る。」

廊下を進めば手前がBクラスなのだが、ニコラスはその奥のAクラスまで送ると言う。
然程距離があるわけでもないから、今日に限って常に無い事をするニコラスは、お茶会を欠席したのを詫びているつもりなのだろうか。


空気が違うことには直ぐに気付いた。

廊下の突き当たり、最奥がステファニアのクラスであるのだが、入り口の扉の前に人だかりが出来ていた。

「なんだ?」

ニコラスも不審に思ったらしい。
ステファニアはその理由に思い当たった。
今日から登校しているのだ。聖女は、今日から学園に編入して来たのだ。

入り口に辿り着けば教室の中が見えた。
教室の中央に見慣れぬ女生徒が座っている。
濡羽色の黒髪が背中まで垂れて、ここから見ても艶のあるのが分かる。真っ直ぐ伸びた黒い髪。

「聖女だ」

誰かの声が聴こえて、ステファニアは教室に入る前に隣で立ち止まっていたニコラスを見上げた。

婚約者がたった今、恋に落ちたのがはっきり解った。

瞬きを忘れてしまったニコラスは、中央の席にいる聖女に見入るばかりに、ステファニアが教室に入ったのにも気が付いていない。

窓際の席に着いてニコラスを振り返れば、彼はまだその場所から動くことも出来ぬまま、聖女に見入っていた。魅入られていた。

天使が本当にいるのなら、彼はたった今ニコラスの胸に矢を放ったのだろう。恋の矢に心臓を射抜かれて、ニコラスは美しい銅像の様に立ち竦んでいた。

ステファニアは、ニコラスから聖女に視線を移す。
彼女は丁度教室の中央の席に座っている。
彼女の周りだけ清廉な空気が漂って見えるのは気の所為では無いだろう。

一昨日は辺境伯令息のエルリックに伴われていたのが、今、彼女の隣には第三王子のデイヴィッド殿下が座っている。

エルリックはと言うと、ステファニアの目の前に座っている。彼の席はステファニアの真ん前であったから。

もしエルリックが聖女の側付きになっていたなら、聖女もステファニアの目の前に座る事となったのだろうか。

絵本の中の姫君と王子様が目の前に現れたのを想像して、それではとても落ち着いて授業など受けられないと思った。



デイヴィッド殿下は聖女を気遣う様に度々何かを話し掛けて、聖女もそれに小さく頷き答えているのが見えた。

いつの間にか、ニコラスの姿は見えなくなっていた。そろそろ授業も始まるから、自分の教室へと戻ったのだろう。

前を見ればエルリックは、窓の外の景色を眺めている。彼は大抵いつもそんな風なのだが、今日ばかりは落ち着いていられる日では無いだろう。

このクラスは成績も生家の爵位も高い生徒が多いから、流石に大きな声で騒ぎはしないが、誰も彼もが中央の二人、デイヴィッド殿下と聖女に視線も心も奪われて、さざ波の様にヒソヒソ密やかな声が響いて聞こえている。

ステファニアも、聖女の背中に流れ落ち艶髪に見惚れてしまう。デイヴィッド殿下が側にいることからも、彼女が噂の聖女であるのは確かだろう。

ただ静かに座っている姿だけで、一瞬の内に婚約者の心を捉えた乙女。
学園には見目の美しい令嬢は幾人もいるが、こんなに鮮やかに瞳も心も捉えてしまう女性ひとを、ステファニアは知らない。

辺境の地に突然現れた美しい乙女。
彼女は一体何者なのだろう。聖女とは、一体何者なのだろう。

元より婚約者の心はステファニアには無かったが、それでも目の前で彼が心を奪われる瞬間に立ち会って、ステファニアは覚悟をしていた筈なのに、思った以上に自分が哀しんでいる事に気が付いた。

さっきから胸がしくしく痛むのは、そのせいなのだと思い至った。



しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話

甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。 王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。 その時、王子の元に一通の手紙が届いた。 そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。 王子は絶望感に苛まれ後悔をする。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑

岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。 もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。 本編終了しました。

病弱な幼馴染と婚約者の目の前で私は攫われました。

恋愛
フィオナ・ローレラは、ローレラ伯爵家の長女。 キリアン・ライアット侯爵令息と婚約中。 けれど、夜会ではいつもキリアンは美しく儚げな女性をエスコートし、仲睦まじくダンスを踊っている。キリアンがエスコートしている女性の名はセレニティー・トマンティノ伯爵令嬢。 セレニティーとキリアンとフィオナは幼馴染。 キリアンはセレニティーが好きだったが、セレニティーは病弱で婚約出来ず、キリアンの両親は健康なフィオナを婚約者に選んだ。 『ごめん。セレニティーの身体が心配だから……。』 キリアンはそう言って、夜会ではいつもセレニティーをエスコートしていた。   そんなある日、フィオナはキリアンとセレニティーが濃厚な口づけを交わしているのを目撃してしまう。 ※ゆるふわ設定 ※ご都合主義 ※一話の長さがバラバラになりがち。 ※お人好しヒロインと俺様ヒーローです。 ※感想欄ネタバレ配慮ないのでお気をつけくださいませ。

【取り下げ予定】愛されない妃ですので。

ごろごろみかん。
恋愛
王妃になんて、望んでなったわけではない。 国王夫妻のリュシアンとミレーゼの関係は冷えきっていた。 「僕はきみを愛していない」 はっきりそう告げた彼は、ミレーゼ以外の女性を抱き、愛を囁いた。 『お飾り王妃』の名を戴くミレーゼだが、ある日彼女は側妃たちの諍いに巻き込まれ、命を落としてしまう。 (ああ、私の人生ってなんだったんだろう──?) そう思って人生に終止符を打ったミレーゼだったが、気がつくと結婚前に戻っていた。 しかも、別の人間になっている? なぜか見知らぬ伯爵令嬢になってしまったミレーゼだが、彼女は決意する。新たな人生、今度はリュシアンに関わることなく、平凡で優しい幸せを掴もう、と。 *年齢制限を18→15に変更しました。

「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。

あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。 「君の為の時間は取れない」と。 それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。 そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。 旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。 あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。 そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。 ※35〜37話くらいで終わります。

【完】愛人に王妃の座を奪い取られました。

112
恋愛
クインツ国の王妃アンは、王レイナルドの命を受け廃妃となった。 愛人であったリディア嬢が新しい王妃となり、アンはその日のうちに王宮を出ていく。 実家の伯爵家の屋敷へ帰るが、継母のダーナによって身を寄せることも敵わない。 アンは動じることなく、継母に一つの提案をする。 「私に娼館を紹介してください」 娼婦になると思った継母は喜んでアンを娼館へと送り出して──

平凡令嬢の婚活事情〜あの人だけは、絶対ナイから!〜

本見りん
恋愛
「……だから、ミランダは無理だって!!」  王立学園に通う、ミランダ シュミット伯爵令嬢17歳。  偶然通りかかった学園の裏庭でミランダ本人がここにいるとも知らず噂しているのはこの学園の貴族令息たち。  ……彼らは、決して『高嶺の花ミランダ』として噂している訳ではない。  それは、ミランダが『平凡令嬢』だから。  いつからか『平凡令嬢』と噂されるようになっていたミランダ。『絶賛婚約者募集中』の彼女にはかなり不利な状況。  チラリと向こうを見てみれば、1人の女子生徒に3人の男子学生が。あちらも良くない噂の方々。  ……ミランダは、『あの人達だけはナイ!』と思っていだのだが……。 3万字少しの短編です。『完結保証』『ハッピーエンド』です!

処理中です...