3 / 60
【3】
しおりを挟む
その日は土曜日で、学園は休みであった。
そうしてニコラスとの半月に一度の茶会の日であった。
茶会の日は、交互に互いの家で会っており、前回がニコラスのロンフォルド伯爵邸であったから、今回はステファニアの邸で会う事になっていた。
けれどもその日の早朝、ニコラスから文が届いた。
「ニコラス様は急用が出来たらしいわ。」
「ステファニア。殿方が約束の日に来ないのは、それは別れの予兆よ。」
ステファニアがニコラスからの文を読んでいると、姉が不吉な予言めいた事を言う。
「貴方もそう思わない?」
「僕は君との約束に遅れたことも反故にした事も一度もないから、剣しか持てない若造の気持ちはこれっぽっちも解らないな。」
姉の問い掛けに、義兄はキレッキレの返答をした。なんだろう、聞いてて胸がスッキリする。
「お母様には私から話しておくわ。ステファニア、気にしない事よ。これがワンカウント。さあ、これから何回こんな事があるのかしらね。」
姉が親指を折りながら言う。
何回までなら許される範囲なのだろう。と言うか、これから何度もこんな事が起こるのかしら。
哀しい胸騒ぎを覚えて、ステファニアはこのまま邸にいては悪い考えしか浮かばない様な気がしてきた。
ステファニアは、婚約の初めからニコラスと上手く行かない予感を抱いていた。
だからと言って、この婚約が破談になるのを望んでいた訳では無い。
ニコラスはステファニアに甘い事も言わないし甘い素振りも見せないし、二人の間に甘い空気が漂う事も無いけれど、彼は彼なりに騎士精神に則って正しく婚約者として付き合ってくれていた。
遅刻も無ければ、今回のような直前での約束の反故など初めての事だった。
ニコラスが自分との婚姻を望んでいない。
そう思うのと、そういう確証が面前に現れるのとでは大きな違いがある。
では、ステファニアはニコラスの事をどう思うのか。
嫌ではない。嫌いではない。興味を抱かれないのを寂しく思う。
これだけで十分慕っていると思って良いのではなかろうか。
燃えるような恋心では無いけれど、こうして今までに無い行動を取られると哀しくなる位には慕っている。
ステファニアが本気で駄目だと思っていたなら、とっくの昔に父にも母にも泣きついた。
彼とはきっと上手く行かないだろう。けれども、もしかしたら、上手く行くかも知れないと、そんな風に思っていたのも事実なのである。
ニコラスから婚約解消を願われるだろうと早いうちから覚悟していたのは、心の予防線である。
初見で気に入ってもらえなかった心の傷と、望まれないまま縁を切られる瑕とをまともに受け止めるのが辛いから、二年を掛けて覚悟という名の心のクッションを抱き締めてきたのである。
折角のお天気で、身綺麗なワンピースも用意していた。このまま部屋にいても余計な事を考えるだけだろう。
丁度、インクが切れていたし刺繍糸も欲しかった。ぽっかり空いた時間だから、侍女に付き合ってもらって街へ買い物に出掛けることにした。
文房具店でインクを選ぶ。
最近は洒落たネーミングのインクが流行っていて、今手にしているのは『宵闇の夜空』と言う濃い群青に黒が混ざったインクである。上手い事を言う。漆黒でもなく青でも無い。月の無い夜の闇の色。
それから『紺碧の水面』。これはエメラルドグリーンに濃い青が混ざった深い海の様な色である。ステファニアの瞳の色にも似ていて、これは絶対買おうと決めた。
変わり種は深みのある赤であった。赤茶の混ざるバーガンディーで『時を超えた赤葡萄』と云う名であった。
結局、その三色の購入を決めて、水色系やオレンジ系に目移りしていたその時、ショーウィンドウ越しに通りの向こうに見知った顔を見付けた。
エルリック・グラハム・ノーマン。
西の辺境伯、ノーマン辺境伯令息である。
白銀の髪に青い瞳は直ぐに彼だと解った。あんな綺麗な白銀の髪は、彼くらいしか知らない。瞳の色も濃く鮮やかで、失礼でなければ正面からじっくり見つめてみたい程である。
顎のラインで切り揃えた髪が童話の王子様そのもので、彼は学園で令嬢達から密かに『王子』と呼ばれている。
同じクラスに王国の第三王子が在籍しており、本物の王子がいるのになんとも不敬な話しであるのだが、ステファニア自身も王子呼びした事があるのだから人のことは責められない。
王子が人目を惹くのは常であったが、今日が常にない光景であるのは、彼の横にいる人物であった。
漆黒の長い髪。
「え?」
ステファニアは思わず声を漏らしてしまった。
あれは。
濡羽色の黒く長い髪に、墨を落とした様な漆黒の瞳。
遠目に解る白い肌。口元が紅いのは紅を引いているのだろうか。
通りの向こうから二人がこちらに近付いて来ると、その姿がはっきり解った。
彼女が聖女なのだ。
西の辺境伯に現れた聖女。
近日中に王都を訪れると聞ていた。そうして間もなく学園に編入するという。
そうだ、やはり彼女が聖女だ。それでエルリックが付き添っているのだ。
なんて可憐な女性なのかしら。
聖女と身を明かさずとも聖女と呼んでしまいそう。
ステファニアは瞬時に理解した。
ニコラス様は、一目で恋に落ちるだろう。この可憐な女性に心を奪われてしまうだろう。
そうして、ステファニアとの婚約の解消を願い出るだろう。
そうしてニコラスとの半月に一度の茶会の日であった。
茶会の日は、交互に互いの家で会っており、前回がニコラスのロンフォルド伯爵邸であったから、今回はステファニアの邸で会う事になっていた。
けれどもその日の早朝、ニコラスから文が届いた。
「ニコラス様は急用が出来たらしいわ。」
「ステファニア。殿方が約束の日に来ないのは、それは別れの予兆よ。」
ステファニアがニコラスからの文を読んでいると、姉が不吉な予言めいた事を言う。
「貴方もそう思わない?」
「僕は君との約束に遅れたことも反故にした事も一度もないから、剣しか持てない若造の気持ちはこれっぽっちも解らないな。」
姉の問い掛けに、義兄はキレッキレの返答をした。なんだろう、聞いてて胸がスッキリする。
「お母様には私から話しておくわ。ステファニア、気にしない事よ。これがワンカウント。さあ、これから何回こんな事があるのかしらね。」
姉が親指を折りながら言う。
何回までなら許される範囲なのだろう。と言うか、これから何度もこんな事が起こるのかしら。
哀しい胸騒ぎを覚えて、ステファニアはこのまま邸にいては悪い考えしか浮かばない様な気がしてきた。
ステファニアは、婚約の初めからニコラスと上手く行かない予感を抱いていた。
だからと言って、この婚約が破談になるのを望んでいた訳では無い。
ニコラスはステファニアに甘い事も言わないし甘い素振りも見せないし、二人の間に甘い空気が漂う事も無いけれど、彼は彼なりに騎士精神に則って正しく婚約者として付き合ってくれていた。
遅刻も無ければ、今回のような直前での約束の反故など初めての事だった。
ニコラスが自分との婚姻を望んでいない。
そう思うのと、そういう確証が面前に現れるのとでは大きな違いがある。
では、ステファニアはニコラスの事をどう思うのか。
嫌ではない。嫌いではない。興味を抱かれないのを寂しく思う。
これだけで十分慕っていると思って良いのではなかろうか。
燃えるような恋心では無いけれど、こうして今までに無い行動を取られると哀しくなる位には慕っている。
ステファニアが本気で駄目だと思っていたなら、とっくの昔に父にも母にも泣きついた。
彼とはきっと上手く行かないだろう。けれども、もしかしたら、上手く行くかも知れないと、そんな風に思っていたのも事実なのである。
ニコラスから婚約解消を願われるだろうと早いうちから覚悟していたのは、心の予防線である。
初見で気に入ってもらえなかった心の傷と、望まれないまま縁を切られる瑕とをまともに受け止めるのが辛いから、二年を掛けて覚悟という名の心のクッションを抱き締めてきたのである。
折角のお天気で、身綺麗なワンピースも用意していた。このまま部屋にいても余計な事を考えるだけだろう。
丁度、インクが切れていたし刺繍糸も欲しかった。ぽっかり空いた時間だから、侍女に付き合ってもらって街へ買い物に出掛けることにした。
文房具店でインクを選ぶ。
最近は洒落たネーミングのインクが流行っていて、今手にしているのは『宵闇の夜空』と言う濃い群青に黒が混ざったインクである。上手い事を言う。漆黒でもなく青でも無い。月の無い夜の闇の色。
それから『紺碧の水面』。これはエメラルドグリーンに濃い青が混ざった深い海の様な色である。ステファニアの瞳の色にも似ていて、これは絶対買おうと決めた。
変わり種は深みのある赤であった。赤茶の混ざるバーガンディーで『時を超えた赤葡萄』と云う名であった。
結局、その三色の購入を決めて、水色系やオレンジ系に目移りしていたその時、ショーウィンドウ越しに通りの向こうに見知った顔を見付けた。
エルリック・グラハム・ノーマン。
西の辺境伯、ノーマン辺境伯令息である。
白銀の髪に青い瞳は直ぐに彼だと解った。あんな綺麗な白銀の髪は、彼くらいしか知らない。瞳の色も濃く鮮やかで、失礼でなければ正面からじっくり見つめてみたい程である。
顎のラインで切り揃えた髪が童話の王子様そのもので、彼は学園で令嬢達から密かに『王子』と呼ばれている。
同じクラスに王国の第三王子が在籍しており、本物の王子がいるのになんとも不敬な話しであるのだが、ステファニア自身も王子呼びした事があるのだから人のことは責められない。
王子が人目を惹くのは常であったが、今日が常にない光景であるのは、彼の横にいる人物であった。
漆黒の長い髪。
「え?」
ステファニアは思わず声を漏らしてしまった。
あれは。
濡羽色の黒く長い髪に、墨を落とした様な漆黒の瞳。
遠目に解る白い肌。口元が紅いのは紅を引いているのだろうか。
通りの向こうから二人がこちらに近付いて来ると、その姿がはっきり解った。
彼女が聖女なのだ。
西の辺境伯に現れた聖女。
近日中に王都を訪れると聞ていた。そうして間もなく学園に編入するという。
そうだ、やはり彼女が聖女だ。それでエルリックが付き添っているのだ。
なんて可憐な女性なのかしら。
聖女と身を明かさずとも聖女と呼んでしまいそう。
ステファニアは瞬時に理解した。
ニコラス様は、一目で恋に落ちるだろう。この可憐な女性に心を奪われてしまうだろう。
そうして、ステファニアとの婚約の解消を願い出るだろう。
2,596
お気に入りに追加
4,057
あなたにおすすめの小説
貴方を捨てるのにこれ以上の理由が必要ですか?
蓮実 アラタ
恋愛
「リズが俺の子を身ごもった」
ある日、夫であるレンヴォルトにそう告げられたリディス。
リズは彼女の一番の親友で、その親友と夫が関係を持っていたことも十分ショックだったが、レンヴォルトはさらに衝撃的な言葉を放つ。
「できれば子どもを産ませて、引き取りたい」
結婚して五年、二人の間に子どもは生まれておらず、伯爵家当主であるレンヴォルトにはいずれ後継者が必要だった。
愛していた相手から裏切り同然の仕打ちを受けたリディスはこの瞬間からレンヴォルトとの離縁を決意。
これからは自分の幸せのために生きると決意した。
そんなリディスの元に隣国からの使者が訪れる。
「迎えに来たよ、リディス」
交わされた幼い日の約束を果たしに来たという幼馴染のユルドは隣国で騎士になっていた。
裏切られ傷ついたリディスが幼馴染の騎士に溺愛されていくまでのお話。
※完結まで書いた短編集消化のための投稿。
小説家になろう様にも掲載しています。アルファポリス先行。
病弱な幼馴染と婚約者の目の前で私は攫われました。
鍋
恋愛
フィオナ・ローレラは、ローレラ伯爵家の長女。
キリアン・ライアット侯爵令息と婚約中。
けれど、夜会ではいつもキリアンは美しく儚げな女性をエスコートし、仲睦まじくダンスを踊っている。キリアンがエスコートしている女性の名はセレニティー・トマンティノ伯爵令嬢。
セレニティーとキリアンとフィオナは幼馴染。
キリアンはセレニティーが好きだったが、セレニティーは病弱で婚約出来ず、キリアンの両親は健康なフィオナを婚約者に選んだ。
『ごめん。セレニティーの身体が心配だから……。』
キリアンはそう言って、夜会ではいつもセレニティーをエスコートしていた。
そんなある日、フィオナはキリアンとセレニティーが濃厚な口づけを交わしているのを目撃してしまう。
※ゆるふわ設定
※ご都合主義
※一話の長さがバラバラになりがち。
※お人好しヒロインと俺様ヒーローです。
※感想欄ネタバレ配慮ないのでお気をつけくださいませ。
絶対に間違えないから
mahiro
恋愛
あれは事故だった。
けれど、その場には彼女と仲の悪かった私がおり、日頃の行いの悪さのせいで彼女を階段から突き落とした犯人は私だと誰もが思ったーーー私の初恋であった貴方さえも。
だから、貴方は彼女を失うことになった私を許さず、私を死へ追いやった………はずだった。
何故か私はあのときの記憶を持ったまま6歳の頃の私に戻ってきたのだ。
どうして戻ってこれたのか分からないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。
私はもう彼らとは出会わず、日頃の行いの悪さを見直し、平穏な生活を目指す!そう決めたはずなのに...……。
愛しき夫は、男装の姫君と恋仲らしい。
星空 金平糖
恋愛
シエラは、政略結婚で夫婦となった公爵──グレイのことを深く愛していた。
グレイは優しく、とても親しみやすい人柄でその甘いルックスから、結婚してからも数多の女性達と浮名を流していた。
それでもシエラは、グレイが囁いてくれる「私が愛しているのは、あなただけだよ」その言葉を信じ、彼と夫婦であれることに幸福を感じていた。
しかし。ある日。
シエラは、グレイが美貌の少年と親密な様子で、王宮の庭を散策している場面を目撃してしまう。当初はどこかの令息に王宮案内をしているだけだと考えていたシエラだったが、実はその少年が王女─ディアナであると判明する。
聞くところによるとディアナとグレイは昔から想い会っていた。
ディアナはグレイが結婚してからも、健気に男装までしてグレイに会いに来ては逢瀬を重ねているという。
──……私は、ただの邪魔者だったの?
衝撃を受けるシエラは「これ以上、グレイとはいられない」と絶望する……。
記憶を失くした彼女の手紙 消えてしまった完璧な令嬢と、王子の遅すぎた後悔の話
甘糖むい
恋愛
婚約者であるシェルニア公爵令嬢が記憶喪失となった。
王子はひっそりと喜んだ。これで愛するクロエ男爵令嬢と堂々と結婚できると。
その時、王子の元に一通の手紙が届いた。
そこに書かれていたのは3つの願いと1つの真実。
王子は絶望感に苛まれ後悔をする。
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?
【完結】「俺は2番目に好きな女と結婚するんだ」と言っていた婚約者と婚約破棄したいだけだったのに、なぜか聖女になってしまいました
As-me.com
恋愛
完結しました。
とある日、偶然にも婚約者が「俺は2番目に好きな女と結婚するんだ」とお友達に楽しそうに宣言するのを聞いてしまいました。
例え2番目でもちゃんと愛しているから結婚にはなんの問題も無いとおっしゃっていますが……そんな婚約者様がとんでもない問題児だと発覚します。
なんてことでしょう。愛も無い、信頼も無い、領地にメリットも無い。そんな無い無い尽くしの婚約者様と結婚しても幸せになれる気がしません。
ねぇ、婚約者様。私はあなたと結婚なんてしたくありませんわ。絶対婚約破棄しますから!
あなたはあなたで、1番好きな人と結婚してくださいな。
※この作品は『「俺は2番目に好きな女と結婚するんだ」と婚約者が言っていたので、1番好きな女性と結婚させてあげることにしました。 』を書き直しています。内容はほぼ一緒ですが、細かい設定や登場人物の性格などを書き直す予定です。
わたしは婚約者の不倫の隠れ蓑
岡暁舟
恋愛
第一王子スミスと婚約した公爵令嬢のマリア。ところが、スミスが魅力された女は他にいた。同じく公爵令嬢のエリーゼ。マリアはスミスとエリーゼの密会に気が付いて……。
もう終わりにするしかない。そう確信したマリアだった。
本編終了しました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる