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第72話 職業:がんばってる弱者
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「結城」泡(あぶく)のような声が名を呼びかける。「結城お前」「大丈夫なのか」
「俺?」結城は自分を指差す。「ああ、俺は全然大丈夫、元気だよ。お前らどう」言いかけて結城は言葉を途切れさせた。
「こんなとこにいて」「早く帰った方がいいぞ」
「坂田と片倉って」結城は正面の闇を見るともなく見ながら口にした。「……生きてる、よね?」
「早く帰れ」「ぼちぼち出た方がいいぞ」出現物の声は変らずはかなげに浮かんでは消えていく。
「あれ、何で二人、ここにいんの? バイト?」結城は質問した。
「お前、死ぬぞ」「俺達にはもう」「どうしようもない事だ」「死ぬ前に帰れ」はかなげな声は次第にますますはかなげに、ふっつりと切れそうな灯火のように弱くなって行った。
「俺まだ帰れないんだよ」結城は上方の闇を見上げて答えた。「まだ仕事が残ってるからさ」
「何の仕事だよ」「おかしくないかそれ」「命より大事なのか」「くだらねー」出現物の声は弱々しいながらも小馬鹿にしたような響きを感じさせた。
「確かに、おかしいかも知んないけど」結城は上方を見続けたまま答えた。「この仕事やっちまわないと、ほんと文字通り、生きて帰れないからさ。冗談抜きで」
「そんな仕事辞めちまえ」「おかしくないかまじ」「死ぬぞ」「死んじまうぞ」
「お前ら、ほんとに坂田と片倉か?」結城は何も見えない上方に人差し指を突きつけながら訊いた。「えらい悪意しか向けて来ないけど。何だ、マヨイガ関係?」
「俺らのこと疑うの」「十五年の付き合いなのに」「最近会ってないけど」「冷たいなあお前」
「いや、だってお前ら姿見えないもん」結城は上方を左右に見渡した。「出現物……まさかあれか、スサノオ関係か」
どばしゃっ
突然結城の顔面に、激しく水がぶっかけられた。
「ぶっ」思わず両腕を顔の前にかざす。
ばしゃっ
ばしゃっ
どばしゃっ
水は次々に結城を襲い、顔や体がたちまちずぶ濡れになった。
「なんだよこれ」結城は両腕で顔をかばいつつ叫んだ。「お前らがやってんの? 坂田、片倉。てか、出現物!」
次の瞬間結城は、水の中に全身浸かっていた。
「見えないんだよ」「お前らの目には」「認識できないの」出現物の声は水の中にまで、幻のごとく響き渡って来た。「お前何してんの」「今何の仕事してんだ」「前のとこ辞めたのか」「辞められたのか」「まさかクビじゃないよな」「強者の理論に巻かれて」
――自主退社だよ。
結城の耳に声は聞えていたが、言葉を返すことはできなかった。水中にいるからだ。息を止めていなければならなかった。なので結城は心の中だけで回答した。
「目には見えないって」「見えるものしか存在しないって」「科学で解明されないって」「お前らの能力が追いついてないだけで」「俺らはここにいるから」「すげえシステムの上にいるから」「お前らもそうだろ」「すげえシステムの上に生きてるのに」「気づいてないだけで」
――何それ……会社のこと?
結城は真っ暗な水の向こうに目を凝らしながら、心中で訊いた。
「人間ってずっとそうなんだよな」「すげえシステムの上にいるのに」「どんだけ危険な場所に立ってるか」「自覚のかけらもないし」「いまだに祈ることしかできない」「何万年経っても」「いまだに祈ることしかできない」
――これ……誰が言ってんだろ……神様たち……違うな……地球……?
結城は息を止めていることにそろそろ限界を感じつつ、そう思い到った。
――これ……もしかして俺いま、地球さまと対話してんの?
「仕事仕事って」「目の前のものしか見る事ができない」「自分の為の改善しか提案しない」「システムにかかる負荷なんてどうでもいい」「先を読み取る力もない」
――いや……違うな……これ、対話じゃないよな……一方的にけなされてるだけだし。
「大体今の職業にどれだけの奴が」「誇りを持ってるのか」「何の職業なら誇れるのか」「どんなに足掻いても結局は」「強者の下にかしずく弱者でしかないのに」「何の力も与えられない」「ただこき使われるだけの」「弱者」
「上等だよ」結城は無意識に水中にて叫んだ。そしてその直後、後悔が走った。息が苦しい。
昔の、幼い頃の記憶が蘇る。さまざまな懐かしい場面が脳内をよぎる。ほぼすべて、結城がべそをかいている場面だ。
――なんだろうトラウマか。いじめの記憶錯綜か。フラッシュバックか。略してフラバか。コーヒー飲むのか。
思う内に、今度は赤い顔で大口を開け笑っている自分の顔が現れた。それは白いカッターシャツを身に纏いビールのジョッキを片手に持つ、社会人になった後の自分の姿だった。
――ああ、そうだ。また、諸先輩方と宴会やらなきゃいけないんだ。あの、気を使い気を使い気を使う、飲み会を。皆、笑って、たまに口論して、呑んで、また笑って――
意識が遠のく。
「あー」頭の中に、知らない声が聞こえる。「このヨリシロもうダメかな」
――誰……
結城は薄い意識の中で問うた。
「ゲンキいいからキにイってたが」
――お前……
「さてもヒトのココロネのコエはややこしい」
――神……?
「ムカシはイノリばかりキいてやればよかったが」
――地球……?
「ホウサクだのテンサイチンアツだの」
――俺……?
「イマにヲいてはあっちこっちカマビスしくってシチメンドウクサい」
ぽちょん
結城は、自分の意識がひとつぶの雫となって落ちていく感覚を、最後に受け取った。眼を閉じる。
――スサノオ……?
「俺?」結城は自分を指差す。「ああ、俺は全然大丈夫、元気だよ。お前らどう」言いかけて結城は言葉を途切れさせた。
「こんなとこにいて」「早く帰った方がいいぞ」
「坂田と片倉って」結城は正面の闇を見るともなく見ながら口にした。「……生きてる、よね?」
「早く帰れ」「ぼちぼち出た方がいいぞ」出現物の声は変らずはかなげに浮かんでは消えていく。
「あれ、何で二人、ここにいんの? バイト?」結城は質問した。
「お前、死ぬぞ」「俺達にはもう」「どうしようもない事だ」「死ぬ前に帰れ」はかなげな声は次第にますますはかなげに、ふっつりと切れそうな灯火のように弱くなって行った。
「俺まだ帰れないんだよ」結城は上方の闇を見上げて答えた。「まだ仕事が残ってるからさ」
「何の仕事だよ」「おかしくないかそれ」「命より大事なのか」「くだらねー」出現物の声は弱々しいながらも小馬鹿にしたような響きを感じさせた。
「確かに、おかしいかも知んないけど」結城は上方を見続けたまま答えた。「この仕事やっちまわないと、ほんと文字通り、生きて帰れないからさ。冗談抜きで」
「そんな仕事辞めちまえ」「おかしくないかまじ」「死ぬぞ」「死んじまうぞ」
「お前ら、ほんとに坂田と片倉か?」結城は何も見えない上方に人差し指を突きつけながら訊いた。「えらい悪意しか向けて来ないけど。何だ、マヨイガ関係?」
「俺らのこと疑うの」「十五年の付き合いなのに」「最近会ってないけど」「冷たいなあお前」
「いや、だってお前ら姿見えないもん」結城は上方を左右に見渡した。「出現物……まさかあれか、スサノオ関係か」
どばしゃっ
突然結城の顔面に、激しく水がぶっかけられた。
「ぶっ」思わず両腕を顔の前にかざす。
ばしゃっ
ばしゃっ
どばしゃっ
水は次々に結城を襲い、顔や体がたちまちずぶ濡れになった。
「なんだよこれ」結城は両腕で顔をかばいつつ叫んだ。「お前らがやってんの? 坂田、片倉。てか、出現物!」
次の瞬間結城は、水の中に全身浸かっていた。
「見えないんだよ」「お前らの目には」「認識できないの」出現物の声は水の中にまで、幻のごとく響き渡って来た。「お前何してんの」「今何の仕事してんだ」「前のとこ辞めたのか」「辞められたのか」「まさかクビじゃないよな」「強者の理論に巻かれて」
――自主退社だよ。
結城の耳に声は聞えていたが、言葉を返すことはできなかった。水中にいるからだ。息を止めていなければならなかった。なので結城は心の中だけで回答した。
「目には見えないって」「見えるものしか存在しないって」「科学で解明されないって」「お前らの能力が追いついてないだけで」「俺らはここにいるから」「すげえシステムの上にいるから」「お前らもそうだろ」「すげえシステムの上に生きてるのに」「気づいてないだけで」
――何それ……会社のこと?
結城は真っ暗な水の向こうに目を凝らしながら、心中で訊いた。
「人間ってずっとそうなんだよな」「すげえシステムの上にいるのに」「どんだけ危険な場所に立ってるか」「自覚のかけらもないし」「いまだに祈ることしかできない」「何万年経っても」「いまだに祈ることしかできない」
――これ……誰が言ってんだろ……神様たち……違うな……地球……?
結城は息を止めていることにそろそろ限界を感じつつ、そう思い到った。
――これ……もしかして俺いま、地球さまと対話してんの?
「仕事仕事って」「目の前のものしか見る事ができない」「自分の為の改善しか提案しない」「システムにかかる負荷なんてどうでもいい」「先を読み取る力もない」
――いや……違うな……これ、対話じゃないよな……一方的にけなされてるだけだし。
「大体今の職業にどれだけの奴が」「誇りを持ってるのか」「何の職業なら誇れるのか」「どんなに足掻いても結局は」「強者の下にかしずく弱者でしかないのに」「何の力も与えられない」「ただこき使われるだけの」「弱者」
「上等だよ」結城は無意識に水中にて叫んだ。そしてその直後、後悔が走った。息が苦しい。
昔の、幼い頃の記憶が蘇る。さまざまな懐かしい場面が脳内をよぎる。ほぼすべて、結城がべそをかいている場面だ。
――なんだろうトラウマか。いじめの記憶錯綜か。フラッシュバックか。略してフラバか。コーヒー飲むのか。
思う内に、今度は赤い顔で大口を開け笑っている自分の顔が現れた。それは白いカッターシャツを身に纏いビールのジョッキを片手に持つ、社会人になった後の自分の姿だった。
――ああ、そうだ。また、諸先輩方と宴会やらなきゃいけないんだ。あの、気を使い気を使い気を使う、飲み会を。皆、笑って、たまに口論して、呑んで、また笑って――
意識が遠のく。
「あー」頭の中に、知らない声が聞こえる。「このヨリシロもうダメかな」
――誰……
結城は薄い意識の中で問うた。
「ゲンキいいからキにイってたが」
――お前……
「さてもヒトのココロネのコエはややこしい」
――神……?
「ムカシはイノリばかりキいてやればよかったが」
――地球……?
「ホウサクだのテンサイチンアツだの」
――俺……?
「イマにヲいてはあっちこっちカマビスしくってシチメンドウクサい」
ぽちょん
結城は、自分の意識がひとつぶの雫となって落ちていく感覚を、最後に受け取った。眼を閉じる。
――スサノオ……?
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