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巣立ち

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 先生が誘拐…?

 もし、いや、もしかしなくても、僕だとしたら辻褄が合う。でも通報?先生と弥衣さんしか知らないのに?固定電話で先生に電話をかけるが反応はない。

 不安と焦りで泣き出しそうになりながら弥衣さんに電話をかける。固定電話は使い方を二人にかける以外知らないし、先生と弥生さん以外からはかかってこない。

 弥衣さんはすぐに出る。

「『もしもし?天使様?』」
「あの、いま、外に警察が来てるんですけど、通報がどうとか、誘拐がどうとか…先生今いなくて…」
「『え!?!?警察!?通報!?どういうことなのそれ!!』」

 電話越しに弥衣さんが驚いているのがわかる。

「弥衣さんは何も知りませんか?」
「『待ってね。私今仕事で立て込んでて…あっ!!!』」
「どうしました?」
「『今、職場に連絡があったわ。郊外の鷲倉小夜の自宅に男の子が幽閉されているという通報があったらしいわ』」
「……誰が…」
「『私より天使様の方が自分のことを認識している人を知っているんじゃない?心当たりない?』」
「……」

 心当たり…心当たり。

「今日先生が家を出る時、僕が額にキスをしたあと、先生も僕の額にキスしました…」
「『なんて羨ましい。じゃなくて、額へのキスは待つ人から出る人へ鼻へのキスは出る人から待つ人へみたいなことだったよね?』」
「はい…昨日のは予兆で、先生は僕を無理矢理にでも外へ出そうとしている…?捨てられたの?弥衣さん…僕は…先生に何かしてしまったのでしょうか…捨てられたんですか?」

 涙が止まらない。先生はどうして何も言ってくれないんだ。こんな時にも電話にも出てくれない。

「『それは違うわ。小夜さんは天使様を想っているし小夜さんの考えが…』」
「でも、でも、僕には先生しかいないのわかってますよね…というか、弥衣さんは知っていたんですね。僕が誘拐された子どもだって」
「『それは、ごめんなさい。それには事実を知って…いや、今は言い訳はしないでおくわ』」

 弥衣さんは知っていたんだ。僕が誘拐された子どもだって、記者だって言ってたからきっと僕の本当の家族も僕の本当の名前も知っているんだ。それでいて何も言わず僕らのことを黙っていたんだ。それはきっと僕が幸せだったから、責めるのは見当違い…?なのかな。

「『天使様はどうしたいの?きっとそこに小夜さんは戻らない。貴方が保護されて外の社会に行くことを望んでいる。意志に反して鷲倉小夜の家でやり過ごしてもいい。何もなければ通報は有耶無耶に、噂程度に、悪戯だったなんてことにもなるかもしれないわね』」
「……時間が欲しいです」
「『警察は待ってくれないわ』」
「はい。それでもです。僕の人生ですから。3分後掛け直します」

 先生は僕を誘拐した。何のために?でも先生は僕のことを大切に育ててくれた。先生の得意分野から苦手なことまで、僕が得意でも下手くそでも上手くできるまで付き合ってくれた。

 美味しいご飯だって食べさせてもらったし、その恩返しにご飯を作りたいと願った時には料理も教えてもらって美味しいものも不味いものも共有してくれた。

 不安で眠れない夜は先生の布団で何度も眠った。孤独な時間は目を瞑ってたくさん聞いた声を、見た容姿を、匂いを、仕草のひとつひとつを思い出していた。

 さっきまでこの家にいたはずなのに、もう遠い昔のよう。いつでも触れられた先生との距離が計り知れないほど離れてしまった。

 先生は僕の巣立ちを願っている。誘拐して勝手に育てておいて最後は強引に飛び立てとか先生はなんて無茶苦茶なんだ。

「こんな作戦で突き放すなら、いっそ愛さないでよ…苦しいよ…」

 ドンドンドンとまだ扉を叩く音がまだ響いている。

 そんなものは無視をして家の中を歩き回ることにした。つけてしまった傷を、たくさん褒められた思い出を、過ごした時間を噛み締めて一歩一歩進む。

 先生が誕生日になったらと言っていた袋も少し早いが開けた。そこには大きな鞄が入っていた。外に出ることのない僕には不要なものであるはずなのにこれを先生は僕にくれたんだ。

 3分じゃとても歩ききれない家はどこもかしこも先生との思い出ばかりであったかくて、それでいて、今の僕の心を締め付ける。

「弥衣さん。僕は…」
「『うん、わかったよ。いつでも駆けつけるしサポートもするわ』」
「ありがとうございます。頑張ってみることにします」

 僕は家のものを片付けて、玄関に灯りを灯した。

「いつ帰ってくるかわからないしね」

 テーブルの上には書き置きをしておかないと、どっちが先に帰るかわからないしね。


 【先生へ

    いってきます。

       あなたの大切な『君』】


 必要なものは先生が誕生日プレゼントと置いて行った鞄に詰めた。

 灯を灯した時点でドアのノックは止んでいた。僕は十数年過ごしたこの家から出る。

 滅多に触れることのない扉は僕の過ごした月日の重みなど感じさせず簡単に開いた。

 扉が開くと同時に日付は変わった。
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