67 / 120
5巻
5-3
しおりを挟む
「もう! そんな大事なことは早く言ってちょうだい! クレアンナ、いつまでもそんなところに転がってないで立ちなさい! さっき言ったわよね、ガーベルを見つけたと」
「ううう、地面に伏していたのはパトリシア様のせいじゃないですかぁ。見つけたというか、聞こえたというか、とりあえずどの辺にいるかは把握できているでありますよ」
こめかみを押さえながら立ち上がると、クレアンナさんは長いウサギの耳をピクピクさせた。
「この耳がバッチリ捉えたであります」
ウサギの半獣人種であるクレアンナさんの聴力はずば抜けているらしい。
おそらくガーベルの近くにクロードもいるはずだ。これで助けにいける!
「なら、早急にそちらに向かいましょう。案内してちょうだい、クレアンナ」
「了解であります!」
さっきのお仕置きなど忘れてしまったと言わんばかりに、クレアンナさんは元気よく階段を駆け上がっていった。俺達が慌てて追いかけたのは言うまでもない。
クロード、無事でいてくれ!
◆ ◆ ◆
「ここにクロードが?」
「本当にここなの? クレアンナ」
俺達が辿り着いた場所は、第五聖殿騎士隊隊長、ガーベルの執務室だった。パトリシアさんによれば、ここは彼女が最初に訪問したところらしく、ガーベルは不在だったそうだ。
実際、今も執務室には誰もいない。だが、クレアンナさんは自信満々だ。
「最初訪れた時に不在だったので、いないものと思い込んでいたであります。不覚であります!」
そう言いながら、クレアンナさんの耳が何度もピクピクと動き続けている。俺達には分からないが、どこからか音を拾っているようだ。
「クロさん、どこ?」
リリアンが不安げに周囲を見回すが、やはり俺達以外の人影は見当たらない。
「ここにいないってことは……もしかして、隠し通路でもあるんでしょうか?」
ユーリのひと言に、俺もようやくその考えに思い至った。
牢屋から執務室まで歩いてみたが、第五聖殿と呼ばれるこの施設はかなり大きいみたいだ。ならば、隠し通路のひとつくらいあってもおかしくない。
「隠し通路……執務室にそんなもの、設計されていたかしら? クレアンナ、どう?」
「ちょっと待ってほしいであります」
瞼を閉じ、両手を耳に添えるクレアンナさん。しばしの沈黙の後、彼女はある場所を指差した。
「……あのあたりから声が漏れているでありますよ」
それは重厚な造りの、どっしりとした大きな机。ガーベルの執務机のようだ。
俺達は机の周辺を調べてみた。状況的に地下室への扉でもあるんだろうが、見つからない。
机は重すぎて動かないし、引き出しが地下に続いているわけでもない。扉はどこだ?
そんな中、周辺の床を手の甲で何度も叩いて回っていたガレリオさんが軽く頷いた。
「ふむ、確かにこの下に通路がありそうじゃの」
「分かるんですか、ガレリオさん?」
「ふんっ! 建築士を舐めるなよ、小僧。ここだけ叩いた時の音が違うわい」
「じゃあ、この机に地下へ続く仕掛けが? でも、そんなものどこに……」
「ふふんっ! だから建築士を舐めるなと言っとるじゃろうが!」
ガレリオさんは自慢げに胸を張ると、今度は机を叩き始め……ニヤリと笑った。
「がはは! 見つけたぞい。ここじゃな!」
執務机の三段目の引き出しを勢いよく開け、その奥に腕を突っ込むと――ガチン、ガガ、ガガガガガガガガ! 机の内部から歯車の回転する音が鳴った。
同時に執務机が前進し、机のあった場所に地下へと続く階段が姿を見せた。
「聞こえるであります。この先にガーベル隊長がいるでありますよ」
「じゃあ、この先にクロードが! 早く行こう!」
「ちょっと待って。その前に……クレアンナ、下の様子は分かるかしら?」
「そうでありますね……階段の先は一本道であります。どうやら少し歩いた先に部屋があって、ガーベル隊長はその中にいるようでありますね」
「見張りは? この下には全部で何人いるか分かるかしら?」
「えーと……通路は無人であります。部屋の方は……うーん、音が反響して正確には聞き取れないであります。でも、せいぜい五人くらいではないかと」
「そう……では、私達は二手に分かれましょう」
パトリシアさんが、地下へクロードを救出に向かう班と、聖殿の外へ援軍を呼ぶ班に分かれて行動することを提案した。俺達は頷く。
市長であるパトリシアさんのもとに、第五聖殿から俺達の情報が上がっていないそうだ。彼女が俺達に気づいたのは、予め潜ませておいた所謂スパイのおかげらしい。
つまり、ガーベルの息が掛かった第五聖殿は戦力として当てにできないということだ。場合によってはガーベルを捕らえなければならない以上、援軍はどうしても欠かせなかった。
また、クロードが負傷していた場合、治療が必要になる。都市防衛隊には医療班もいるため、大事に備えて彼らの出動も要請しなければならない。テラダイナスではポーションも回復魔法も使えないのだから。
地下へ降りるのは俺とパトリシアさん、それにガレリオさんの三人。残りのメンバーが聖殿の外にある都市防衛隊の元へ向かい、市長権限で彼らに出動要請をすることになった。
「私もクロードさんのところへ行きます!」
「わたしも!」
ユーリとリリアンが同行を求めるが、パトリシアさんは真剣な表情でそれを断った。
「ダメよ。地下通路は思ったよりも狭いわ。大人数で行っても邪魔になるだけ。地上のステータスが反映されない以上、今のあなた達は足手まといよ。怪我人が増えるだけだわ」
「そ、それは……」
「それにね、あなた達には都市防衛隊の医療班にクロード君の情報を伝えてほしいの。回復魔法のある地上と違って、ここでの治療は全て人の手で行われる。種族が違えばそれだけで治療法も違うの。この中で情報を正しく伝えられるのは、彼の仲間であるあなた達だけ。頼むわ」
押し黙る二人。こう言われてはユーリもリリアンも反論のしようがなかった。
「ユーリ、リリアン。クロードは俺が絶対に連れて帰るから……」
「ヒビキさん……分かりました。私は、私にできることをします。行こう、リリアンちゃん」
「……うん。お兄ちゃん、クロさんを、絶対に連れて帰ってきてね」
「もちろんだよ。任せて」
「ワイザ、儂らは無実じゃと騎士隊にしっかり伝えるんじゃぞ? 後でお縄になるなんてのは御免じゃからな。お前さん、戦闘はからっきしじゃが頭はいいんじゃ。頼むぞい?」
「グギィ……グギ、グギャギャギャ!」
「クレアンナ、頼みましたよ」
「お任せであります。でも、パトリシア様も気を付けてほしいでありますよ」
「ええ、分かっているわ」
クレアンナさんの先導のもと、ユーリ達は聖殿を後にした。
執務室に残っているのは俺とパトリシアさんとガレリオさん。そして――。
「にゃあああん!」
「……なんで残ってるの、ヴェネくん?」
ついさっきまでリリアンの腕の中にいたヴェネくんが、いつの間にか俺の肩の上にいた。
「まあ、そのネコ、ヒビキ君についてきちゃったの? どうしましょう、今さらクレアンナ達を呼び戻すわけにもいかないし……」
「別にどうでもいいじゃろ。ネコなどいようがいまいが問題ないわい」
「ダメだよヴェネくん。リリアン達が心配しちゃうよ」
「にゃにゃにゃん!」
ヴェネくんは俺の肩の上でブンブンと首を横に振る。どうやら俺から離れるつもりはないらしい。
「でも、突然ヴェネくんがいなくなったらリリアン達が心配するよ」
「にゃっはん!」
器用にサムズアップするヴェネくん。胸まで張って肩の上で仁王立ちである。
「リリアンとユーリは知ってるの?」
ヴェネくんは満足げにコクリと頷く……二人が知っているなら一応大丈夫か。
「まあ、ヴェネくんは頼りになるし、二人も知っているならとりあえずいいけど……今は非常時だし、普通のネコの振りはやめていいと思うよ、ヴェネくん」
ヴェネくんは人前ではしゃべらず、一般的なネコの振りをしている。とはいえ、ここまできたらそれも必要ないだろう……と思ったのだが、ヴェネくんは泣きそうな表情になった。
「ヴェネくん?」
どうしたのかと思えば、ヴェネくんはしきりに自分の喉をトントンと叩く。まさか……。
「もしかして、しゃべれないの?」
「にゃあああああん!」
「……マジ?」
よく考えてみれば、ここは神々の力を排した地、テラダイナス。
スキルや魔法が使えないということは、ヴェネくんから聖獣の力が根こそぎ失われていても……つまり、ヴェネくんが人間と会話をできなくなっていても不思議ではない。
『聖獣召喚』で本来の姿に戻ることもできず、魔法道具の首輪による障壁も張れない。そして口が利けない以上、戦闘の指揮を執ることも不可能……つまり役立た――いや、そうじゃなくて。
「ヴェネくん、話せないならどうしてついてきたの?」
「小僧、何を言っとるんじゃ? ネコがしゃべるわけがないじゃろ。そんな当たり前の道理も知らんとは、地上の人間というのはなんと阿呆なんじゃ」
ガレリオさんから哀れみの視線が!
「ヴェネくんは地上でなら本当に口が利ける、賢くて可愛いネコなんですよ。ホントですよ?」
うう、今度は呆れたような視線が。それを遮ってくれたのはパトリシアさんだった。興味深そうにヴェネくんを見つめている。
「ヒビキ君……その子、地上ではしゃべれるの?」
「はい。ヴェネくんは地上では普通にしゃべれます。ただ、テラダイナスでは無理みたいで……」
パトリシアさんはじっとヴェネくんを見つめた。対するヴェネくんは上目遣いで如何にも可愛い子ネコを演じていた。それ、何の意味があるの、ヴェネくん?
うーん、パトリシアさんは賢者だし、彼が聖獣であると教えた方がいいんだろうか。
だが、さすがは『三界の賢者』と言ったところか。俺が悩んでいるうちにパトリシアさんは自分で答えに辿り着いてしまった。
「しゃべるネコ、ヴェネ……ここに来てからしゃべれなくなった……弱体化? ……テラダイナスで、弱体化……削がれる……神の力……ヴェネ……ヴェネ……ネコ……ヴェネ……え? あれ? ……聖獣……ヴェ、ヴェネツィリ……アヌス、トーレフェラルティ、アーノ……様?」
「にゃっはは~ん!」
ヴェネくん、両手でサムズアップである。器用すぎる。カメラが欲しい……じゃなくて!
「な、なな、な……なんでここに魔神様の聖獣が、もがっ!」
俺は慌ててパトリシアさんの口を両手で塞いだ。疑問は分かるけど大声出さないで!
落ち着きを取り戻すと、パトリシアさんは懐から取り出した一枚の札をヴェネくんにかざした。
「『理解』を司る『理法の札』よ、理解を阻む言語の壁を拒絶し破壊せよ」
パトリシアさんの手元から、光とともに札が消え去り、ヴェネくんの全身に淡い光が灯る。しばらくすると、その光も消え――。
「ぷにゃ~、ようやくしゃべれるようになったにゃ! ありがとにゃ、賢者パトリシア」
ヴェネくんが話せるようになっていた。
「……これで効果があるということは、あなたは本当に、魔神様の聖獣ヴェネツィリアヌストーレフェラルティアーノ様なのですね」
そうか、ヴェネくん。これを狙って残っていたのか。
「『理法の札』っていうのはこんなこともできるんだ」
「いや、初耳じゃぞい?」
首を傾げるガレリオさん。
「だからこそ、この方は聖獣ヴェネツィリアヌストーレフェラルティアーノ様なのです。『理法の札』を使って言語の壁を取り除いても、普通のネコには人間と会話する知能がありませんから」
「当然にゃ! その辺のネコとヴェネを一緒にしないでほしいにゃ! あと、ヴェネのことはヴェネって呼んでほしいにゃ」
「……分かりました、ヴェネ様。聞きたいことがさらに増えましたが、今はそれどころではないですね。クロード君のもとへ向かいましょう」
「いやいや、それどころの話じゃと思うがの? 魔神の聖獣がテラダイナスに侵入するなど、今までにない一大事じゃぞ?」
ガレリオさんはもっともな疑問を投げかけるが、パトリシアさんは苦笑いだ。
「まあ、大丈夫でしょう。今のヴェネ様は会話ができる以外普通のネコと変わりないようですし」
「むむう、物申したいけどその通りにゃ。今はクロードを助けにいくのが先決にゃ。このメンツしか残さなかったってことは、急いだほうがいいってことにゃろ?」
「ヴェネくん、どういう意味?」
「ふん、女子供に見せられない現場かもしれん、ということじゃろ」
ガレリオさんが顔をしかめながらそう告げた。パトリシアさんも目を細めて同意する。
「……防衛隊を呼びに行く必要があるのは事実です。ですが……その懸念も、ないとは言い切れません」
パトリシアさんの言葉に、ガレリオさんの眉間のしわがさらに深まる。
「あの男、そこまで危険じゃったか。だったら、小僧も連れて行かん方がいいと思うがの」
「私も彼のような子供を連れて行くのは気が引けますが、さすがに仲間が一人くらいはいないと、クロード君に信用してもらえないかと。年上のユーリさんを、とも考えたのですが……」
真剣に話し合う二人だがちょっと待って! 伝えておかなくてはならない件がひとつ!
「俺、十七歳だからね! ユーリより年上だからね!」
「……小僧。サバを読むにしても、もうちょっと真実味のある年をだな」
「大丈夫よ、ヒビキ君。今さら君を置いていくつもりはないから、そんな嘘をつく必要はないわ」
呆れと哀れみの視線が俺に突き刺さる。全然信じてないな、これ!
「いや、だからホントだってば!」
「さて、時間もないことだしさっさと行くとするかの」
「そうですね、行きましょう。さ、ヒビキ君も」
「ちょ、ちょっと、ホントに俺は成人してるんだってば!」
「ププッ、ご主人さまは必ずお子ちゃまに見られる運命なのにゃ。諦めるにゃ」
結局勘違いは改善されないまま、俺達は階段を下りた。く、くそおおおお!
――で、今は例の部屋の前にいる。
階段を下りた先には、クレアンナさんが言ったとおり、部屋まで続く一本道の通路があるだけだった。
距離も短いし見張りもいない。五分と掛からず部屋の前まで辿り着いた。
だが、未だにクロードとの再会は叶っていない……。
「案の定、扉には鍵が掛かっておるの。ぶち破ろうにも分厚くて重すぎるわい。耳を押し当てても、向こう側の声ひとつ聞き取れんぞい。あの嬢ちゃん、よくここから声を聞き取ったもんじゃ」
「クレアンナは同族の中でも特に耳がいいんです。重宝してますよ」
押し当てていた耳を扉から外し、ガレリオさんは腕を組んで声を唸らせた。
「しかし、これでは力尽くというわけにもいくまいて。儂も鍵開けはできんしの」
「魔法が使えれば一発にゃのに……」
俺に残されているスキル『宝箱』や『複製転写』では扉を開けるなんて無理だ……『コトワリコトノハ』で扉の物理防御を無効化すれば破壊できるかな?
『サポちゃんより報告。『コトワリコトノハ』の行使は推奨できません。サポちゃんより以上』
……だよね。さすがにこの状況で使えば周りにバレてしまう。何かペナルティがありそうだし……でもそれって、クロードを助けるより大切なことかな?
何がどうなるか知らないけど、仲間を助けるためなら、多少の罰くらい別に……。
「大丈夫です。この程度は想定済みです」
パトリシアさんは懐から二枚目の『理法の札』を取り出した。よく見ると、さっきの札とは少しばかり模様が違うようだ。
「ほお、『空間』を司る理法の札か。さすがは市長じゃの。原則一人一枚しか所持が許されていない貴重な札を、複数枚所持しているとは」
「市長としての義務と権利……とご理解ください」
「別に非難しとるわけじゃないわい。市長の責任くらい儂も分かっとる」
「理法の札ってやっぱり貴重なんですか?」
「ええ、数に限りがありますから……昔は十二種類揃っていたのだけど、今となっては『空間』『心理』『理解』の三種の札しか残っていないわ」
悲しげに札を見つめるパトリシアさん。ガレリオさんは鼻息を荒らげた。
「ふん、三種残っただけでも僥倖なんじゃがな。本来なら何も残らないはずじゃった」
「何かあったんですか?」
「ええ、昔ちょっとね……」
パトリシアさんはまた寂しそうな微笑みを俺に向けた。ガレリオさんはしかめ面だ。
一体何があったんだろう……?
「とりあえず、今はその札で部屋の中に入るのが先決にゃ。さくっとやるにゃ、パトリシア」
「そうですね。では皆さん、私の近くに集まってください」
指示に従いパトリシアさんのそばに寄ると、彼女は『理法の札』を高く掲げた。
「『空間』を司る『理法の札』よ、空間の理を拒絶し破壊せよ。我らを扉の向こう側へ、運べ」
その瞬間視界が変貌し、俺達は部屋の中へ転移した。
そして俺は、目の前の光景に言葉を失った。
部屋の中央にはクロードがいた。
金属製の椅子に拘束され、全身から血を流し、その足元には血だまりが出来ていた。
「…………クロード?」
眼前の光景が信じられず、俺は思わず首を傾げる。
クロードはピクリとも反応しない。重く首を垂らし、耳も鼻も俺を捉えた様子がない……ほんの少し、ほんの少しだけ聞こえる喘鳴が、クロードの生存を伝えていた。
それは、俺の心を凍り付かせるには、あまりにも十分すぎる光景だった。
バキ、バキバキバキ、ピキキ!
何かがひび割れるような耳障りな音が脳裏に響いたが、今はそんなこと、どうでもよかった。
◆ ◆ ◆
夢の世界。カフェ山原で紅茶を楽しんでいた黒髪の少女が急に立ち上がった。
「ヒビキ!?」
バキ、バキバキバキ、ピキキ!
カフェ山原の壁に、テーブルに、椅子に、少女の前にあったティーカップに、何の前触れもなく亀裂が走る。それは空間そのものにまで広がり、空中に割れ目が生じていた。
「『コトワリコトノハ』は使っていないのに、『境界線』が!?」
厳しい表情を浮かべながら、少女は右腕を勢いよく横に振った――全ての亀裂が消失する。
「こんなこと、気休めにしかならない――あ、ヒビキ、ダメ!」
ゾクゾクと背筋に寒気が走った。これは……ヒビキが『境界線』に干渉している!?
「何それ!? くっ、まさか不安定な『境界線』がここまで影響するなんて……ヒビキ、冷静になって! 私の忠告を忘れないで! ……ダメだ、私の声が届いていない……」
バキキキキキキキッ!!
「――っ!?」
また亀裂が!? 再び少女が手を振るが、もう亀裂が消えることはなかった。
「まずいわ。このままだと……」
――ヒビキが消えてしまう。
焦った少女の声は、ヒビキはもちろん、誰の耳に届くこともなかった。
『サポちゃんより報告。状況を理解しました。サポちゃんより以上』
ヒビキの内側に宿る、たったひとつの存在を除いて。
◆ ◆ ◆
「ガ、ガーベル、あなた、何てことを!」
「パトリシア様? 一体どうやってここに……」
俺の隣で、パトリシアさんが何か叫んでいたが、耳に入ってこない。
俺は今にも死んでしまいそうなクロードをじっと見つめた。
四肢を金属製の椅子に固定され、体中の至るところに切り傷や刺し傷が見られる。酷く打ち据えられたのか、左足の形が直視できないほどに歪んでいる……なんだよ、これ。
怒りの感情が込み上げているはずなのに、怒れば怒るほど心が冷めていくのを感じた。
バキキキキキキキッ!!
……また、何か音がしたような? いや、今はそんなこと気にしてなんていられない。
クロードの状態は……。
【固有スキル『識者の眼(オリジン)』がクロード・アバラスの生体反応を識別します】
【出血量は過多。間もなく全体の三分の一、致死出血量に到達します】
『識者の眼』がまるで『医学書』のようにクロードの状況を的確に伝えてくれる。
「……何のつもり、ガーベル?」
「あなたこそ、そいつに何をするつもりだ。まさか治療でもしようと思っているのではないだろうな。そんなこと、私が許しはしない」
俺がクロードの診断をしている最中に、前に出ようとしたパトリシアさんがガーベルに制止された。クロードの血を滴らせる剣の切っ先をパトリシアさんに向けたのだ。
ガレリオさんも動こうとしたが、残り二人の騎士が剣を構えて動きを牽制する。
俺はそんな彼らを無視して、クロードの診断を続けた。
【脈拍数は極めて微弱。生体維持に問題あり。微減、微減、微減……秒単位で脈拍数が減少中】
【心拍数は極めて微弱。生体維持に問題あり。微減、微減、微減……秒単位で心拍数が減少中】
「邪魔ですって? あなたがしていることは明らかな越権行為。いえ、犯罪行為よ。今すぐ彼を解放しなさい。このままでは彼は死んでしまう……そうなれば、あなたを殺人罪で逮捕しなければならなくなる。もうすぐここに都市防衛隊が来るわ。大人しく投降なさい」
「黙れ! こいつはテラダイナスを穢す侵入者だ! あの方の聖地に許可なく足を踏み入れる人間など、生かしておいていいはずがないのだ!」
「ガーベル……それは、八つ当たりでしかないのよ?」
「黙れ、黙れ! 地上の神々に縋る人間など、全員死んでしまえばいいのだ!」
パトリシアさんとガーベルの会話は続いてるが、俺はそれどころではない……診断結果は?
【結論。クロード・アバラスの存命時間はおよそ四分二十六秒と推定】
……もう、時間がない。
「あなただって分かっているはずよ、ガーベル。あの方は……絶対にあなたの所業を認めはしない、許しもしないわ。だってあの方は……地上の人間達を愛していたのだから」
「うるさい……うるさい、うるさい! 知ったようなことを言いやがって! 自分だけがあの方を理解しているとでも言いたいのか!? ああ、そうだろう、そうだろうとも! あなたに私の気持ちなど分かるわけがないのだ! 私は、忘れてしまった! もう、あの方の顔も、声も思い出せない! それを覚えているのは、あの方の最期を看取った『三界の賢者』をはじめ、ほんの数人だけなのだからな!」
俺の視界の端で、ガーベルが何かを取り出した。あれは、『理法の札』か?
対抗するようにパトリシアさんも『理法の札』を突き出す。二人は対峙して睨み合った。
「ガーベル、あなた!」
「どうせ、理法の札を持っているのはあなただけだろう。あなたが動けばこれを使う!」
あの札を使えば、その気になればこの場にいる俺達全員を気絶させることも容易い。パトリシアさんはそれを防がなければならないため、身動きが取れなくなってしまった。
ガーベルが勝ち誇ったように口元を歪める……その嗤笑……不快だな。
「ううう、地面に伏していたのはパトリシア様のせいじゃないですかぁ。見つけたというか、聞こえたというか、とりあえずどの辺にいるかは把握できているでありますよ」
こめかみを押さえながら立ち上がると、クレアンナさんは長いウサギの耳をピクピクさせた。
「この耳がバッチリ捉えたであります」
ウサギの半獣人種であるクレアンナさんの聴力はずば抜けているらしい。
おそらくガーベルの近くにクロードもいるはずだ。これで助けにいける!
「なら、早急にそちらに向かいましょう。案内してちょうだい、クレアンナ」
「了解であります!」
さっきのお仕置きなど忘れてしまったと言わんばかりに、クレアンナさんは元気よく階段を駆け上がっていった。俺達が慌てて追いかけたのは言うまでもない。
クロード、無事でいてくれ!
◆ ◆ ◆
「ここにクロードが?」
「本当にここなの? クレアンナ」
俺達が辿り着いた場所は、第五聖殿騎士隊隊長、ガーベルの執務室だった。パトリシアさんによれば、ここは彼女が最初に訪問したところらしく、ガーベルは不在だったそうだ。
実際、今も執務室には誰もいない。だが、クレアンナさんは自信満々だ。
「最初訪れた時に不在だったので、いないものと思い込んでいたであります。不覚であります!」
そう言いながら、クレアンナさんの耳が何度もピクピクと動き続けている。俺達には分からないが、どこからか音を拾っているようだ。
「クロさん、どこ?」
リリアンが不安げに周囲を見回すが、やはり俺達以外の人影は見当たらない。
「ここにいないってことは……もしかして、隠し通路でもあるんでしょうか?」
ユーリのひと言に、俺もようやくその考えに思い至った。
牢屋から執務室まで歩いてみたが、第五聖殿と呼ばれるこの施設はかなり大きいみたいだ。ならば、隠し通路のひとつくらいあってもおかしくない。
「隠し通路……執務室にそんなもの、設計されていたかしら? クレアンナ、どう?」
「ちょっと待ってほしいであります」
瞼を閉じ、両手を耳に添えるクレアンナさん。しばしの沈黙の後、彼女はある場所を指差した。
「……あのあたりから声が漏れているでありますよ」
それは重厚な造りの、どっしりとした大きな机。ガーベルの執務机のようだ。
俺達は机の周辺を調べてみた。状況的に地下室への扉でもあるんだろうが、見つからない。
机は重すぎて動かないし、引き出しが地下に続いているわけでもない。扉はどこだ?
そんな中、周辺の床を手の甲で何度も叩いて回っていたガレリオさんが軽く頷いた。
「ふむ、確かにこの下に通路がありそうじゃの」
「分かるんですか、ガレリオさん?」
「ふんっ! 建築士を舐めるなよ、小僧。ここだけ叩いた時の音が違うわい」
「じゃあ、この机に地下へ続く仕掛けが? でも、そんなものどこに……」
「ふふんっ! だから建築士を舐めるなと言っとるじゃろうが!」
ガレリオさんは自慢げに胸を張ると、今度は机を叩き始め……ニヤリと笑った。
「がはは! 見つけたぞい。ここじゃな!」
執務机の三段目の引き出しを勢いよく開け、その奥に腕を突っ込むと――ガチン、ガガ、ガガガガガガガガ! 机の内部から歯車の回転する音が鳴った。
同時に執務机が前進し、机のあった場所に地下へと続く階段が姿を見せた。
「聞こえるであります。この先にガーベル隊長がいるでありますよ」
「じゃあ、この先にクロードが! 早く行こう!」
「ちょっと待って。その前に……クレアンナ、下の様子は分かるかしら?」
「そうでありますね……階段の先は一本道であります。どうやら少し歩いた先に部屋があって、ガーベル隊長はその中にいるようでありますね」
「見張りは? この下には全部で何人いるか分かるかしら?」
「えーと……通路は無人であります。部屋の方は……うーん、音が反響して正確には聞き取れないであります。でも、せいぜい五人くらいではないかと」
「そう……では、私達は二手に分かれましょう」
パトリシアさんが、地下へクロードを救出に向かう班と、聖殿の外へ援軍を呼ぶ班に分かれて行動することを提案した。俺達は頷く。
市長であるパトリシアさんのもとに、第五聖殿から俺達の情報が上がっていないそうだ。彼女が俺達に気づいたのは、予め潜ませておいた所謂スパイのおかげらしい。
つまり、ガーベルの息が掛かった第五聖殿は戦力として当てにできないということだ。場合によってはガーベルを捕らえなければならない以上、援軍はどうしても欠かせなかった。
また、クロードが負傷していた場合、治療が必要になる。都市防衛隊には医療班もいるため、大事に備えて彼らの出動も要請しなければならない。テラダイナスではポーションも回復魔法も使えないのだから。
地下へ降りるのは俺とパトリシアさん、それにガレリオさんの三人。残りのメンバーが聖殿の外にある都市防衛隊の元へ向かい、市長権限で彼らに出動要請をすることになった。
「私もクロードさんのところへ行きます!」
「わたしも!」
ユーリとリリアンが同行を求めるが、パトリシアさんは真剣な表情でそれを断った。
「ダメよ。地下通路は思ったよりも狭いわ。大人数で行っても邪魔になるだけ。地上のステータスが反映されない以上、今のあなた達は足手まといよ。怪我人が増えるだけだわ」
「そ、それは……」
「それにね、あなた達には都市防衛隊の医療班にクロード君の情報を伝えてほしいの。回復魔法のある地上と違って、ここでの治療は全て人の手で行われる。種族が違えばそれだけで治療法も違うの。この中で情報を正しく伝えられるのは、彼の仲間であるあなた達だけ。頼むわ」
押し黙る二人。こう言われてはユーリもリリアンも反論のしようがなかった。
「ユーリ、リリアン。クロードは俺が絶対に連れて帰るから……」
「ヒビキさん……分かりました。私は、私にできることをします。行こう、リリアンちゃん」
「……うん。お兄ちゃん、クロさんを、絶対に連れて帰ってきてね」
「もちろんだよ。任せて」
「ワイザ、儂らは無実じゃと騎士隊にしっかり伝えるんじゃぞ? 後でお縄になるなんてのは御免じゃからな。お前さん、戦闘はからっきしじゃが頭はいいんじゃ。頼むぞい?」
「グギィ……グギ、グギャギャギャ!」
「クレアンナ、頼みましたよ」
「お任せであります。でも、パトリシア様も気を付けてほしいでありますよ」
「ええ、分かっているわ」
クレアンナさんの先導のもと、ユーリ達は聖殿を後にした。
執務室に残っているのは俺とパトリシアさんとガレリオさん。そして――。
「にゃあああん!」
「……なんで残ってるの、ヴェネくん?」
ついさっきまでリリアンの腕の中にいたヴェネくんが、いつの間にか俺の肩の上にいた。
「まあ、そのネコ、ヒビキ君についてきちゃったの? どうしましょう、今さらクレアンナ達を呼び戻すわけにもいかないし……」
「別にどうでもいいじゃろ。ネコなどいようがいまいが問題ないわい」
「ダメだよヴェネくん。リリアン達が心配しちゃうよ」
「にゃにゃにゃん!」
ヴェネくんは俺の肩の上でブンブンと首を横に振る。どうやら俺から離れるつもりはないらしい。
「でも、突然ヴェネくんがいなくなったらリリアン達が心配するよ」
「にゃっはん!」
器用にサムズアップするヴェネくん。胸まで張って肩の上で仁王立ちである。
「リリアンとユーリは知ってるの?」
ヴェネくんは満足げにコクリと頷く……二人が知っているなら一応大丈夫か。
「まあ、ヴェネくんは頼りになるし、二人も知っているならとりあえずいいけど……今は非常時だし、普通のネコの振りはやめていいと思うよ、ヴェネくん」
ヴェネくんは人前ではしゃべらず、一般的なネコの振りをしている。とはいえ、ここまできたらそれも必要ないだろう……と思ったのだが、ヴェネくんは泣きそうな表情になった。
「ヴェネくん?」
どうしたのかと思えば、ヴェネくんはしきりに自分の喉をトントンと叩く。まさか……。
「もしかして、しゃべれないの?」
「にゃあああああん!」
「……マジ?」
よく考えてみれば、ここは神々の力を排した地、テラダイナス。
スキルや魔法が使えないということは、ヴェネくんから聖獣の力が根こそぎ失われていても……つまり、ヴェネくんが人間と会話をできなくなっていても不思議ではない。
『聖獣召喚』で本来の姿に戻ることもできず、魔法道具の首輪による障壁も張れない。そして口が利けない以上、戦闘の指揮を執ることも不可能……つまり役立た――いや、そうじゃなくて。
「ヴェネくん、話せないならどうしてついてきたの?」
「小僧、何を言っとるんじゃ? ネコがしゃべるわけがないじゃろ。そんな当たり前の道理も知らんとは、地上の人間というのはなんと阿呆なんじゃ」
ガレリオさんから哀れみの視線が!
「ヴェネくんは地上でなら本当に口が利ける、賢くて可愛いネコなんですよ。ホントですよ?」
うう、今度は呆れたような視線が。それを遮ってくれたのはパトリシアさんだった。興味深そうにヴェネくんを見つめている。
「ヒビキ君……その子、地上ではしゃべれるの?」
「はい。ヴェネくんは地上では普通にしゃべれます。ただ、テラダイナスでは無理みたいで……」
パトリシアさんはじっとヴェネくんを見つめた。対するヴェネくんは上目遣いで如何にも可愛い子ネコを演じていた。それ、何の意味があるの、ヴェネくん?
うーん、パトリシアさんは賢者だし、彼が聖獣であると教えた方がいいんだろうか。
だが、さすがは『三界の賢者』と言ったところか。俺が悩んでいるうちにパトリシアさんは自分で答えに辿り着いてしまった。
「しゃべるネコ、ヴェネ……ここに来てからしゃべれなくなった……弱体化? ……テラダイナスで、弱体化……削がれる……神の力……ヴェネ……ヴェネ……ネコ……ヴェネ……え? あれ? ……聖獣……ヴェ、ヴェネツィリ……アヌス、トーレフェラルティ、アーノ……様?」
「にゃっはは~ん!」
ヴェネくん、両手でサムズアップである。器用すぎる。カメラが欲しい……じゃなくて!
「な、なな、な……なんでここに魔神様の聖獣が、もがっ!」
俺は慌ててパトリシアさんの口を両手で塞いだ。疑問は分かるけど大声出さないで!
落ち着きを取り戻すと、パトリシアさんは懐から取り出した一枚の札をヴェネくんにかざした。
「『理解』を司る『理法の札』よ、理解を阻む言語の壁を拒絶し破壊せよ」
パトリシアさんの手元から、光とともに札が消え去り、ヴェネくんの全身に淡い光が灯る。しばらくすると、その光も消え――。
「ぷにゃ~、ようやくしゃべれるようになったにゃ! ありがとにゃ、賢者パトリシア」
ヴェネくんが話せるようになっていた。
「……これで効果があるということは、あなたは本当に、魔神様の聖獣ヴェネツィリアヌストーレフェラルティアーノ様なのですね」
そうか、ヴェネくん。これを狙って残っていたのか。
「『理法の札』っていうのはこんなこともできるんだ」
「いや、初耳じゃぞい?」
首を傾げるガレリオさん。
「だからこそ、この方は聖獣ヴェネツィリアヌストーレフェラルティアーノ様なのです。『理法の札』を使って言語の壁を取り除いても、普通のネコには人間と会話する知能がありませんから」
「当然にゃ! その辺のネコとヴェネを一緒にしないでほしいにゃ! あと、ヴェネのことはヴェネって呼んでほしいにゃ」
「……分かりました、ヴェネ様。聞きたいことがさらに増えましたが、今はそれどころではないですね。クロード君のもとへ向かいましょう」
「いやいや、それどころの話じゃと思うがの? 魔神の聖獣がテラダイナスに侵入するなど、今までにない一大事じゃぞ?」
ガレリオさんはもっともな疑問を投げかけるが、パトリシアさんは苦笑いだ。
「まあ、大丈夫でしょう。今のヴェネ様は会話ができる以外普通のネコと変わりないようですし」
「むむう、物申したいけどその通りにゃ。今はクロードを助けにいくのが先決にゃ。このメンツしか残さなかったってことは、急いだほうがいいってことにゃろ?」
「ヴェネくん、どういう意味?」
「ふん、女子供に見せられない現場かもしれん、ということじゃろ」
ガレリオさんが顔をしかめながらそう告げた。パトリシアさんも目を細めて同意する。
「……防衛隊を呼びに行く必要があるのは事実です。ですが……その懸念も、ないとは言い切れません」
パトリシアさんの言葉に、ガレリオさんの眉間のしわがさらに深まる。
「あの男、そこまで危険じゃったか。だったら、小僧も連れて行かん方がいいと思うがの」
「私も彼のような子供を連れて行くのは気が引けますが、さすがに仲間が一人くらいはいないと、クロード君に信用してもらえないかと。年上のユーリさんを、とも考えたのですが……」
真剣に話し合う二人だがちょっと待って! 伝えておかなくてはならない件がひとつ!
「俺、十七歳だからね! ユーリより年上だからね!」
「……小僧。サバを読むにしても、もうちょっと真実味のある年をだな」
「大丈夫よ、ヒビキ君。今さら君を置いていくつもりはないから、そんな嘘をつく必要はないわ」
呆れと哀れみの視線が俺に突き刺さる。全然信じてないな、これ!
「いや、だからホントだってば!」
「さて、時間もないことだしさっさと行くとするかの」
「そうですね、行きましょう。さ、ヒビキ君も」
「ちょ、ちょっと、ホントに俺は成人してるんだってば!」
「ププッ、ご主人さまは必ずお子ちゃまに見られる運命なのにゃ。諦めるにゃ」
結局勘違いは改善されないまま、俺達は階段を下りた。く、くそおおおお!
――で、今は例の部屋の前にいる。
階段を下りた先には、クレアンナさんが言ったとおり、部屋まで続く一本道の通路があるだけだった。
距離も短いし見張りもいない。五分と掛からず部屋の前まで辿り着いた。
だが、未だにクロードとの再会は叶っていない……。
「案の定、扉には鍵が掛かっておるの。ぶち破ろうにも分厚くて重すぎるわい。耳を押し当てても、向こう側の声ひとつ聞き取れんぞい。あの嬢ちゃん、よくここから声を聞き取ったもんじゃ」
「クレアンナは同族の中でも特に耳がいいんです。重宝してますよ」
押し当てていた耳を扉から外し、ガレリオさんは腕を組んで声を唸らせた。
「しかし、これでは力尽くというわけにもいくまいて。儂も鍵開けはできんしの」
「魔法が使えれば一発にゃのに……」
俺に残されているスキル『宝箱』や『複製転写』では扉を開けるなんて無理だ……『コトワリコトノハ』で扉の物理防御を無効化すれば破壊できるかな?
『サポちゃんより報告。『コトワリコトノハ』の行使は推奨できません。サポちゃんより以上』
……だよね。さすがにこの状況で使えば周りにバレてしまう。何かペナルティがありそうだし……でもそれって、クロードを助けるより大切なことかな?
何がどうなるか知らないけど、仲間を助けるためなら、多少の罰くらい別に……。
「大丈夫です。この程度は想定済みです」
パトリシアさんは懐から二枚目の『理法の札』を取り出した。よく見ると、さっきの札とは少しばかり模様が違うようだ。
「ほお、『空間』を司る理法の札か。さすがは市長じゃの。原則一人一枚しか所持が許されていない貴重な札を、複数枚所持しているとは」
「市長としての義務と権利……とご理解ください」
「別に非難しとるわけじゃないわい。市長の責任くらい儂も分かっとる」
「理法の札ってやっぱり貴重なんですか?」
「ええ、数に限りがありますから……昔は十二種類揃っていたのだけど、今となっては『空間』『心理』『理解』の三種の札しか残っていないわ」
悲しげに札を見つめるパトリシアさん。ガレリオさんは鼻息を荒らげた。
「ふん、三種残っただけでも僥倖なんじゃがな。本来なら何も残らないはずじゃった」
「何かあったんですか?」
「ええ、昔ちょっとね……」
パトリシアさんはまた寂しそうな微笑みを俺に向けた。ガレリオさんはしかめ面だ。
一体何があったんだろう……?
「とりあえず、今はその札で部屋の中に入るのが先決にゃ。さくっとやるにゃ、パトリシア」
「そうですね。では皆さん、私の近くに集まってください」
指示に従いパトリシアさんのそばに寄ると、彼女は『理法の札』を高く掲げた。
「『空間』を司る『理法の札』よ、空間の理を拒絶し破壊せよ。我らを扉の向こう側へ、運べ」
その瞬間視界が変貌し、俺達は部屋の中へ転移した。
そして俺は、目の前の光景に言葉を失った。
部屋の中央にはクロードがいた。
金属製の椅子に拘束され、全身から血を流し、その足元には血だまりが出来ていた。
「…………クロード?」
眼前の光景が信じられず、俺は思わず首を傾げる。
クロードはピクリとも反応しない。重く首を垂らし、耳も鼻も俺を捉えた様子がない……ほんの少し、ほんの少しだけ聞こえる喘鳴が、クロードの生存を伝えていた。
それは、俺の心を凍り付かせるには、あまりにも十分すぎる光景だった。
バキ、バキバキバキ、ピキキ!
何かがひび割れるような耳障りな音が脳裏に響いたが、今はそんなこと、どうでもよかった。
◆ ◆ ◆
夢の世界。カフェ山原で紅茶を楽しんでいた黒髪の少女が急に立ち上がった。
「ヒビキ!?」
バキ、バキバキバキ、ピキキ!
カフェ山原の壁に、テーブルに、椅子に、少女の前にあったティーカップに、何の前触れもなく亀裂が走る。それは空間そのものにまで広がり、空中に割れ目が生じていた。
「『コトワリコトノハ』は使っていないのに、『境界線』が!?」
厳しい表情を浮かべながら、少女は右腕を勢いよく横に振った――全ての亀裂が消失する。
「こんなこと、気休めにしかならない――あ、ヒビキ、ダメ!」
ゾクゾクと背筋に寒気が走った。これは……ヒビキが『境界線』に干渉している!?
「何それ!? くっ、まさか不安定な『境界線』がここまで影響するなんて……ヒビキ、冷静になって! 私の忠告を忘れないで! ……ダメだ、私の声が届いていない……」
バキキキキキキキッ!!
「――っ!?」
また亀裂が!? 再び少女が手を振るが、もう亀裂が消えることはなかった。
「まずいわ。このままだと……」
――ヒビキが消えてしまう。
焦った少女の声は、ヒビキはもちろん、誰の耳に届くこともなかった。
『サポちゃんより報告。状況を理解しました。サポちゃんより以上』
ヒビキの内側に宿る、たったひとつの存在を除いて。
◆ ◆ ◆
「ガ、ガーベル、あなた、何てことを!」
「パトリシア様? 一体どうやってここに……」
俺の隣で、パトリシアさんが何か叫んでいたが、耳に入ってこない。
俺は今にも死んでしまいそうなクロードをじっと見つめた。
四肢を金属製の椅子に固定され、体中の至るところに切り傷や刺し傷が見られる。酷く打ち据えられたのか、左足の形が直視できないほどに歪んでいる……なんだよ、これ。
怒りの感情が込み上げているはずなのに、怒れば怒るほど心が冷めていくのを感じた。
バキキキキキキキッ!!
……また、何か音がしたような? いや、今はそんなこと気にしてなんていられない。
クロードの状態は……。
【固有スキル『識者の眼(オリジン)』がクロード・アバラスの生体反応を識別します】
【出血量は過多。間もなく全体の三分の一、致死出血量に到達します】
『識者の眼』がまるで『医学書』のようにクロードの状況を的確に伝えてくれる。
「……何のつもり、ガーベル?」
「あなたこそ、そいつに何をするつもりだ。まさか治療でもしようと思っているのではないだろうな。そんなこと、私が許しはしない」
俺がクロードの診断をしている最中に、前に出ようとしたパトリシアさんがガーベルに制止された。クロードの血を滴らせる剣の切っ先をパトリシアさんに向けたのだ。
ガレリオさんも動こうとしたが、残り二人の騎士が剣を構えて動きを牽制する。
俺はそんな彼らを無視して、クロードの診断を続けた。
【脈拍数は極めて微弱。生体維持に問題あり。微減、微減、微減……秒単位で脈拍数が減少中】
【心拍数は極めて微弱。生体維持に問題あり。微減、微減、微減……秒単位で心拍数が減少中】
「邪魔ですって? あなたがしていることは明らかな越権行為。いえ、犯罪行為よ。今すぐ彼を解放しなさい。このままでは彼は死んでしまう……そうなれば、あなたを殺人罪で逮捕しなければならなくなる。もうすぐここに都市防衛隊が来るわ。大人しく投降なさい」
「黙れ! こいつはテラダイナスを穢す侵入者だ! あの方の聖地に許可なく足を踏み入れる人間など、生かしておいていいはずがないのだ!」
「ガーベル……それは、八つ当たりでしかないのよ?」
「黙れ、黙れ! 地上の神々に縋る人間など、全員死んでしまえばいいのだ!」
パトリシアさんとガーベルの会話は続いてるが、俺はそれどころではない……診断結果は?
【結論。クロード・アバラスの存命時間はおよそ四分二十六秒と推定】
……もう、時間がない。
「あなただって分かっているはずよ、ガーベル。あの方は……絶対にあなたの所業を認めはしない、許しもしないわ。だってあの方は……地上の人間達を愛していたのだから」
「うるさい……うるさい、うるさい! 知ったようなことを言いやがって! 自分だけがあの方を理解しているとでも言いたいのか!? ああ、そうだろう、そうだろうとも! あなたに私の気持ちなど分かるわけがないのだ! 私は、忘れてしまった! もう、あの方の顔も、声も思い出せない! それを覚えているのは、あの方の最期を看取った『三界の賢者』をはじめ、ほんの数人だけなのだからな!」
俺の視界の端で、ガーベルが何かを取り出した。あれは、『理法の札』か?
対抗するようにパトリシアさんも『理法の札』を突き出す。二人は対峙して睨み合った。
「ガーベル、あなた!」
「どうせ、理法の札を持っているのはあなただけだろう。あなたが動けばこれを使う!」
あの札を使えば、その気になればこの場にいる俺達全員を気絶させることも容易い。パトリシアさんはそれを防がなければならないため、身動きが取れなくなってしまった。
ガーベルが勝ち誇ったように口元を歪める……その嗤笑……不快だな。
30
お気に入りに追加
14,865
あなたにおすすめの小説
成長率マシマシスキルを選んだら無職判定されて追放されました。~スキルマニアに助けられましたが染まらないようにしたいと思います~
m-kawa
ファンタジー
第5回集英社Web小説大賞、奨励賞受賞。書籍化します。
書籍化に伴い、この作品はアルファポリスから削除予定となりますので、あしからずご承知おきください。
【第七部開始】
召喚魔法陣から逃げようとした主人公は、逃げ遅れたせいで召喚に遅刻してしまう。だが他のクラスメイトと違って任意のスキルを選べるようになっていた。しかし選んだ成長率マシマシスキルは自分の得意なものが現れないスキルだったのか、召喚先の国で無職判定をされて追い出されてしまう。
一方で微妙な職業が出てしまい、肩身の狭い思いをしていたヒロインも追い出される主人公の後を追って飛び出してしまった。
だがしかし、追い出された先は平民が住まう街などではなく、危険な魔物が住まう森の中だった!
突如始まったサバイバルに、成長率マシマシスキルは果たして役に立つのか!
魔物に襲われた主人公の運命やいかに!
※小説家になろう様とカクヨム様にも投稿しています。
※カクヨムにて先行公開中
母親に家を追い出されたので、勝手に生きる!!(泣きついて来ても、助けてやらない)
いくみ
ファンタジー
実母に家を追い出された。
全く親父の奴!勝手に消えやがって!
親父が帰ってこなくなったから、実母が再婚したが……。その再婚相手は働きもせずに好き勝手する男だった。
俺は消えた親父から母と頼むと、言われて。
母を守ったつもりだったが……出て行けと言われた……。
なんだこれ!俺よりもその男とできた子供の味方なんだな?
なら、出ていくよ!
俺が居なくても食って行けるなら勝手にしろよ!
これは、のんびり気ままに冒険をする男の話です。
カクヨム様にて先行掲載中です。
不定期更新です。
無能なので辞めさせていただきます!
サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。
マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。
えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって?
残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、
無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって?
はいはいわかりました。
辞めますよ。
退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。
自分無能なんで、なんにもわかりませんから。
カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
のほほん異世界暮らし
みなと劉
ファンタジー
異世界に転生するなんて、夢の中の話だと思っていた。
それが、目を覚ましたら見知らぬ森の中、しかも手元にはなぜかしっかりとした地図と、ちょっとした冒険に必要な道具が揃っていたのだ。
貴族に生まれたのに誘拐され1歳で死にかけた
佐藤醤油
ファンタジー
貴族に生まれ、のんびりと赤ちゃん生活を満喫していたのに、気がついたら世界が変わっていた。
僕は、盗賊に誘拐され魔力を吸われながら生きる日々を過ごす。
魔力枯渇に陥ると死ぬ確率が高いにも関わらず年に1回は魔力枯渇になり死にかけている。
言葉が通じる様になって気がついたが、僕は他の人が持っていないステータスを見る力を持ち、さらに異世界と思われる世界の知識を覗ける力を持っている。
この力を使って、いつか脱出し母親の元へと戻ることを夢見て過ごす。
小さい体でチートな力は使えない中、どうにか生きる知恵を出し生活する。
------------------------------------------------------------------
お知らせ
「転生者はめぐりあう」 始めました。
------------------------------------------------------------------
注意
作者の暇つぶし、気分転換中の自己満足で公開する作品です。
感想は受け付けていません。
誤字脱字、文面等気になる方はお気に入りを削除で対応してください。
【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる
三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。
こんなはずじゃなかった!
異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。
珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に!
やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活!
右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり!
アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。
子爵家の長男ですが魔法適性が皆無だったので孤児院に預けられました。変化魔法があれば魔法適性なんて無くても無問題!
八神
ファンタジー
主人公『リデック・ゼルハイト』は子爵家の長男として産まれたが、検査によって『魔法適性が一切無い』と判明したため父親である当主の判断で孤児院に預けられた。
『魔法適性』とは読んで字のごとく魔法を扱う適性である。
魔力を持つ人間には差はあれど基本的にみんな生まれつき様々な属性の魔法適性が備わっている。
しかし例外というのはどの世界にも存在し、魔力を持つ人間の中にもごく稀に魔法適性が全くない状態で産まれてくる人も…
そんな主人公、リデックが5歳になったある日…ふと前世の記憶を思い出し、魔法適性に関係の無い変化魔法に目をつける。
しかしその魔法は『魔物に変身する』というもので人々からはあまり好意的に思われていない魔法だった。
…はたして主人公の運命やいかに…
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる
本作については削除予定があるため、新規のレンタルはできません。
このユーザをミュートしますか?
※ミュートすると該当ユーザの「小説・投稿漫画・感想・コメント」が非表示になります。ミュートしたことは相手にはわかりません。またいつでもミュート解除できます。
※一部ミュート対象外の箇所がございます。ミュートの対象範囲についての詳細はヘルプにてご確認ください。
※ミュートしてもお気に入りやしおりは解除されません。既にお気に入りやしおりを使用している場合はすべて解除してからミュートを行うようにしてください。