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第5話 牧島 唯の忘却Ⅰ
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「君は、自身の樹立してきた陸上競技の記録を全て忘却すると?」
「ええ、陸上を始めた小学1年生から、今日に至るまでの全ての記録よ」
牧島は至って冷静だった。
「言っておくけど、あたしの記録のほとんどは大会記録だったり学生記録の価値あるものばかり。ああ、ついでに過去の大会の優勝実績も忘却するわ、その方が幸福量も上がるでしょ?」
「いいのかい? 忘却すれば全てが無かったことになる。君の栄光もキャリアもは全てこの世から消えてなくなる。君の人生の中の陸上と言う部分が、全て欠落する」
エルの言う通り、牧島の人生の大半が失われることとなる。
「……構わないわ」
「でも、牧島さんにとって陸上は……」
隣で聞いていた真名が口を挟む。しかし、牧島の表情は変わらない。
「人生、人生そのものよ。さっきも言ったけど、あたしにはそれしか能がない。陸上でしか認められないし、褒められない……」
「なら……」
「けど、また走ることはできる。また大会に出て記録を作って、優勝だってできる。またスタート地点に戻るだけよ、陸上を始めた頃みたいに……」
牧島の表情は変わらなかったが、その声は力強かった。
「はは……すごい自信だね。また走り出せばいい……か。前向きでいいじゃないか、人間という生物を少しは見直したよ」
エルは馬鹿にしたような拍手を牧島に送った。とても見直したようには見えない。
「では、この光り輝く【審判の天秤】の前に立って念じてくれ。今までに経験した幸福を」
エルの背後に控えていたのは審判の天秤。これで真栄田と牧島の幸福を測るようだ。
「待って、これを……持っていたい」
牧島はスクールバッグから袋を取り出した。
その中には、陸上の競技用スパイクが入っていた。やはり忘却することに少なからず動揺や不安はあるらしい。
「……始めて」
「では、始めよう! 幸福の忘却を……人類への報復を」
エルが高らかに宣言する。
その瞬間、牧島の手の中にあったスパイクが消え、一瞬で天秤の上に乗る。
そして、天秤が重い方……濃密な幸福の方へ傾き始める。
「っえ……」
その光景に僕を含めた人間は全員、驚愕した。
その光景は、予想とは全くの逆のものになったからだ。
「なんで……なんで」
最初に動揺の声を上げたのは牧島だった。
当然だ、なぜなら天秤が傾いたのは……真栄田のネックレスの方だったからだ。
「ああ、これは残念……3ポイントだ」
無慈悲にもエルが告げる。
牧島の人生のほとんどは、真栄田のネックレスにすら劣る3ポイント。
「な、な……なによこれ! そんなはずがない! あたしの記録が……あたしの実績が、そんな……たかがチンピラのネックレスに劣るわけ!」
いくら純金とはいえ、たかがネックレス。牧島がどれだけ優秀な選手かは知らないが……人間の努力や才能が、たかがネックレスに劣るとは僕も考えなかった。
「あんた……あたしの話聞いてなかったの?! アピールで幸福量は変わるって!」
「ああ、もちろん聞いていたしアピールで幸福量が変動するのも事実だ。けれど……天秤は答えを示した、君の幸福の方が軽いとね」
エルは牧島に問い詰められても冷静だった。
天秤が答えを示した、ただそれだけの現実を牧島に突き付けた。
「あり得ない……なんで、あんた、あたしがここまでになるまでどれだけ苦しんで、大変な思いをしたか! 友達とも遊ばず、恋人も作らず、休みの日もずっと陸上陸上陸上……それを全て忘却したっていうのに!」
「ああ、君の身の上話なんかに興味はないんだ……加点対象にはならないよ。問題は……記録の方さ」
「記録!? 大きな大会で優勝して、将来はオリンピックだって期待されてる! なにが足りないっていうのよ!」
牧島は声を荒げて抗議する。当たり前だ、自分の人生を否定されているようなものなのだから。
「記録の内容なんかじゃない、たかが数字の大小にこだわっている君自身が、滑稽で矮小だと言っているんだ」
それに対し、エルは小馬鹿にするような態度で牧島を挑発していた。
「たかが数字……その数字を競って、世界中でどれだけの人間が努力してるか!」
「あははははは! それがボクにはおかしくて仕方がない。亀と亀のかけっこに上も下もないだろう?」
「お前ッ……」
天使にとっては、世界最速の陸上選手も亀と同じような鈍さに見えるのだろうか。
しかし、その言葉に牧島は怒りを露にしていた。
「だって、記録なんていつかは越されてしまうだろう? それは1年後か、明日かは分からないが、記録なんて越されてしまえば何の価値もない、それは君も分かっているだろう?」
「けど……あたしは将来も期待されて……」
「期待だなんて、そんな目に見えないものを信じるのかい? 君はそう思い込んでいるだけさ、そう思い込まなければ自信を保てないから」
「違う……」
牧島は耳を塞ぎ、半泣きで首を振る。
「僕は君のソレを幸福だとは思えない。記録なんていつかは破られる数字やら、目にも見えない期待やらを心の支えにして……自分の存在を意義を保ち、それにしかすがれないような弱い人間のくだらない幸福だなんて」
泣き崩れる牧島に対し、更に言葉を浴びせるエル。
「ボクが求めているのはそんなものじゃない。もっと、もっと、人間らしい幸福だ」
エルは人間の世界での地位や名誉なんかに興味は無いようだ。
人間の価値観に捕らわれない、天使の価値観にも通じる幸福を欲している。
「何が……数字や記録に捕らわれて、何が悪い……」
「悪いだなんて言ってないよ。けど言っただろう、ゲームはボクの基準で進めるって。価値観の相違ってやつさ」
価値観の相違、たったそれだけの理由で牧島の幸福と人生は否定された。
牧島はスイッチが入ったように大声で泣き始め、絶望した。
これも、エルの望んだ不幸の形なのか。
「ええ、陸上を始めた小学1年生から、今日に至るまでの全ての記録よ」
牧島は至って冷静だった。
「言っておくけど、あたしの記録のほとんどは大会記録だったり学生記録の価値あるものばかり。ああ、ついでに過去の大会の優勝実績も忘却するわ、その方が幸福量も上がるでしょ?」
「いいのかい? 忘却すれば全てが無かったことになる。君の栄光もキャリアもは全てこの世から消えてなくなる。君の人生の中の陸上と言う部分が、全て欠落する」
エルの言う通り、牧島の人生の大半が失われることとなる。
「……構わないわ」
「でも、牧島さんにとって陸上は……」
隣で聞いていた真名が口を挟む。しかし、牧島の表情は変わらない。
「人生、人生そのものよ。さっきも言ったけど、あたしにはそれしか能がない。陸上でしか認められないし、褒められない……」
「なら……」
「けど、また走ることはできる。また大会に出て記録を作って、優勝だってできる。またスタート地点に戻るだけよ、陸上を始めた頃みたいに……」
牧島の表情は変わらなかったが、その声は力強かった。
「はは……すごい自信だね。また走り出せばいい……か。前向きでいいじゃないか、人間という生物を少しは見直したよ」
エルは馬鹿にしたような拍手を牧島に送った。とても見直したようには見えない。
「では、この光り輝く【審判の天秤】の前に立って念じてくれ。今までに経験した幸福を」
エルの背後に控えていたのは審判の天秤。これで真栄田と牧島の幸福を測るようだ。
「待って、これを……持っていたい」
牧島はスクールバッグから袋を取り出した。
その中には、陸上の競技用スパイクが入っていた。やはり忘却することに少なからず動揺や不安はあるらしい。
「……始めて」
「では、始めよう! 幸福の忘却を……人類への報復を」
エルが高らかに宣言する。
その瞬間、牧島の手の中にあったスパイクが消え、一瞬で天秤の上に乗る。
そして、天秤が重い方……濃密な幸福の方へ傾き始める。
「っえ……」
その光景に僕を含めた人間は全員、驚愕した。
その光景は、予想とは全くの逆のものになったからだ。
「なんで……なんで」
最初に動揺の声を上げたのは牧島だった。
当然だ、なぜなら天秤が傾いたのは……真栄田のネックレスの方だったからだ。
「ああ、これは残念……3ポイントだ」
無慈悲にもエルが告げる。
牧島の人生のほとんどは、真栄田のネックレスにすら劣る3ポイント。
「な、な……なによこれ! そんなはずがない! あたしの記録が……あたしの実績が、そんな……たかがチンピラのネックレスに劣るわけ!」
いくら純金とはいえ、たかがネックレス。牧島がどれだけ優秀な選手かは知らないが……人間の努力や才能が、たかがネックレスに劣るとは僕も考えなかった。
「あんた……あたしの話聞いてなかったの?! アピールで幸福量は変わるって!」
「ああ、もちろん聞いていたしアピールで幸福量が変動するのも事実だ。けれど……天秤は答えを示した、君の幸福の方が軽いとね」
エルは牧島に問い詰められても冷静だった。
天秤が答えを示した、ただそれだけの現実を牧島に突き付けた。
「あり得ない……なんで、あんた、あたしがここまでになるまでどれだけ苦しんで、大変な思いをしたか! 友達とも遊ばず、恋人も作らず、休みの日もずっと陸上陸上陸上……それを全て忘却したっていうのに!」
「ああ、君の身の上話なんかに興味はないんだ……加点対象にはならないよ。問題は……記録の方さ」
「記録!? 大きな大会で優勝して、将来はオリンピックだって期待されてる! なにが足りないっていうのよ!」
牧島は声を荒げて抗議する。当たり前だ、自分の人生を否定されているようなものなのだから。
「記録の内容なんかじゃない、たかが数字の大小にこだわっている君自身が、滑稽で矮小だと言っているんだ」
それに対し、エルは小馬鹿にするような態度で牧島を挑発していた。
「たかが数字……その数字を競って、世界中でどれだけの人間が努力してるか!」
「あははははは! それがボクにはおかしくて仕方がない。亀と亀のかけっこに上も下もないだろう?」
「お前ッ……」
天使にとっては、世界最速の陸上選手も亀と同じような鈍さに見えるのだろうか。
しかし、その言葉に牧島は怒りを露にしていた。
「だって、記録なんていつかは越されてしまうだろう? それは1年後か、明日かは分からないが、記録なんて越されてしまえば何の価値もない、それは君も分かっているだろう?」
「けど……あたしは将来も期待されて……」
「期待だなんて、そんな目に見えないものを信じるのかい? 君はそう思い込んでいるだけさ、そう思い込まなければ自信を保てないから」
「違う……」
牧島は耳を塞ぎ、半泣きで首を振る。
「僕は君のソレを幸福だとは思えない。記録なんていつかは破られる数字やら、目にも見えない期待やらを心の支えにして……自分の存在を意義を保ち、それにしかすがれないような弱い人間のくだらない幸福だなんて」
泣き崩れる牧島に対し、更に言葉を浴びせるエル。
「ボクが求めているのはそんなものじゃない。もっと、もっと、人間らしい幸福だ」
エルは人間の世界での地位や名誉なんかに興味は無いようだ。
人間の価値観に捕らわれない、天使の価値観にも通じる幸福を欲している。
「何が……数字や記録に捕らわれて、何が悪い……」
「悪いだなんて言ってないよ。けど言っただろう、ゲームはボクの基準で進めるって。価値観の相違ってやつさ」
価値観の相違、たったそれだけの理由で牧島の幸福と人生は否定された。
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