幸福の忘却

柘榴

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第1話 忘却の開始Ⅰ

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『君たち下等生物(にんげん)は愚かだ。愚かだから忘れ続ける生き物だ。都合の悪いことを忘却し続け、目を背け続け……そして何も進化しない。愚かな下等生物に許された選択肢は……ここで首を落とされ、腹を裂かれて絶命する生命の放棄か、自らの有り余る幸福を捨て、自らを不幸に貶め……幸福を忘却すること』


あの日、僕たちの前に現れた白銀の少女が言い放った台詞だ。
 その少女は天使のような美しい羽根を持ち、聖母の様に慈悲深い表情で、悪魔の様な事を言った。
 【幸福の忘却】……全ての幸福を忘却し、奪われ、踏みねじられる。これほどまでに残酷で醜悪で……美しいゲームを他に僕は知らない。


【幸福の忘却】より5時間前、奪われ続けた僕の世界は灰色だった。

 僕は教室の端の席で萎んでいた。
 今は昼休み。普通の中学生なら校庭でスポーツをしたり、教室で談笑したりするのが普通なのかもしれないが、僕……金子 修は違う。
「……くだらない。どいつもこいつも、何もかもが」
 教室に残っている馬鹿共(クラスメイト)を見渡し、小声で呟く。
 僕にはこいつらが、灰色にか見えなかった。
「……こんな連中と同じ空気なんて、吸っていられるか」
 僕はまだ昼食を取っていなかったが、こんな場所で食事をする気は無かった。こんな低能の吐いた空気が蔓延した教室で食事だなんて、反吐が出る。
 ……こんな場所で馬鹿に囲まれているくらいなら、まだ『あそこ』の方がマシ……。
 そう思い弁当とスマホを持って席を立った瞬間、誰かが僕の前に飛び出してきた。
 突然の事に反応が間に合わず、思い切り肩同士がぶつかった。
「……いってぇなぁ、金子クン? どこ見てんのよ」
「……そ、そっちが」
「は? てめぇがボサッとしてるからだろ? 俺が悪いわけ?」
 因縁をつけてきたのはクラスで一番の不良生徒の真栄田だった。
 僕の一番苦手……いや、嫌いな人種。頭が悪い癖に態度だけでかくて、横暴で……。
 相手にするだけ無駄だ、今は『一応』謝っておいてやるか。
「……す、すいま」
 あれ。声がうまく出ない。
「なにビビってんのお前。別に止めはしねぇよ? 昼休みは金子クンの貴重な便所飯タイムだからなぁ?!」
 真栄田は教室中に聞こえるようにわざと大声を張り上げた。
 教室の隅からは嘲笑のような小さな笑い声が漏れた。教室中の視線が、僕と真栄田に向けられている。
「……ち、ちが」
 駄目だ、声が出ない。否定しなければならないのに。お前らと一緒の空気を吸いたくないから、『仕方なく』便所で飯を食っているんだ。
「相変わらず気持ち悪いなぁ、お前」
 僕をクラスの晒し者にして気が済んだのか、真栄田は僕を突き飛ばして背中を向けた。
「……ど、DQNが」
 僕は心のむかつきを吐き出すように、小声でつぶやいた。
 しかし、その瞬間に真栄田は足を止め、こちらを振り返った。
「あぁ!? てめぇ、聞こえてんぞコラァ! もう1回言ってみろ!」
 すごい勢いで僕の胸倉を掴み上げ、壁へと叩きつける。
「お前、本気で痛い目見ないと分からねぇみたいだな、ちょっとこっち来いよ」
 真栄田の声には先ほどまでの軽さは無く、ドスが聞いた重い声だった。
「た、たすけ……」
 教室の隅から隅へ視線を送る。だが、指を指して笑う者、スマホで撮影をする者はいても僕を助けようとする人間は誰1人としていなかった。
僕はそのまま真栄田に襟首を掴まれたまま教室から連れ出された。

「……っくそ、クソDQNが……低能で底辺な落ちこぼれの癖に……」
 あの後、教室から連れ出された僕は屋上で暴行された。挙句の果てに弁当は踏み潰され、とても食べられる状態ではなかった。

「くっそ! あんな奴、社会に出たらどうせロクな職にも就けずに……僕の方が上になるんだ……」
 廊下で人目も気にせず大声を出してしまう。僕の周りから生徒が遠ざかっていくのが分かったが、それでも止まらなかった。
「屑……屑……屑が」
 今に見ていろ。卒業して、就職して……その頃には立場は逆転しているはずだ。
 今は真栄田が奪う側でも、いずれは僕が奪う側に回るんだ。

 その時、下を向いて歩いていた僕の肩に何かが触れる感触があった。
 大した勢いでは無かったが、下を向いていた僕は大きくよろけた。
「ご……ごめっ」
 先ほどの事もあってか、反射的に謝罪の言葉を口走っていた。
「……修ちゃん?! どうしたのボロボロで……」
 その声は予想に反し、僕の身を案ずるものだった。
 胸倉を掴まれるか、もしくはその場で殴られるかと考えた僕はすぐに顔を上げた。
「……っち、お前か、ビビらせやがって」
 目の前には見覚えのある女子生徒が心配そうな表情で立っていた。
「うぜぇな……3年が何でここにいるんだよ」
「生徒会長としての見回りよ。それよりどうしたの? 制服もボロボロで……顔から血も出てる」
 真名は心配そうに僕の傷口を覗き込む。
 清水 真名。隣の家に住んでる1つ歳上の幼馴染。容姿端麗、成績優秀でおまけに性格まで良いときてる。この世界を彩り、皆にとっての幸福。
 この学校で真名を慕う人間はいても、嫌う人間はいないと言われるほどだ。
「またクラスの人にいじめられたの? いい加減に誰にやられたのか私に言って? 私がちゃんと注意するから」
「……他人の癖に、僕に構うな」
 その言葉に真名の表情は曇った。
 しかし、真名はすぐに明るい表情を取り戻し、スクールバッグから風呂敷に包まれた弁当箱を取り出した。
「お弁当また盗られたの? 私まだ食べてないからさ、これ良かったら……」
 僕に同情していやがるのか。幼馴染だとか都合の良いことを言って、優しい自分に酔っているに決まってる。
 皆から必要とされ、認められている幸福の塊のお前に、僕の何が分かる。
「いらねぇよ、ブス!」
「きゃっ……」
 僕は差し出された弁当を振り払い。廊下に散らばった残骸を踏み潰した。
「僕は……僕はいじめられてなんかない! 相手にしてやってるんだ。今日もあの頭の悪いDQNに絡まれたからさ? 遊んでやったんだ」
 真名は一瞬、茫然としていたがすぐに明るい表情を取り戻して言った。
「……修ちゃん、お腹空いたら3年の教室まで来てね。まだ、菓子パンとかもあるから」
 僕は苛立ちを覚えながら真名を置いてその場を去った。

 教室に戻ると、真栄田と取り巻き数人が僕の席を囲んでいた。
「おー! 戻ってきたよ、金子クン。ゴミはゴミ箱にって習わなかったの? 整理整頓くらいちゃんとしようぜ?」
「……」
 僕の席の上には、ゴミ箱の中のゴミがぶちまけられていた。
 何のゴミかは分からないが、腐ったような臭いも漂ってきた。
「うわくっさ」
「元々でしょ」
「クラスから消えてくんね―かな」
 教室の隅々から、ヒソヒソと声が聞こえてくる。
「あとさ、生徒会長が可哀想だから関わんなって。あの人はお前と違って、みんなにとっての幸福なワケ。みんなにとっての不幸でしかないお前とは価値が違うんだからさ」
 真栄田が僕の肩に手を回してくる。
 僕はその手を振り払い、机と椅子を思い切り蹴り飛ばし、そのまま授業が始まる前に無断で早退した。

 まだ下校には明らかに早い時間帯だったが、僕は構わず自宅の玄関を開ける。この時間、母親はパート、父親は何年か前に事故死したので僕1人の空間だ。
 部屋に入るなり、僕は持っていたスクールバッグをベッドに投げつけた。
「僕は……僕は弱くない……ただ構ってやってるだけなんだ」
 部屋の真ん中に突っ立て、呪文のように唱える。
「その気になればあんな連中、簡単に……」
 あんな馬鹿共、卒業すれば会うことも無い。今のうちに良い気にさせておけば良いんだ。
 今は奪われる側でいてやる。だけど、僕は本来なら奪う側の人間なんだ。
「あんな馬鹿共、相手にする価値もないが……いつか、あいつらから幸福を奪ってやる」
 これが最近の僕の日課だった。幸福そうな、裕福そうなクラスメイトの顔を思い浮かべ、そいつらから金でも命でも良い、幸福を僕が奪い取ることを想像する。
 今は僕が奪われる側だが、いつか……学校の連中から全てを奪ってやりたい。そんなことをボーっと考えていると、無性に気持ちが落ち着く。
 そう思いながら天井を見つめていたその時、どこからか声が聞こえた気がした。
 耳を澄ませて聞いてみると、その声は徐々に僕に近づいてきていた。

『幸福、か』
「だ、誰だ!?」
 思わず身構えた。テレビの音か?
『君は、自分が不幸だと思っているのか?』
 声は若干幼い印象だが、聞き取りやすい澄んだ声だった。
「……ああ」
『クラスメイトにいじめられているから?』
「違う! 僕は、僕は!」
 いじめ、という言葉に僕は過剰に反応してしまった。
『ああ、構ってやっているんだったね、失礼。だけど、それなら何が君にとっての不幸なんだい?』
 まるで嘲笑したような声に僕は苛立った。こいつ、なんで僕の事を知っている?
「世の中には馬鹿が多すぎる、それが僕にとっての不幸だ」
『っぷ、はははは!』
「何がおかしい!」
 こいつ、俺をからかっているのか。新手の悪戯か?
『いや、何でもないよ……っふふ。でもね、ボクから見たら君もその馬鹿の一員さ』
「なに?」
 その声は突然、冷たいものとなった。感情の無い、冷酷な声。
『だってさ、馬鹿だろう。生を与えられ、衣食住を与えられ、健康体を与えられ……それのどこが不幸なんだい?』
「はっ、馬鹿な……そんなもの当然だろう」
『世の中には、その当たり前が与えられない人間もいるのさ』
「説教か? そんな底辺と比較されても困るんだが」
 なんだ、人をからかったと思ったら今度は説教か? 
『やっぱりね。君たち人間はボクらが救済するに値しない下等生物へとなり下がってしまったようだ』
「はぁ?」
『進化しろだなんて酷な話を下等生物に要求するほどボクたちも残酷じゃない。ただ、与えたものを返してくれればそれで良いんだ』
 なんだこれは。本当にアニメか何かの録音か? そのくらい現実味のないセリフばかりだった。
『ボクたちは君たちに幸運を与えた。だから、君たちにはそれをボクたちに返す……つまり、君たち自身の中から幸福を忘却し、返還してもらう必要がある』
「お前、なにを言って……」
『大丈夫、その舞台はボクたちが用意しておいた。君たちはただ、幸福を忘却するだけでいい』

 その瞬間、僕の視界は真っ黒に塗りつぶされた。
 電気が消えたわけでもない、まるで僕の体内から眼球が消えたかのように辺りは闇に包まれた。
「な……なんだこれ! なんなんだよ!」
 僕は視界を奪われたことに激しく動揺し、部屋の中を走り回り、転げ回った。
 しかし、視界は闇に呑まれたままだった。
『心配しないでいいよ。君は死ぬか、忘れるかのどちらかを選択すればいい』
 闇の中、最後に僕が聞いたのはその一言だった。
 その一言を聞いた後、僕の意識は失われた。

 ひんやりとした冷気を肌に感じ、目を覚ます。
 辺りを見渡した時、視界に入ったのは一面の白色だった。
 目を凝らしてみると、壁と天井がある事が確認できた。一応は部屋になっているようだ。
 しかし、どこにも入り口や出口……窓もない。外界と接するものが、この部屋には一切無かった。 
 それは、この部屋が監禁するためだけに作られたものであることを意味していた。

「どこだよ、ここ!」
 こんな場所に閉じ込められて、落ち着いていられるわけがない。
 僕は手あたり次第、壁に蹴りを入れて暴れる。
「おい!」
「修ちゃん! なんでここに……」
 僕が壁に蹴りを入れている時、隣で聞き覚えのある声がした。
 振り向くと、そこには幼馴染の真名が不安そうな表情で立っていた。
「真名……お前、何だよこれ!?」
「や、やめて修ちゃん……私もいきなり連れてこられて……何が何だが、全然分からない」
 真名がいるという安心感と共に、早く何とかしろという思いで真名の肩を乱暴に揺らしてしまう。 
 今までも何かが起こっても真名が何とかしてくれた、助けてくれた。真名をうざったいと感じながらも、無意識に頼ってしまう。

「おい!」
 その時、部屋の奥の方からドスの効いた男の声がした。
「ピーピーうるせぇよ……」
「あ、ごめんなさい……」
 不機嫌そうにこちらへ歩いてきたのは……真栄田だった。
「お前……真栄田」
「よぉ、こんな場所でもお前と一緒なんて反吐が出るぜ、金子クン」
 相変わらず口の減らない奴だ。こんな状況でも焦る様子もない。
「あー、ちなみに俺もこの部屋の事は知らないぜ。目が覚めたらここに閉じ込められてたんでな」
 最初からお前みたいな馬鹿に期待していないと心の中で毒突く。
「そっちの女子2人も、何も知らないってよ」
 真栄田が後ろの方に視線をやる。
 そちらを見ると、部屋の隅の方で女子が2人縮こまっていた。
 片方は黒髪ロングの気の強そうな女、もう片方は眼鏡をかけた地味そうな女。
「……牧島よ。部活中にいきなり視界が真っ暗になって、目が覚めたら……ここに」
「赤城です。私もです……委員会の会議の途中に……」
 どちらも怯えるほどではなくても、動揺はしているようだ。
「で、そういうお前はどーなんだよ? お前が一番怪しいんじゃねーのか?」
 真栄田が僕の顔を覗き込みながら言う。
 最悪だ、こんな連中と監禁だなんて。何の目的で僕たちはこんな事をされている?
 知るもんか。僕が聞きたい。
「知るわけ……」
『知らないのも無理はないよ。だって、このゲームは君たち人類にとっても、ボクたち天使にとっても初の試みなんだから』
 その時、僕の声と重なって少女の声が部屋中に聞こえた。
 放送かと思ったが、それにしては声がクリア過ぎる。まるで、テレパシーのような。
「この声……」
『おはよう、全員の目が覚めたようだね。催眠の魔術といえ、そのまま死なれたらどうしようかと思ったよ』
 声と共に部屋の真ん中付近で、カメラのフラシュのような閃光が走った。
 一瞬、目を閉じた後、そこには小柄な、中性的な少女が立っていた。

「ああ、自己紹介が遅れたね。ボクの名はエル、このゲーム……【幸福の忘却】の進行役でもあり、神に仕える天使だ」
 異様に白い肌、白銀の髪、全身の白装束……そして背中に生えた純白の羽根。笑みを常に絶やさない柔らかな表情。
 僕らが一般的にイメージする天使の姿そのものが、今目の前に立つ少女だった。
「天使……だぁ?」
 少女を見て最初に口を開いたのは真栄田だった。
「ははははは! なんだこれ、新手のキャバ勧誘か何かか? 最近のはすげーな、こんなガキにコスプレまでさせて客引きかよ! 犯罪じゃねぇの?」
 真栄田は小馬鹿にしたように笑う。それどころか、ジロジロと少女の身体を観察し始めた。
「うーん、やっぱり信じてもらえないか」
「ああ、天使なんだろ? キャバ代、タダにしてくれんなら信じてやるよ!」
 真栄田は少女の頭に手を乗せ、子供をあやすような素振りをした。
 しかし、その振る舞いが少女の癇に障ったのか、少女の目つきは一瞬で変わった。
「……気安く触れるな、蛆が」
 少女が真栄田の手を軽く振り払った……ように見えた。あくまで僕にはそう見えた。
 しかし、実際には違った。真栄田の両腕は、鋭利な刃物で切り落とされたかのように、血しぶきを上げながら地面へ落下していた。
「あ、ああ……あ?」
 真栄田は泣き叫んだりする様子は無かった。ただ、床に転がる自身の両腕を見ても現実を受け入れられないように茫然としていた。
「ああ、ごめんね。腕を振り払ったつもりが……君たち人間が馬鹿みたいに脆いことを忘れてたよ」
 少女は欠伸交じりで真栄田に謝罪した。
 その瞬間、茫然としていた真栄田の表情は怒りに染まり、目の前の少女を睨み付ける。
「このクソガキ、殺してやる……」
「おや、まだ分からないのかな。本当に人間とは馬鹿な生き物だ」
 少女はまるで動揺せず、真栄田の顔の前でピースサインを作り、挑発している。
 そして、そのピースサインを保ちながら真栄田の瞼に触れると、パンッという爆発音と共に真栄田は床に転げ落ちた。
「ああああああああああああああああ……」
 真栄田の周りには、踏み潰されたゆで卵のような白いものが散らばっていた。
 一瞬で理解した。少女は真栄田の眼球を、破裂させたんだ。
「まだやる? 次は殺さない自信ないなぁ~」
「……っ!」
   真栄田は何も言わなかった。言えなかったというべきか。
「さて、他に意見がある人はいるかな?」
 ……こんな状況で質問など出来るものか。誰一人として口を開くことは無かった。
 だが、聞きたいことなら山ほどある。そもそも僕たちはなんで……。
「……あ、今さ、なんで僕たちはこんな部屋に……って思ったでしょ?」
 少女に指を指され、僕は心臓が破裂しかけた。
 こいつ、人の心まで読めるのか。
「それはね、幸福に肥えた愚かな人間……いや、下等生物共に今ある幸福の重みを体感してもらうためさ」
 少女の明るい表情は崩れなかった。それが余計に不気味に思えた。
「君たちの幸福は、誰のおかげだと思う? 親、友人、環境……違う。全てボクたち、天使によって生み出された幸せなんだ」
 僕らの顔を伺うこともせず、少女……いや、天使は話を進める。
「キューピットの矢なんて、よく言うだろう? あれは間違えじゃなくてさ、ボクたち天使は生まれながら3本の矢を持っている。それは、幸福を司る矢でね。ボクたち天使がそれを君たち人間に打ち込むことによって、君たち人間の幸福が初めて生まれる」
「……」
「けれど、その矢を全て失った時、天使は死ぬ。天使としての役目を全うしたと初めて認められ、死ぬ。だから、ボクたちが命を懸けて矢を撃ち込む時には、努力している人間や善良な人間を選ぶ。努力や善行が報われるというのはそういうことさ」
 数分前の僕ならきっと信じなかった。
 けれど、この天使の超人的な能力を見ればこんな話もすぐに信じてしまいそうだ。
「けれど、今の君たちには……その価値が無いんだ。ボクたちが命を懸けて放った幸福を、お前たちはなんと言った? 当たり前だと言った! ボクたちが命を落としてまで与えた幸福を!」
 天使は怒りを露にし、床に転がる真栄田の腹部に蹴りを入れる。
 真栄田はただ、啜り泣いているだけだ。
「それでも、人間界がより良くなるならばとボクの仲間たちは笑顔で命を落としていった。だが、実際のお前たちはどうだ? 戦争は続き、犯罪は絶えない世界。こんな世界のために、ボクたちは生まれたんじゃない!」
 天使は僕たちを卑下するような目で見る。
「だから、ボクは行動を起こした。君たち人類全員に幸福の重さを、身をもって知ってもらうために……この幸福の忘却を計画し、実行に移した。これから何年、何十年かかろうとも、教え込んでやる……そう、この【幸福の忘却】の中でね」
「幸福の……忘却?」
「ボクが奪う側で、君たちが奪われる側。ただそれだけのゲームさ」
 天使はゲームが始まるのが楽しみで仕方ないという様子だった。
 それに対し、人間側の表情は恐怖と不安で引きつっていた……僕以外は。

「君たち下等生物(にんげん)は愚かだ。愚かだから忘れ続ける生き物だ。都合の悪いことを忘却し続け、目を背け続け……そして何も進化しない。愚かな下等生物に許された選択肢は……ここで首を落とされ、腹を裂かれて絶命する生命の放棄か、自らの有り余る幸福を捨て、自らを不幸に貶め……幸福を忘却すること」

 天使の言葉など耳に入らなかった。
 確かに恐怖はある。不安もある。出来ればさっさとこんな部屋から抜け出したい。
 けれど、僕はこの天使に憧れている。容赦なく全てを奪う天使の姿に。
「そして、最期に全ての幸福から見放され……深い絶望の中で泣き叫ぶことを、このボクが許そう」
 エルの言葉を聞き、僕はただ一言吐き捨てた。
「……ここでも、奪われる側か」
 
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