水族館

古葉レイ

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水族館

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 分厚いガラスを隔てた向こう側は、別の世界のようだった。
 水族館なんて、いつぶりだろうか。
「大きいね」
 隣から声がして、僕は「そうだね」と相槌を打つ。水槽の中をゆらゆらと泳ぐ魚たちは、自分たちをただ見つめる僕らをどう思っているのだろう。隣に居る僕の愛しい彼女は、特に好きだと言っていた大きなカメを、食い入るように眺めている。
 とりあえず、十五分は経っただろうか。彼女は一向に動く気配はない。
「あの甲羅の上に乗ったら、竜宮城に行けるかな」
「……」
 無理やり会話をしようとした僕は、他愛もない子供じみた感想をしてしまう。失敗。彼女をチラ見するけれど返事はなく、自らの台詞に自らで失笑を零す。つまらない事を言ったと反省。ただ息を吐く。他の来客の流れが進んでいく中、彼女はまだ、最初の展示コーナーから離れようとしない。
 僕の隣で、延々とカメを眺めている。
 僕もまた、そんな彼女を真横で眺めていられるので、一向にかまわないのである。


「お土産、何買おうか」
「ぬいぐるみなんかいいんじゃない?」
 最初にあった大きな水槽の前を過ぎ、ウツボやクラゲ、カニを見つけては立ち止まり、気が付けば二時間が過ぎていた。この水族館の目玉であるイルカショウを見ようと思ったら、公演まで時間があるとなり、先にお土産のコーナーに来ていた。
 彼女は案の定、ぬいぐるみコーナーでカメのぬいぐるみを物色している。そんな彼女の隣で突っ立っている僕は、お土産を買う相手が彼女くらいしか思いつかないので、さて困る。と、目の前にある鏡の中の彼女を見ていたら、目が合った。
 彼女が僕を、鏡越しに見ていた。

「いかないでね」

 ふいに彼女が呟いた。僕はなんのことかわからず、首をひねる。彼女は不満げに唇を尖らせて、カメのぬいぐるみを両手で握る。
「竜宮城になんか、いかないでね」
 聞こえてたんだ。
 彼女の一言は拗ねた声で、僕はしまったなと内心で舌打ちをする。よく見れば、鏡越しの彼女の目は非常にご立腹だった。いったいいつから、怒っていらっしゃったのだろう。
「私が居るんだから、どっかいっちゃやだよ」
「うん、いかないから」
 めったに惚気なんていわない彼女からの唐突な我儘、あるいは要求に、僕は静かに言葉を重ねる。手に汗が浮く。彼女が立ち上がり、僕にカメのぬいぐるみを渡してくる。
「カメになんかのったら、おじいちゃんになっちゃうんだから」
「それじゃ、いっしょにおばあちゃんになっちゃうね」
 互いに互いの事を言い、ともすれば罵るような言い合いに、彼女がようやく笑みを浮かばせる。僕も釣られて、笑み返す。
 ふと、手の中にあるぬいぐるみの、カメの事が気になった。
「どうしてカメが好きなの?」
「似てるから」
 彼女がそっと、僕の手からぬいぐるみを奪う。手にしたぬいぐるみは、元のカメの山へと戻された。どうやら購入はしないらしい。
「きみに似てるなって、前から思ってたから。でも、もういい」
 ふと彼女が土産コーナーに背を向けた。僕がカメに似ている? もう少し聞こうとして、しかし聞く前に右手が引かれた。彼女の手が、僕の手を引いていた。
 手を引かれながら、半ば強引に歩ませられる。人の流れを切るように進みながら、彼女は小さく、「もう、平気」と言った。
 人が疎らになり、イルカショーの前を過ぎる。そのまま水族館の出口まで来て、彼女は立ち止まった。振り返った彼女の頬は、赤く、目元も潤んで見えた。
「どうした、の?」
「乗るなら、私の、上にしない?」
 顔を真っ赤にして呟いた彼女の言葉に、僕は耳を疑った。俯いた彼女の髪が垂れて、表情が隠れる。周囲に人は居なかった。
二人きりの通路で、彼女の手の汗が、いつも以上に多く流れていることに気づく。いや、彼女のか? これは、僕のか?
「何とか、いって」
 震える肩が、今にも消え入りそうだった。酷く大人びた、聞き間違いのような台詞が、まさか彼女から出るとは思いもよらず、ただただ愛おしかった。
 震える声が幸せで、気が付くと僕は、彼女の肩を引き寄せていた。僕も彼女も、まだそんな関係にはなってはいなかったのだ。

 たぶん、今日までは。

「僕の……に、乗るの間違いじゃない?」
「……ぇっち」

 耳まで真っ赤にした彼女の、掠れ漏れた呟きに、僕の心臓は、破裂しそうな程に鼓動を繰り返した。
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