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ひとたび恋してみてみれば5

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 俺は気が付くと、熟れた果実のような紅唇の、伊崎姫子に興味を持ち始めていた。

 いかん。食事の仕方のいい女は、夜のあれも丁寧だというジンクスが頭を過る。彼女はきっと素敵な声を奏でて喘ぐだろうと、思う俺の下半身が僅かに体積を増そうとする。よからぬ思いを噛み殺す。いかんだろ、今日は話し相手だっての。

 心を凍結し気持ちを凝固させ頭を冷やせと自分を叱咤する。伊崎姫子の視線が僅かに揺らいだ気がした。目を逸らすと、笑われた気がした。

「だから女の子って、努力しなきゃいけないのよね」

 彼女の瞳がわずかに笑いを帯びていた。俺に気遣うような視線の逸らし方が、いかん。この子は悟い。俺の心を悟り、見抜く眼力を持っている。

 俺の気持ちが助平方向に傾いでいるのが知られたとしたら、信用問題というかむしろ危険だ。ここで見限られても傷は浅いが、何となく嫌われたくないと思ってしまう。そうならないように気を引き締める。案外、会話が難しい。

 下手に持ち帰り的な流れより、伊崎姫子との会話はかなり難易度が高いのだと、今更ながらに気付いた。

「男だって見た目は気にしないとダメな気がするけど」
「でも女の子は、男が思っているほど相手の見た目を気にしない。ううん、気にするんだけど、それはどうでもなると思ってる。でも男の子は、見た目がダメな時点でアウトでしょう?」

 一時間近く話をしていたせいで、俺は彼女の性格を理解してしまった。まじめ、いい子。服装が大胆なのはフェイク。だとして、だとしたら俺は。

 伊崎姫子がふと、俺を睨みつけるような強い視線を見せた。合コンで向けられるような眼とは思えない、強い視線が俺の興味を強く引く。

 何か、強い目だ。

「女の子はいつだって周りから見られていると意識しなきゃいけないの。そうでなきゃ女の子じゃないって私は思う。自分をありのままに見せるのは、それを見せてもいいと思った人にだけだよ」

 その言葉で一端言葉を切った彼女が、俺を見つめて動かない。俺から顔を背けない。俺から顔を逸らさない。ここでなぜ、そんな真面目な話をするんだ。そう問うべきか一瞬迷い、けれど諦める。今はたぶん、それを問う盤面ではない。俺は静かに肩を竦めた。

「私はそんな手伝いがしたいから、服飾系の仕事に就きたいと思ってる。化粧の才能があったら、そっちもあったかもだけどね」
「凄いね、尊敬するよ」

 俺はつい、本音を漏らした。俺にはない事を言われたからか、やや不満な気持ちが沸いた。しかしそれを突っ込みはしない。苛立ちはしない。彼女が今、ありのままを見せているとしたら、それは見せるべき人が居たという話をしている。だとしたらどうだろうか。それが誰かと、彼女は言わないけれど、ただそれが誰だと、俺が理解できないはずはない。

 伊崎姫子の目はそういう強い視線だ。紅い唇が燃えている。優しい口調の裏にある強い心。俺の心の奥に、彼女の声が響く。

「今ここで、あなたに話せた事に感謝してる」

 彼女の熱い想いが、俺の心に届いていた。

「だからこそ、女はいろんな服を着てたくさんの化粧をするの。素敵よね」
「その唇の紅いのも?」

 放し続けて時間が過ぎた頃、俺の問いがついに漏れた。たぶん大丈夫だろうと決めて問うたわけだが、普通なら怒るだろう問いに、伊崎姫子は苛立たなかった。

 むしろ笑みに強さが増した。

 ついさっきまで話していた会話よりも至近距離の言葉に、俺もつい本心が漏れたのだが、それに後悔はない。俺の馬鹿みたいな質問に、伊崎姫子は怒るでもなく不思議がるでもなく、薄く、本当に薄く笑んでいた。

 そして短く、笑って言った。

「これは馬鹿な男除けよ」

 薄く唇を開けた伊崎姫子が、自身の唇を指さして告げた。ああ、なるほど。その言葉を一瞬で理解できてしまった俺は、次の言葉を吐けなかった。唇を強く噛む。

 いかん、完璧に彼女のペースだ。

「こんな唇とキスしたいって思わないでしょう?」
「さあどうだか」
「あら興味あり? それは相当、珍しい人ね」

 伊崎姫子の柔らかそうな唇がふいに妖艶な色合いを見せてきて、俺に迫るような口調で身を乗り出してくる。テーブルを挟んでいてようやく出来る距離感が、ふいに顔を寄せられた事で近くなる。もちろん手が届く程度の距離。

「今の私とキスしたら、君にも口紅が付くかもね」

 と語るのはちょっとした挑発か。

「ふたりで真っ赤になるよ」

 と呟く声は低く、冗談めいているのに酷く現実めいていた。

「冗談。頬を引っぱたかれそうだ」
「あはは。そんな暴力的じゃないよ?」

 その唇は俺の唇までは届かない。ただし心には、楽に届く。

 前言を撤回しようと思う。

 目の前で笑う伊崎姫子は輝いていた。外見以上に内面が輝いていた。彼女は毎日を楽しく素敵に過ごしているに違いない。もちろん苦労もしているだろう。辛い想いもたくさんしているだろう。それだけ毎日、大変な思いをしているに違いない。

 けれど素敵だと思った。化粧は厚いけれど、美人だし、態度と口調から察するに器量もあるし頭も良い。
 俺の勘が告げている。彼女ともっと、お近づきになれと俺の心が告げてくる。同時に止めろと告げている。これは俺の人生に何かしらの影響を与えかねない、そんな女な気がした。合コンで合うべき相手ではたぶんない。

 彼女はもっと別の、他の機会で知り合うべきだ。
 そう思って口を開こうとして、

「すぐる君、優しいけど少しつまらない人だね」
「っ何でそうなる?」

 伊崎姫子がさらりと、俺を突き落す言葉を述べてきた。合コンの飲みの席、一人の笑顔と一人の不満顔が出来上がる。グラスが持ち上がり、伊崎姫子の喉にビールが流れ落ちていく。それは短い、非情な発言だった。

「君、何かつまらないですなあ」

 それは俺の浮かれた心が一瞬にして落ち込ませるような言葉だった。

《続く》
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