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ひとたび恋してみてみれば2

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 手触りねえ?

 触れたら絹のような肌なのだろうか。そんな疑問に、別の疑問が浮いた。

 触れたいのか、俺は?

 グラスを持つ手を握り締めながら、自分の思考を疑った。心を凍結して気持ちを整理する。こいつはないだろと自分に問う。ですねと回答。はい終了。彼女から目を離して、目の前のグラスを傾けて心を見据える。グラスを持ち上げて視界を曲面に翳すと、硝子の向こうにある、伊崎姫子が見えた。その顔が、歪んだままに正面に見えて、気のせいだと思うがこちらを見ていた気がした。

 三度目はたぶん勘違いじゃないだろう。俺が見られた、としたら謎だが。
 少なくとも、俺は彼女にとって範疇外だろう。

 何故なら彼女の登場に、俺はあからさまに嫌な顔をしたはずだ。ないなと思って顔に出したはずだ。それを彼女は見たはずだ。目が悪いのかもしれない。そうであって欲しいが、その手の事は悪い方向に進む事の方が多い。

 しかし今改めて見れば、伊崎姫子は細身というよりやや肉つきが良く、抱き心地は良さそうだ。男って最低だな。うん、ですよね。

「やっとメンバー揃ったね。後でもう一回、自己紹介しましょう」

 メンバーがわいわいと彼女を出迎えている。俺は畳に坐したまま、膝を折り胡坐状態でビールを呷ぐ。温い。他のメンバーは眼を輝かせていて、黄色い声を上げている。

 誰かが狙う、そんな雰囲気に失笑を隠せない。

 やめとけ、お前らごときじゃこの子に身も心も、金も時間も毟られて捨てられるのが落ちだ。そう思いながら見た彼女の眼差しが、今度はグラスのない状況でまた俺に向いた気がした。気のせいじゃないのだろうと、せめて視線から逃れるようにグラスを傾ぐ。

 彼女はヒールを靴棚に入れると、扉側の、空いた一席へと歩いて、すたと正座した。誰に言われるでもなくすとんと丁寧に腰を折り、自然に降り立った先は、一番端という、つまり俺の前だった。

 彼女は誰の指図も受けず、俺の目の前の空席に着席した。

「ここ、空いてるよね?」
「ああ、空席だよ」

 伊崎姫子に問われ、俺は丁寧に頷いた。もちろん嘘を言う選択肢はあった。けれどそうすべきではない。それは相手に対して失礼だ。とはいえ。

 目の前に来た彼女を見て、俺は正直に言う。

 唇の紅が際立ち過ぎです、やっぱり。

「姫、ってあだ名?」
「本名が姫子だからよ。伊崎姫子です。前、失礼して平気?」

 俺の呟きに真っ先に反応した彼女が、笑顔と共に教えてくれた。俺の前に座ったのは単純にそこが開いていたからだろうが、自然過ぎて別の席を空けていた男側のメンバーがうじうじと何事かを呟いているが俺の知るところではない。長い横髪をかきあげた彼女が、二度目のピアスの輝きを俺に見せつける。髪から光が零れ落ちそうな錯覚。長い六角の宝石が垂れたピアスは、相当に高いのだろうか、綺麗だった。

「安物よ」

 告げた彼女に心を読まれたと知って、なるほど聡い子かと認識を改めた。

 正座の仕方が丁寧だった。視線の向け方が優しかった。財布から会費を取り出す指先は繊細だった。ギャップの激しさが俺の胸中に渦を生んだ。何だ、こいつ。

 何だ、この不思議な子は。

「前、迷惑だったら退くよ?」
「残念、君の席はそこ以外にない」

 思わずナンパに近い返し言葉をしてしまった自分の頬を殴りたい。彼女は笑い、「じゃ、お言葉に甘えて」と言ってくれて、こちらの面目が守られる。俺は置かれていた手拭きを取り、彼女に手渡してやる。彼女は受け取り、「ありがとう、君」と零しながら、そっと手を拭いて戻す。折り目正しく、丁寧に。

 彼女の見た目の豪奢さと、それに反する丁寧さに興味を引かれ心を惹かれた。やや分厚い唇に引かれた紅が派手過ぎた。第一印象と見た目とそれ以降の印象のギャップに、僅かながらも動揺する。違和感だらけの女だった。

「君、名前は?」
「早川すぐる。簡単な早いに簡単なせせらぎの川、名前は全部ひらがなだ」

 俺は半ば反射的に出せる自分の名乗りを告げ、相手の言葉を予測する。大概の女のなら「簡単で書きやすそうだね」とか「せっかちそうだね」とか言う。そうやって興味を引くのが俺の最初で、

「素敵な名前ね。一度聞いたら忘れない感じ」

 伊崎姫子の言葉は、俺の知る限り最高級の気遣いに満ちていた。思わず次の言葉を忘れてしまい、無言になってしまった。彼女は黙ったまま、笑顔を保ってくれた。

「姫子ちゃんもな」
「あら、ありがとう。すぐる君、もう覚えてくれたんだね」

 思いもよらない言葉に動揺し、うろたえた俺が咄嗟に返せた言葉は、何と言うかいつもらしくない、何の変哲もない返し言葉だった。遠くで男性陣が伊崎姫子に質問を投げてきて、それに答える彼女は、終始笑顔だった。声のハスキーさが成りを潜め、やや高い声色になっている。男に対する甘い声のような、そんな応答。

「ちゃん付けなんて、中学生以来かも」

 他の男性陣の質問に言葉を返しつつ、ややトーンを下げた声でそう呟いた彼女が嫌がる素振りを見せない。なぜ俺と他とで言葉遣いが変わるのか。それが何を意味するか、何となく理解できる自分が居る。

 彼女は俺の前を、たぶん自ら選んだのた。

 そんなわけで、俺は今日、彼女をちゃん付けで呼ぶ事になった。自業自得。けれどそれもまた良しだろう。

「すぐる君、そこのお醤油取って貰える?」
「はい、どうぞ」

 彼女に頼まれて醤油差しを手渡す。両手で丁寧に受け取られ、返却される際に指が触れた。彼女は気にしていない。俺も気にしない。ただ互いの目が合った。

 瞬間、悟る。彼女の目は悪くない。何となくそんな気がした。俺の表情を、入ってきた時に見せた嫌な顔を、彼女はちゃんと見たはずだ。

 だとしたらなぜ、俺の前に座った?

「飲み物まだだけど、少し貰っちゃう。お腹ぺこぺこ」

 軽く言葉を漏らし、彼女が箸を割った。本人も言ったが乾杯の音頭を待たず、彼女が刺身に箸を伸ばし出す。周囲の雑音が一瞬、掻き消えるようなそんな一瞬。紅い唇の中に入った刺身を、俺はじっと凝視した。かなり失礼な感じで。けれど彼女はそれを見て、「どうしたの?」とだけ聞いた。

 伊崎姫子の優しい笑顔が、俺の平然さを搔き乱した。

《続く》
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