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恋人との狭間
しおりを挟む隔たりがある程に、それは熱く燃え上がる。
止まらない想いは強くなる。止めようと思えば思う程、それは燃料を得た焔のように激しさを生み出していく。
愛ではなく恋ではなく。そんな言い訳に反吐がでる。
好きの順位。揺らぎの極み。
曖昧にすべきこと。そんな気持ちの、狭間の話。
○○○
「最初から、私が和哉(かずや)サンの事気にしてるってわかってたんですか?」
「まさか」
彼女の問いかけに、俺は肩を竦めて否定した。
深夜零時より僅かに深みを増した夜。
金色の月は厚い雲に覆われて、光の破片すら届かない。あるべき星も、その光を受けられず俺の目には映らない。
暗い野外。薄い明かりが洩れる外灯の下に俺は居た。
俺の彼女の、親友と共に。
「たまたまだよ。ふと目が合ったとか、ね」
「それって、やっぱり私が和哉サンを気にしてるの、気付いてたって事じゃないですか」
街頭のほのかな明かりが彼女の横顔を照らしていて、それでも薄暗い中、楽しげな表情はよく見えた。
化粧っ気のない彼女が、頭を抱えて苦しみ悶える、ふりをする。
その仕種は可愛くて、子供のように無邪気に見えた。
大袈裟に見えて謙虚で、大胆なようで繊細だった。そんな奈美はベッドの上ですらこの調子だから堪らない。
日に焼けた肌は焦げ茶よりもほのかに白くて、なのに胸の先の薄い桃色がやたらと映えているのが、堪らない。
無邪気に俺を抱き留める身体と心が堪らない。
俺が苦笑して、奈美はむうと唇を尖らせて拗ねてくる。
そんな様が新鮮だった。丁寧で繊細で、優しいあいつにはない態度が目を引いた。
最初は、そんな程度だったんだ。
「違うって。ほんと、俺からだから」
「えー、嘘ですよそれは。絶対、わかってたですって。あちゃー」
奈美(なみ)が楽しそうに笑いながら、小指を俺の指に絡めてくる。
俺は逡巡して、遠慮気味に彼女の手を握り直すように小指を折った。
きゅうと握られた小指と小指が、熱い。
「やっぱり、悪いのは私なんですね」
「違うよ。俺だから」
静けさに、服の擦れた音が鳴る。息遣いが笑い声に変わり、また静けさへと代わっていく。
奈美の指が、小さく脈打っていた。
「じゃあ、私が和哉サンの事どう思ってるかを知らずに、あんなことしたんですか?」
「あんな、こと?」
「はい、あんなことです」
奈美の肩が俺の腕にくっついていて、たぶん風呂上がりだろう彼女の身体から、いい匂いが漂ってくる。
たぶんシャンプーか何かの匂いだろうか。ミルクのように甘い香りがおれの鼻孔をくすぐる。甘い。そして、柔らかい。
奈美の頬に浮いた汗が首筋を流れて、胸の方へと落ちていく。
俺の心までも、夜の闇に堕ちそうになる。
「俺からだから、ほんとに。奈美ちゃんは悪くないって」
「むー」
俺より頭一個分低い奈美の視線が、上目使いでこちらをむく。
ぐいと押し付けられた胸から、奈美の心臓の鼓動が伝わってくる。
「もしかして、またしたいとか思ってますか?」
どき。
「したい?」
「はい。えっち、したいですか?」
ごく。奈美の軽い言葉に、俺の無意識が息を飲む。形成された理性が揺れて、奈美のふとももが俺のふとももに押し当てられる。
柔らかい肌が気にいった。爽やかな声が気にいった。
俺の勝手に付き合ってくれて、俺の気分に合わせてくれる。呼べばいつでも隣に来てくれる優しさが、気にいったんだ。
「うん」
「わ、即答っすかー」
額に手を当てながら、奈美が笑いながらも失敗したーなんて後悔を呟き漏らす。
「奈美ちゃんは、違うのか? もう俺とはしたくない?」
「あー。そういう質問はしないで下さい。言いたくないです。というか察して下さい」
そう語る奈美の寂しい瞳が、俺の心に歯止めをかけてくる。
「そっか」
「そーです。とりあえず、今私がここに居ることで、すでに答えはわかりますよね?」
私も、したいですから。
そんな言葉が聞こえた気がした。奈美の頬が俺の腕に擦り寄ってきて、俺は甘えてくる彼女の肩をそっと抱く。
「えい」
「お?」
途端に奈美の腕が俺を押した。無理矢理剥がれる奈美は、けれど少しも力強くない。
離れたくないのに、ちくしょう。そんな気持ちが伝わってくる。
「あーもー。和哉サン、私最低です。恋人の友達に、手ぇ、出しちゃだめですよね」
「しょうがないだろ? もー、あの時はほんと、お互いどうしようもなかったわけだし」
「ですかねー」
奈美が呆れ、俺は肩を竦めて苦笑する。
月のない夜。人だかりの皆無な野外は寒くて、なのに隣り合う相手は暖かい。
昔から付き合っていたヨリコとケンカした。
いつもなら俺から謝るはずなのに、俺はこのまま別れてやるなんて気になってしまって、酒に酔った勢いでヨリコに別れを告げた。
ヨリコは唖然として、泣いて、泣きじゃくって。
親友である奈美に相談した。
奈美は俺の部屋に来て、怒鳴ることもせず、ただ俺の話を聞いてくれた。
俺はそれだけで心が軽くなれて、奈美は俺の代わりに泣いてくれた。わんわんと泣いてくれて、悲しんでくれたんだ。
そして俺は、そんな奈美を抱きしめて……。
「俺、ヨリコと、ん」
途端に視界が暗くなる。
見えたのは、少し濡れた前髪だった。
俺の口元を塞ぐ、柔らかい唇の感触があった。俺の言葉を、奈美の小さな唇が疎外したんだと気付いたくらいで、彼女の顔がゆっくりと遠退いていく。
「だめですよ」
奈美の瞳は潤んでいて、頬に透明な糸が落ちていく。薄暗い中でも見える二人の距離は究極に近い。
恋人の友達との距離にしては、近い。
「でも、それじゃ」
「いいんです。私は、いいんです」
俺の決断を、奈美はゆっくりと首を振って否定する。俺はその言葉に苛立ちを覚え、同時に安堵感を覚えてしまう。
それは、つまり。
俺は、まだ、ヨリコが……。
「ヨリコ、いい子だから。悲しいことしちゃ駄目ですよぉ?」
奈美の言葉が骨身に染みる。
わかってるんだ。ヨリコは俺にとって最高の女だということくらいは。俺にはもったいなくて、でも最低な俺をヨリコは誰よりも好いていてくれる。
「俺は……」
喉から零れ落ちそうな、最後の言葉が吐き出せない。その言葉と、何より俺の気持ちを汲んでくれる奈美は何も語らず、笑顔のままでいてくれる。
それが堪らない。
俺にはすごく、堪らない。
「もう一時過ぎですねぇ」
夜は更けていく。奈美の髪や身体はすでに冷たくなっていて、俺はそんな彼女の手を握り締めている。
「また、明日ですか? 和哉サンはバイト、お休みですよね?」
「……あ」
月の無い夜。奈美は無表情のまま尋ねてきて、俺は返答に苦戦する。それはつまり、この罪悪感が続くということだから。
奈美とまた、二人だけの時間を過ごすということだから。
「おう。また明日かな」
そんな俺の喉が、またその言葉を漏らしてしまう。否定できない気持ちが、隠せない感情に右往左往してしまう。
奈美とは決して恋人ではない。俺の恋人はヨリコで、ヨリコの親友が奈美なんだ。
星の見えない夜。
俺から数歩離れた奈美が、くるりと半回転して振り返ってくる。その瞳は柔らかくて、温かい。
「好きですよ。たぶん、ヨリコよりも」
ずん。
心臓にくる。その言葉が辛く、苦く、甘い。蜜のように妖艶な奈美の笑顔に、俺は自分を押さえられない。
「うん」
そして俺は、最低な返答しか返せない。
こんな俺が、どうして二人の女を愛せるのか。そんなことをして、いいと思ったことは一度もない。
でも。
俺は。
「じゃあ」
「ごめんな」
「……はい?」
奈美が俺の元から去ろうとして、咄嗟に漏らした言葉に彼女が足を止めた。立ち止まる後姿は弱々しくて、彼女らしくないと思った。
いや。
本当はただ、俺がそういう風に彼女を見ているだけなのかもしれない。本当は辛くて、弱くて、寂しがりやなのかもしれない。
「謝らないでくださいよ」
奈美が振り返る。その瞳はやっぱり笑っていて、俺を安心させてくれる。同時に俺の、良心ってやつを傷付ける。
「寂しいじゃないですか」
「じゃあ、ありがとう」
俺は苦し紛れに礼を言う。何に対してなんて知るか。ただ奈美という女が、俺と一緒に居てくれることに感謝する。
俺の粗末な言葉に、奈美はこくんと小さく頷いた。
「また、明日。部屋で待ってますから」
悲しそうな顔で、笑いながら奈美が言った。
「なかったことには、しなくていいですから」
「うん」
俺はまた、粗末な返答で彼女を送る。
ああ。
今の俺は、いったいどんな顔をしているんだろうか。
どうせろくでもない顔に違いない。
熱くなる目頭を服の袖で拭いながら、俺はそんな自分を嘲笑うことしかできない。
《終わり》
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