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第十章 浦島次郎
浦島次郎(過去にしかいない)
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――佐藤が大事なことを思い出せた、同じ日の夕刻。
ゴミの臭いは、日に日に強くなる。ラーメンや焼きそば、うどんなどの臭いが混ざり、もはや何かわからないほどだ。窓を開けて換気はするが、それも最近では効果が薄い。
今日は朝から雨なので換気すらもできずにいた。限界に近い。
そろそろゴミ捨て場に行かなければならないだろう。
しかし、やる気が出ない。
鈴木次郎は、ベッドに寝転がっていた。ゴッドジュニアの腹を枕にして、焦点の定まらない目を天井に向けている。
ノートパソコンは完璧にクラッシュしていた。痛々しくて見ていられず、布で隠してある。
あの時の佐藤の行動に対して、一瞬間、鈴木は殺意すら覚えた。だが、それはすぐに萎縮していった。
佐藤は泣かない女だった。
確率として、一年に一回あるかないかの希少イベント。それをあんな形で引き起こしてしまうとは。
佐藤は、不満なとき、頭にきたとき、全身でそれをアピールする。その場で怒って、どなって、相手に訴える。それが終わると、後腐れなく水に流す。実にわかりやすい。
それに比べて、自分のやり方は陰険だと思う。
ムッと来ることがあっても、それを相手に直接言及することはない。ものすごく遠回りな言い方で、相手に精神的負荷を与える。相手にしてみればどうしてこちらが不機嫌なのかわからないだろう。いや、不機嫌なことすらも伝わっていないと思う。だから余計に傷つくのだ。
だがたとえそうだとしても、佐藤の取った行動はあんまりだった。鈴木が命の次に大切にしているパソコンを……。それが何を意味しているのかは彼女もよくわかっているはずだった。
それでも鈴木は怒れなかった。泣かれると、どうしても自分が悪いような気分になってしまう。
昔、くだらないことでもすぐに泣く女の子がいた。佐藤が感情が高ぶると怒り出すのに対し、彼女はぼろぼろといつも涙をこぼした。鈴木は彼女の泣き顔が好きだった。しかし、彼女に泣かれるのは嫌だった。
いつまでも色褪せない中学時代最後の記憶が蘇る。
畑道を息を切らして自転車で走った毎日が、今は懐かしい。この校門を突破して、夜な夜な校舎に忍び込むこともなくなるのだろう。
そんな感慨に浸る時間すら悪友は与えてくれなかった。むやみやたらと怒声を放つ。
「ふざけんなよ次郎、聞いてねえぞ! 東京の学校行くだなんて」
次郎はあくまでクールな態度を通す。
「うん、まあ、言ってなかったからね」
一政の手が胸倉を乱暴に掴む。顔がかなり怒っていた。
「お前、兄貴のやったこと気にしてんのか? 俺たちがそのことでお前に何か言ったことあったかよ!」
「べつに、兄さんは関係ないよ。若者なら誰だってあるだろ? 都会の生活に憧れること」
軽く笑ってみせる。今度は突き飛ばされた。体重の軽い次郎は三、四歩後ろによろける。
美樹の姿が目に入った。一政の横で小さくなり、顔を手で覆っている。おかっぱ頭の、垢抜けない少女。しゃくりあげながら搾り出すように訴える。
「高校くらい、地元の学校でいいじゃない……だって、私、私、次郎ちゃんのこと好きだったんだよ?」
「そうだぞ、次郎。美樹ちゃん泣かせるなよ!」
一政が美樹の片棒を担ぐ。
次郎の口元が歪んだ。うまく笑うことが出来ない。
「知ってたよ。でも」
――どうしようもないときだってあるさ。
一政の肩を引っ張って美樹に押し付ける。
「一政は美樹ちゃんのことが好きなんだよな」
「ええ?」
顔から手を離し、心底驚いた顔をする。こういうときの顔が可愛らしい。
「ちょっ……お前、何勝手なこと言ってんだよ」
真っ赤になる一政。こいつはこいつで可愛いのだ。
次郎は二人があたふたしている間に止めてある自転車にまたがった。一政の叫びを無視し、全力で走り去る。
あれからすでに七年が経つ。鈴木の心にはまだ美樹と一政がいた。
――過去の中で生きるのは、そんなにいけないことか? 変わることのない記憶の中に身をおいて、気がついたら浦島太郎のように年を取っていて、そして、死にたい。
鈴木は現在にいながら現在を生きてはいなかった。七年前のあの日、鈴木次郎の人生は終わった。東京の自分は死んでいる。だから、いつ死んでもいい。そんな自棄的な気分のままだらだらと今日まで生きてきた。
しかし、この竜宮城から、地上へ自分を呼び戻そうとするものがある。水面から、おいでおいでと響く声。海亀を一政、乙姫を美樹とするならば、佐藤はどこにいるのだろう。浦島が地上に残した未練だろうか。
――もうそろそろ、潮時だろうか。
鈴木の脳内では中学生姿の幼馴染も、今は立派な大人になっている。いつまでも、過去の記憶にどっぷりと浸かっているわけにはいかないのだろう。
それがどれほど残酷でも、現在を生きなければならない。わかっていた。そんなことはずいぶん前から。
鈴木は、むくりと起き上がった。窓辺に近づき、外を見る。 美しい、目に痛いほどに美しい夕日が摩天楼の合間へと沈んでいく。雨は止んでいた。
ゴミの臭いは、日に日に強くなる。ラーメンや焼きそば、うどんなどの臭いが混ざり、もはや何かわからないほどだ。窓を開けて換気はするが、それも最近では効果が薄い。
今日は朝から雨なので換気すらもできずにいた。限界に近い。
そろそろゴミ捨て場に行かなければならないだろう。
しかし、やる気が出ない。
鈴木次郎は、ベッドに寝転がっていた。ゴッドジュニアの腹を枕にして、焦点の定まらない目を天井に向けている。
ノートパソコンは完璧にクラッシュしていた。痛々しくて見ていられず、布で隠してある。
あの時の佐藤の行動に対して、一瞬間、鈴木は殺意すら覚えた。だが、それはすぐに萎縮していった。
佐藤は泣かない女だった。
確率として、一年に一回あるかないかの希少イベント。それをあんな形で引き起こしてしまうとは。
佐藤は、不満なとき、頭にきたとき、全身でそれをアピールする。その場で怒って、どなって、相手に訴える。それが終わると、後腐れなく水に流す。実にわかりやすい。
それに比べて、自分のやり方は陰険だと思う。
ムッと来ることがあっても、それを相手に直接言及することはない。ものすごく遠回りな言い方で、相手に精神的負荷を与える。相手にしてみればどうしてこちらが不機嫌なのかわからないだろう。いや、不機嫌なことすらも伝わっていないと思う。だから余計に傷つくのだ。
だがたとえそうだとしても、佐藤の取った行動はあんまりだった。鈴木が命の次に大切にしているパソコンを……。それが何を意味しているのかは彼女もよくわかっているはずだった。
それでも鈴木は怒れなかった。泣かれると、どうしても自分が悪いような気分になってしまう。
昔、くだらないことでもすぐに泣く女の子がいた。佐藤が感情が高ぶると怒り出すのに対し、彼女はぼろぼろといつも涙をこぼした。鈴木は彼女の泣き顔が好きだった。しかし、彼女に泣かれるのは嫌だった。
いつまでも色褪せない中学時代最後の記憶が蘇る。
畑道を息を切らして自転車で走った毎日が、今は懐かしい。この校門を突破して、夜な夜な校舎に忍び込むこともなくなるのだろう。
そんな感慨に浸る時間すら悪友は与えてくれなかった。むやみやたらと怒声を放つ。
「ふざけんなよ次郎、聞いてねえぞ! 東京の学校行くだなんて」
次郎はあくまでクールな態度を通す。
「うん、まあ、言ってなかったからね」
一政の手が胸倉を乱暴に掴む。顔がかなり怒っていた。
「お前、兄貴のやったこと気にしてんのか? 俺たちがそのことでお前に何か言ったことあったかよ!」
「べつに、兄さんは関係ないよ。若者なら誰だってあるだろ? 都会の生活に憧れること」
軽く笑ってみせる。今度は突き飛ばされた。体重の軽い次郎は三、四歩後ろによろける。
美樹の姿が目に入った。一政の横で小さくなり、顔を手で覆っている。おかっぱ頭の、垢抜けない少女。しゃくりあげながら搾り出すように訴える。
「高校くらい、地元の学校でいいじゃない……だって、私、私、次郎ちゃんのこと好きだったんだよ?」
「そうだぞ、次郎。美樹ちゃん泣かせるなよ!」
一政が美樹の片棒を担ぐ。
次郎の口元が歪んだ。うまく笑うことが出来ない。
「知ってたよ。でも」
――どうしようもないときだってあるさ。
一政の肩を引っ張って美樹に押し付ける。
「一政は美樹ちゃんのことが好きなんだよな」
「ええ?」
顔から手を離し、心底驚いた顔をする。こういうときの顔が可愛らしい。
「ちょっ……お前、何勝手なこと言ってんだよ」
真っ赤になる一政。こいつはこいつで可愛いのだ。
次郎は二人があたふたしている間に止めてある自転車にまたがった。一政の叫びを無視し、全力で走り去る。
あれからすでに七年が経つ。鈴木の心にはまだ美樹と一政がいた。
――過去の中で生きるのは、そんなにいけないことか? 変わることのない記憶の中に身をおいて、気がついたら浦島太郎のように年を取っていて、そして、死にたい。
鈴木は現在にいながら現在を生きてはいなかった。七年前のあの日、鈴木次郎の人生は終わった。東京の自分は死んでいる。だから、いつ死んでもいい。そんな自棄的な気分のままだらだらと今日まで生きてきた。
しかし、この竜宮城から、地上へ自分を呼び戻そうとするものがある。水面から、おいでおいでと響く声。海亀を一政、乙姫を美樹とするならば、佐藤はどこにいるのだろう。浦島が地上に残した未練だろうか。
――もうそろそろ、潮時だろうか。
鈴木の脳内では中学生姿の幼馴染も、今は立派な大人になっている。いつまでも、過去の記憶にどっぷりと浸かっているわけにはいかないのだろう。
それがどれほど残酷でも、現在を生きなければならない。わかっていた。そんなことはずいぶん前から。
鈴木は、むくりと起き上がった。窓辺に近づき、外を見る。 美しい、目に痛いほどに美しい夕日が摩天楼の合間へと沈んでいく。雨は止んでいた。
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