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第六章 悲劇の南極物語
悲劇の南極物語(少年時代)
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怪獣だらけのカオス世界を、これほど愛おしく思ったことはない。佐藤は、鈴木の部屋に入るなり安堵で座り込んでしまった。鈴木は、奇怪なマントを外して棚の上に放り投げる。明るみで見ると黒ずくめの服は上下同色のジャージだった。いつもの緑色の作業ズボンではないところが新鮮だ。
若干落ち着きを取り戻してから、おずおずと口を開いた。
「あの、よかったの? お面……あんなに大事にしていたのに」
「いいんだ。今度バージョンアップしたヴォイスチェンジャー機能付きのを買う予定だったから」
「そりゃよかったわね」
鈴木に自己犠牲の愛などを期待してはいけない。むしろこのほうがらしくて安心する。「ヘルメットより佐藤さんのほうが大事だよ」なんて白々しく言われたら、気味が悪いというものだ。
しかし、まだまだ確認すべきことが山ほどある。どこから触れたらよいのか、どこまで踏み込んだらよいのか判断に迷うところだ。
「あのさ、さっき言ってたこと……あいつが兄さんとか、出所したとか、……どういうことなの?」
「バツ一狼は、俺の兄だよ。まあ、いろいろとあってね。決して悪い人間ではなかったんだけど」
思ったよりも平然とした態度なので、気持ちが軽くなる。後を続けやすい。
「いったい、何がどうしてあんたのお兄さんはあんなになってしまったの?」
なかなか口を開かない。沈黙に耐えられず、佐藤がもう一言添えようとした時、やっと答えが返ってきた。
「……兄さんは、自分の名前が嫌いだったんだ」
事の発端は十二年前に遡る。その日、鈴木家では空前の修羅場が展開していた。
家中に響く怒声。リビングでは硝子の割れる音が聞こえる。サッシは無残に砕かれ、吹きさらしの風が室内に入る。
十歳になる弟・次郎は、ソファで怪獣と戯れながら傍観者に徹していた。
「お願い、太郎ちゃんやめてっ」
必死に母が暴れ狂う長男に懇願する。それを打ち消すように、兄はバッドでテーブルを殴りつけた。台の真ん中はすっかりへこみ、使い道がなくなっている。床には食器や破損した家具が散らばっていた。
「答えろ、親父い! 何で俺の名前は太郎なんてださい名前なんだ! 南極物語の犬から子供の名前とるだなんて、馬鹿じゃねえのか?」
兄の言うことはもっともだった。特に、十六歳なんて難しい年齢になると、どうしてもコンプレックスが膨張するのだろう。
左手にバッド、右手に包丁という、あまりにもデンジャラスないでたちで仁王立ちする兄の姿は、どこか滑稽味を帯びていた。
「この名前のせいで俺や次郎がどれほどの屈辱を味わってきたことか! 次郎、お前もそう思うだろう?」
反抗期で暴れるのはかまわないが、自分を巻き込むのはやめてほしい。次郎は急に振られてアドリブが出来るほど芸達者ではなかった。
返事に悩みながら兄を一瞥する。
「俺は、べつに……学校の寸劇で、次郎冠者やらされたくらいかな」
「ごめん、それスルーする」
自分で振っておきながら、彼の視線はすでに次郎へは向いていなかった。身を寄せ合う両親を睨みつけ、叱責する。
「子供に付けるんだったらなあ、もっと格好いい名前なんていくらでもあるだろうが! リョウとか、タツヤとか、ヒュウマとか!」
「だ、だって、ヒュウマなんて名前にして、『ヒュウマ? 巨人の星かよ、ププ』とか思われたらそっちのほうが嫌じゃないか」
あんたが四十年の人生で培ってきた最大の反論がそれなのか。父が弱くとも昭和・平成の荒波を懸命に生きてきたことを次郎は知っていた。それでも、息子の反抗期というかつてない難関を乗り越えるには、やはり父は弱すぎる。
「巨人の星は、男のロマンだああーっ!」
太郎は、足を振りかぶり、華麗なフォームを取った。そして、手に握られた包丁を投げる。次郎の注意が、ギャドンのフィギュアから決定的にそれた。
兄の投げた包丁は芸術的ともいえる完璧なラインを描き、父の腹にのめり込んでいった。動体視力のない父親には、息子のボールをキャッチすることが出来なかったのだ。
低い呻きと共に、父は硝子の破片の中に沈んだ。お父さん、お父さん、お父さん、あなたあなたあなた。隣にいた母が、半狂乱ですがりつく。この出来事は次郎のポーカーフェイスすらも崩した。だが、どんな表情をしたらよいかもわからず、やはり無表情は変わらなかった。
一番驚いていたのは、父でもなく母でもなく、次郎でもなく。包丁を投げた本人だった。青くなり、膝をがくがく震わせている。
そんな兄を見ながら、次郎はソファから移動していた。
「ああ! ついヒュウマになりきって包丁投げちゃったよ! どうしようっ」
兄は、かなり混乱しているようだった。情けない声で喚いている。次郎は兄を冷静になだめた。握られた電話を指し示す。
「救急車呼んどいた。あと警察も」
「警察? ちょっと待ってよ弟よ!」
太郎の反抗期は少年院行きという最悪の形で幕を閉じた。
やがて太郎は少年院から出る。その頃にはすっかりと更生し、落ち着きを取り戻していた。幸い、家族仲にひびが入るということもなかった。腹を刺されたって息子は息子である。過去の事件が笑い話になろうとしていた、そんな時期――。
若干落ち着きを取り戻してから、おずおずと口を開いた。
「あの、よかったの? お面……あんなに大事にしていたのに」
「いいんだ。今度バージョンアップしたヴォイスチェンジャー機能付きのを買う予定だったから」
「そりゃよかったわね」
鈴木に自己犠牲の愛などを期待してはいけない。むしろこのほうがらしくて安心する。「ヘルメットより佐藤さんのほうが大事だよ」なんて白々しく言われたら、気味が悪いというものだ。
しかし、まだまだ確認すべきことが山ほどある。どこから触れたらよいのか、どこまで踏み込んだらよいのか判断に迷うところだ。
「あのさ、さっき言ってたこと……あいつが兄さんとか、出所したとか、……どういうことなの?」
「バツ一狼は、俺の兄だよ。まあ、いろいろとあってね。決して悪い人間ではなかったんだけど」
思ったよりも平然とした態度なので、気持ちが軽くなる。後を続けやすい。
「いったい、何がどうしてあんたのお兄さんはあんなになってしまったの?」
なかなか口を開かない。沈黙に耐えられず、佐藤がもう一言添えようとした時、やっと答えが返ってきた。
「……兄さんは、自分の名前が嫌いだったんだ」
事の発端は十二年前に遡る。その日、鈴木家では空前の修羅場が展開していた。
家中に響く怒声。リビングでは硝子の割れる音が聞こえる。サッシは無残に砕かれ、吹きさらしの風が室内に入る。
十歳になる弟・次郎は、ソファで怪獣と戯れながら傍観者に徹していた。
「お願い、太郎ちゃんやめてっ」
必死に母が暴れ狂う長男に懇願する。それを打ち消すように、兄はバッドでテーブルを殴りつけた。台の真ん中はすっかりへこみ、使い道がなくなっている。床には食器や破損した家具が散らばっていた。
「答えろ、親父い! 何で俺の名前は太郎なんてださい名前なんだ! 南極物語の犬から子供の名前とるだなんて、馬鹿じゃねえのか?」
兄の言うことはもっともだった。特に、十六歳なんて難しい年齢になると、どうしてもコンプレックスが膨張するのだろう。
左手にバッド、右手に包丁という、あまりにもデンジャラスないでたちで仁王立ちする兄の姿は、どこか滑稽味を帯びていた。
「この名前のせいで俺や次郎がどれほどの屈辱を味わってきたことか! 次郎、お前もそう思うだろう?」
反抗期で暴れるのはかまわないが、自分を巻き込むのはやめてほしい。次郎は急に振られてアドリブが出来るほど芸達者ではなかった。
返事に悩みながら兄を一瞥する。
「俺は、べつに……学校の寸劇で、次郎冠者やらされたくらいかな」
「ごめん、それスルーする」
自分で振っておきながら、彼の視線はすでに次郎へは向いていなかった。身を寄せ合う両親を睨みつけ、叱責する。
「子供に付けるんだったらなあ、もっと格好いい名前なんていくらでもあるだろうが! リョウとか、タツヤとか、ヒュウマとか!」
「だ、だって、ヒュウマなんて名前にして、『ヒュウマ? 巨人の星かよ、ププ』とか思われたらそっちのほうが嫌じゃないか」
あんたが四十年の人生で培ってきた最大の反論がそれなのか。父が弱くとも昭和・平成の荒波を懸命に生きてきたことを次郎は知っていた。それでも、息子の反抗期というかつてない難関を乗り越えるには、やはり父は弱すぎる。
「巨人の星は、男のロマンだああーっ!」
太郎は、足を振りかぶり、華麗なフォームを取った。そして、手に握られた包丁を投げる。次郎の注意が、ギャドンのフィギュアから決定的にそれた。
兄の投げた包丁は芸術的ともいえる完璧なラインを描き、父の腹にのめり込んでいった。動体視力のない父親には、息子のボールをキャッチすることが出来なかったのだ。
低い呻きと共に、父は硝子の破片の中に沈んだ。お父さん、お父さん、お父さん、あなたあなたあなた。隣にいた母が、半狂乱ですがりつく。この出来事は次郎のポーカーフェイスすらも崩した。だが、どんな表情をしたらよいかもわからず、やはり無表情は変わらなかった。
一番驚いていたのは、父でもなく母でもなく、次郎でもなく。包丁を投げた本人だった。青くなり、膝をがくがく震わせている。
そんな兄を見ながら、次郎はソファから移動していた。
「ああ! ついヒュウマになりきって包丁投げちゃったよ! どうしようっ」
兄は、かなり混乱しているようだった。情けない声で喚いている。次郎は兄を冷静になだめた。握られた電話を指し示す。
「救急車呼んどいた。あと警察も」
「警察? ちょっと待ってよ弟よ!」
太郎の反抗期は少年院行きという最悪の形で幕を閉じた。
やがて太郎は少年院から出る。その頃にはすっかりと更生し、落ち着きを取り戻していた。幸い、家族仲にひびが入るということもなかった。腹を刺されたって息子は息子である。過去の事件が笑い話になろうとしていた、そんな時期――。
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