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第四章 マイノリティーの悲劇
マイノリティーの悲劇(吉村残酷物語)
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佐藤は動揺していた。先ほどの吉村からの電話を思い出す。無邪気な彼からは想像のできない、震え上がった声。電波を通してこちらにまで恐怖が伝染しそうな怯えようだった。
「佐藤さん、佐藤さあん……助けてください、僕もうどうしたら……うわあああああ」
「何? どうしたの、吉村!」
「狼に……バツ一狼にやられました……っ」
暗い路地を走る。吉村は、居酒屋のバイトからの帰りだったようだ。通りに面していない、店の裏側での襲撃だった。
ゴミ箱の横でうずくまっていた吉村は、佐藤に気がつくと顔を上げた。急いで彼のそばによる。こういうときほどヒールの靴がうざったく思える瞬間はない。
吉村は佐藤に臆面もなく飛びついた。かなり動揺しているらしい。
「佐藤さああん!」
泣き崩れる彼の、前髪を上げる。
そこには、血塗られたバツ印が浮かび上がっていた。
放課後の校舎では、学生が噂話に花を咲かしていた。
「知ってるか、昨日、狼の被害に遭った男、うちの学校の生徒らしいぜ」
「え、まじい?」
「そうそう、デザイン科の吉村だろ」
「それ知り合いなんだけど! そういや今日見かなかったな」
興味津々に話す彼らの輪を、突き飛ばしていく生徒がいる。学生たちは呆気に取られてその後姿を見送った。
佐藤は怒りの形相をしていた。
バンッと、週刊誌や新聞の束が床に叩きつけられる。
「……何それ」
ベッドに寝転がっていた鈴木が、一瞥してそう言う。佐藤は、邪魔な怪獣たちを払いのけ、自分の座るスペースを作った。
「バツ一狼についての記事が乗ってるやつ。図書館と家の古新聞から集めてきた」
吐き捨てるように続ける。
「絶対に許さないわ、バツ一狼! 私がこの手で尻尾を掴んでやる!」
「べつにそこまで怒らなくても。あの人、死んだわけでもないのに。額にちょっと傷が残るくらいで……」
鈴木は、抑揚のない声を出した。こいつの喋りは本当に無味乾燥だ。人生というものにやる気が感じられない。
佐藤は新聞を鈴木の顔に投げつけた。腹が立つ。どうしてこうも他人の気持ちというものを理解できないのか。
「吉村は友達なの! 可哀想過ぎるじゃない、犯罪に巻き込まれたら、被害者の人権だって暴かれちゃうんだから」
「…………」
反省したのか、空を見つめたまま押し黙る。そして一言。
「俺、佐藤さんが額にバツを書かれても」
静かな語調だ。
「多分何もしない」
「外道っっ!」
もはやこの男には何を言っても無駄だと判断する。鈴木の存在は無視して、雑誌をめくり事件の概要を調べる。
『バツ一狼。人気のない夜道で背後から名前を聞いてくる。基準は不明だが、運が悪いと額に×をナイフで刻まれてしまう。目撃証言によると、犯人は若い男(二十代~三十代前半)で、コートを着込みファー付のフードを被り、それになぜか獣耳が縫い付けてあるので、×一狼という名がついた。サングラスに、マフラーをつけており顔はよくわからない』
この辺りは、佐藤も知っている範疇だ。落胆する。要するに、これ以上のことは誰にもわからないらしい。
吉村の証言を思い出す。
警察より先に、佐藤に電話したのは、そこまで気が回らなかったかららしい。電話帳の一番上に入った名前にかけたのだと言っていた。
佐藤は考える。吉村と鈴木はだいたい同じくらいの身長である。そして、二人より自分は頭半個ほど低い。自分の身長は百六十センチ。吉村より明らかに大きいということは、かなり長身だろう。
それから、吉村は振り向くとき、左に首をひねる癖があるのを佐藤は知っていた。つまり、男は左手にナイフを握っていた。左利きの可能性が高い。
――そういえば、鈴木も左利きね。
どうでもよいことが脳裏をよぎる。
新たにわかった情報は微々たるものだ。
しかし、ここはポジティブ思考の佐藤。めげずに再び雑誌に目を落とす。
「どうしてさあ、不幸は持続的なのに、幸せは刹那的なんだろうね」
前触れもなく鈴木が口を開く。先ほど佐藤が投げた新聞を眺めていた。
「何、急に変なこと言い出すのよ。吉村のこと言ってるの? バカね、あんたは。持続的だったら、それは幸せなことでも不幸に思えちゃうのよ」
「でも、その幸せの後にまた不幸が訪れるとしたら」
新聞を放る。鈴木にしてはやたら饒舌だった。
「残酷、だよな」
口元は笑っていたが、妙に虚無的だった。彼はいつもそんな感じだが、それを初めて強く意識する。
――こいつ、実はニヒリストってやつ?
いくら推し量っても鈴木の脳みそは理解できないので、考えるだけ徒労というものだった。
「……わけわかんないのー。鈴木のくせに」
しばらく、会話が途切れた。佐藤は黙々と事件について調べている。明晰とは言えない頭脳で、それでも懸命に狼を捕まえる糸口を探す。
鈴木は、ベッドに寝転がったまま何もしない。寝ているわけでもないのに、ただ横になっている。ちなみに、彼の横にはやたら大きな猫のぬいぐるみが置いてある。実際は、怪獣の「ゴッドジュニア」の抱き枕だ。見た目は白猫がサングラスをかけているだけだが、鈴木曰く口からプルトニウムを放出するらしい。この怪獣は可愛いので佐藤も気に入っている。誕生日にその抱き枕を自分にも買って欲しいと頼んで断られた経緯があった。
「鈴木、これを見て」
佐藤は、地図を取り出した。鈴木が上半身を持ち上げる。
地名を指で辿りながら説明をする。
「最近五件の事件現場なんだけど。順番に、Y町、H町、R町、S町、それから、吉村の襲われたT町。だんだんと北にずれているわ。ということは」
佐藤の目が猫のように光る。
「次は、M町か、A町か、D町のあたり」
鈴木が、切れ長の目を一度しばたく。
「どうする気?」
「おとりになる」
暫時、流れる無音。
先に目を逸らしたのは鈴木だった。例の無感情な声で、一言。
「物好きだね」
あわよくば鈴木の協力を……とも考えていたが、この様子では期待できない。小さく息を吐き、荷物をまとめる。
ふいに、鈴木が言葉を発した。
「まあ、佐藤さんなら大丈夫じゃない?」
「大丈夫って?」
「バッテン描かれなくて済むと思うよ」
佐藤の動作が止まる。
「何でそんなことがわかるのよ」
「事件の被害者の名前。ざっと最近十人上げれば、紅葉円、城戸悠久、望月未里、平坂仁、葉月香子、草薙まどか、小藤花薫、五十嵐瑞樹、八神飛鳥、最後に吉村知生――共通点は何でしょう」
にやにやする鈴木。佐藤は首を捻った。この男は、自分の知らないことを知っている。いやそれ以前に、今までの事件被害者をこうも簡単にそらんじる……(週刊誌などでは被害者の名前も明かされているものがあった)。
――鈴木ってもしかして天才だったの?
返事に窮す佐藤。鈴木は、目を細めて、今までで最高の、ニヤリ。
「とってもお洒落な名前だってことだよ」
なるほど。そう思ってからしばらくして、佐藤の顔が沸騰した。握った拳がわなわなと震える。
「私の名前だってとってもお洒落よ!」
捨て台詞を残し、佐藤は部屋から出て行った。
「佐藤さん、佐藤さあん……助けてください、僕もうどうしたら……うわあああああ」
「何? どうしたの、吉村!」
「狼に……バツ一狼にやられました……っ」
暗い路地を走る。吉村は、居酒屋のバイトからの帰りだったようだ。通りに面していない、店の裏側での襲撃だった。
ゴミ箱の横でうずくまっていた吉村は、佐藤に気がつくと顔を上げた。急いで彼のそばによる。こういうときほどヒールの靴がうざったく思える瞬間はない。
吉村は佐藤に臆面もなく飛びついた。かなり動揺しているらしい。
「佐藤さああん!」
泣き崩れる彼の、前髪を上げる。
そこには、血塗られたバツ印が浮かび上がっていた。
放課後の校舎では、学生が噂話に花を咲かしていた。
「知ってるか、昨日、狼の被害に遭った男、うちの学校の生徒らしいぜ」
「え、まじい?」
「そうそう、デザイン科の吉村だろ」
「それ知り合いなんだけど! そういや今日見かなかったな」
興味津々に話す彼らの輪を、突き飛ばしていく生徒がいる。学生たちは呆気に取られてその後姿を見送った。
佐藤は怒りの形相をしていた。
バンッと、週刊誌や新聞の束が床に叩きつけられる。
「……何それ」
ベッドに寝転がっていた鈴木が、一瞥してそう言う。佐藤は、邪魔な怪獣たちを払いのけ、自分の座るスペースを作った。
「バツ一狼についての記事が乗ってるやつ。図書館と家の古新聞から集めてきた」
吐き捨てるように続ける。
「絶対に許さないわ、バツ一狼! 私がこの手で尻尾を掴んでやる!」
「べつにそこまで怒らなくても。あの人、死んだわけでもないのに。額にちょっと傷が残るくらいで……」
鈴木は、抑揚のない声を出した。こいつの喋りは本当に無味乾燥だ。人生というものにやる気が感じられない。
佐藤は新聞を鈴木の顔に投げつけた。腹が立つ。どうしてこうも他人の気持ちというものを理解できないのか。
「吉村は友達なの! 可哀想過ぎるじゃない、犯罪に巻き込まれたら、被害者の人権だって暴かれちゃうんだから」
「…………」
反省したのか、空を見つめたまま押し黙る。そして一言。
「俺、佐藤さんが額にバツを書かれても」
静かな語調だ。
「多分何もしない」
「外道っっ!」
もはやこの男には何を言っても無駄だと判断する。鈴木の存在は無視して、雑誌をめくり事件の概要を調べる。
『バツ一狼。人気のない夜道で背後から名前を聞いてくる。基準は不明だが、運が悪いと額に×をナイフで刻まれてしまう。目撃証言によると、犯人は若い男(二十代~三十代前半)で、コートを着込みファー付のフードを被り、それになぜか獣耳が縫い付けてあるので、×一狼という名がついた。サングラスに、マフラーをつけており顔はよくわからない』
この辺りは、佐藤も知っている範疇だ。落胆する。要するに、これ以上のことは誰にもわからないらしい。
吉村の証言を思い出す。
警察より先に、佐藤に電話したのは、そこまで気が回らなかったかららしい。電話帳の一番上に入った名前にかけたのだと言っていた。
佐藤は考える。吉村と鈴木はだいたい同じくらいの身長である。そして、二人より自分は頭半個ほど低い。自分の身長は百六十センチ。吉村より明らかに大きいということは、かなり長身だろう。
それから、吉村は振り向くとき、左に首をひねる癖があるのを佐藤は知っていた。つまり、男は左手にナイフを握っていた。左利きの可能性が高い。
――そういえば、鈴木も左利きね。
どうでもよいことが脳裏をよぎる。
新たにわかった情報は微々たるものだ。
しかし、ここはポジティブ思考の佐藤。めげずに再び雑誌に目を落とす。
「どうしてさあ、不幸は持続的なのに、幸せは刹那的なんだろうね」
前触れもなく鈴木が口を開く。先ほど佐藤が投げた新聞を眺めていた。
「何、急に変なこと言い出すのよ。吉村のこと言ってるの? バカね、あんたは。持続的だったら、それは幸せなことでも不幸に思えちゃうのよ」
「でも、その幸せの後にまた不幸が訪れるとしたら」
新聞を放る。鈴木にしてはやたら饒舌だった。
「残酷、だよな」
口元は笑っていたが、妙に虚無的だった。彼はいつもそんな感じだが、それを初めて強く意識する。
――こいつ、実はニヒリストってやつ?
いくら推し量っても鈴木の脳みそは理解できないので、考えるだけ徒労というものだった。
「……わけわかんないのー。鈴木のくせに」
しばらく、会話が途切れた。佐藤は黙々と事件について調べている。明晰とは言えない頭脳で、それでも懸命に狼を捕まえる糸口を探す。
鈴木は、ベッドに寝転がったまま何もしない。寝ているわけでもないのに、ただ横になっている。ちなみに、彼の横にはやたら大きな猫のぬいぐるみが置いてある。実際は、怪獣の「ゴッドジュニア」の抱き枕だ。見た目は白猫がサングラスをかけているだけだが、鈴木曰く口からプルトニウムを放出するらしい。この怪獣は可愛いので佐藤も気に入っている。誕生日にその抱き枕を自分にも買って欲しいと頼んで断られた経緯があった。
「鈴木、これを見て」
佐藤は、地図を取り出した。鈴木が上半身を持ち上げる。
地名を指で辿りながら説明をする。
「最近五件の事件現場なんだけど。順番に、Y町、H町、R町、S町、それから、吉村の襲われたT町。だんだんと北にずれているわ。ということは」
佐藤の目が猫のように光る。
「次は、M町か、A町か、D町のあたり」
鈴木が、切れ長の目を一度しばたく。
「どうする気?」
「おとりになる」
暫時、流れる無音。
先に目を逸らしたのは鈴木だった。例の無感情な声で、一言。
「物好きだね」
あわよくば鈴木の協力を……とも考えていたが、この様子では期待できない。小さく息を吐き、荷物をまとめる。
ふいに、鈴木が言葉を発した。
「まあ、佐藤さんなら大丈夫じゃない?」
「大丈夫って?」
「バッテン描かれなくて済むと思うよ」
佐藤の動作が止まる。
「何でそんなことがわかるのよ」
「事件の被害者の名前。ざっと最近十人上げれば、紅葉円、城戸悠久、望月未里、平坂仁、葉月香子、草薙まどか、小藤花薫、五十嵐瑞樹、八神飛鳥、最後に吉村知生――共通点は何でしょう」
にやにやする鈴木。佐藤は首を捻った。この男は、自分の知らないことを知っている。いやそれ以前に、今までの事件被害者をこうも簡単にそらんじる……(週刊誌などでは被害者の名前も明かされているものがあった)。
――鈴木ってもしかして天才だったの?
返事に窮す佐藤。鈴木は、目を細めて、今までで最高の、ニヤリ。
「とってもお洒落な名前だってことだよ」
なるほど。そう思ってからしばらくして、佐藤の顔が沸騰した。握った拳がわなわなと震える。
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