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第二章 バツ一狼の噂
バツ一狼の噂(姉の部屋)
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「寒い……」
昼間は暖かくとも、夜もそうとは限らない。こんなことならもっと厚着をしてくるべきだった。シャツの胸元を寄せながら佐藤は後悔した。
駅から家までの距離が途方もなく感じられる。
家の塀までたどり着くと、思わず走り出していた。玄関を思い切り開け、中に駆け込む。
「ただいまーっ」
かかとが引っかかって靴がなかなか脱げない。ヒールと格闘しながら挨拶をするが、返事がない。父はまだ帰ってないだろうが、母は家にいるはずだが……。
と、二階から何やら話し声が聞こえる。話しているというより、一人で喚いているかんじだが。母の声だ。何をしているのか察した佐藤の顔に、陰りが見える。
黙って二階に上がる。手すりの陰から様子を見た。
右側に並ぶ二つの部屋のうち、奥のほうが佐藤の部屋だ。その手前、一つ目の部屋の扉を、母が一心不乱に叩いている。必死の形相で、佐藤が帰ってきたことにも気付いていない様子だ。
「お姉ちゃん、お願い、ここ開けて? ねえ、外に出ようよ、お姉ちゃん!」
「お母さん」
はっとして、こちらに顔を向けた。佐藤は笑顔を作る。
「ただいま」
母も笑い返したが、無理をしているのがひしひしと伝わった。立ち上がり、ごまかすように髪を整えた。
「ああ、りっちゃん……お帰り。ごめんね、気付かなくて。これからご飯作るから」
「うん」
一階に向かう母とすれ違う。部屋に入る前に、先ほどの扉をちらりと見た。どうしようもない想いが胸にこみ上げる。
扉を閉めると、その場に座り込んだ。
――お姉ちゃんが部屋に引き篭もってから、十年が経とうとしていた。
家人のいない時間帯を狙って、風呂とトイレには行っているようだが、後は一歩も部屋から出ていない。ゆえに、佐藤が姉の顔を見たのも十年前が最後となる。
母が何度呼びかけても、反応すらしない。父はもう諦めているようで、姉のことはいないものとして扱っていた。佐藤自身は、心配はしているが、母のように声をかけることができない。佐藤は自覚している。自分が姉のことを避けているのを。それは姉妹としてはとても悲しいことであるのも。
泥水の中に、自分が飲まれていくのがわかる。それはおいで沼のようで、沈みきったら二度と浮上できない気がした。
「……そうだ」
そうだ。このまま沈んではいけない。気分転換しなければ。部屋に一人でいるから、孤独に当てられるのだ。立ち上がり、急いで下に行く。
母は、台所にいた。これから野菜を切ろうとしているところだ。まだ切る前でよかった。佐藤はまな板上の大根を取り、ビニル袋に放り込んだ。母が呆気に取られている。
「お母さん、やっぱり私、ご飯いいや。ダチんとこで作って食べる。野菜とか分けて!」
「あら……」
明確な返事も待たず、ありったけの野菜を抱えて佐藤は家を飛び出した。佐藤宅ではおそらく今夜は野菜料理が作れないだろう。
昼間は暖かくとも、夜もそうとは限らない。こんなことならもっと厚着をしてくるべきだった。シャツの胸元を寄せながら佐藤は後悔した。
駅から家までの距離が途方もなく感じられる。
家の塀までたどり着くと、思わず走り出していた。玄関を思い切り開け、中に駆け込む。
「ただいまーっ」
かかとが引っかかって靴がなかなか脱げない。ヒールと格闘しながら挨拶をするが、返事がない。父はまだ帰ってないだろうが、母は家にいるはずだが……。
と、二階から何やら話し声が聞こえる。話しているというより、一人で喚いているかんじだが。母の声だ。何をしているのか察した佐藤の顔に、陰りが見える。
黙って二階に上がる。手すりの陰から様子を見た。
右側に並ぶ二つの部屋のうち、奥のほうが佐藤の部屋だ。その手前、一つ目の部屋の扉を、母が一心不乱に叩いている。必死の形相で、佐藤が帰ってきたことにも気付いていない様子だ。
「お姉ちゃん、お願い、ここ開けて? ねえ、外に出ようよ、お姉ちゃん!」
「お母さん」
はっとして、こちらに顔を向けた。佐藤は笑顔を作る。
「ただいま」
母も笑い返したが、無理をしているのがひしひしと伝わった。立ち上がり、ごまかすように髪を整えた。
「ああ、りっちゃん……お帰り。ごめんね、気付かなくて。これからご飯作るから」
「うん」
一階に向かう母とすれ違う。部屋に入る前に、先ほどの扉をちらりと見た。どうしようもない想いが胸にこみ上げる。
扉を閉めると、その場に座り込んだ。
――お姉ちゃんが部屋に引き篭もってから、十年が経とうとしていた。
家人のいない時間帯を狙って、風呂とトイレには行っているようだが、後は一歩も部屋から出ていない。ゆえに、佐藤が姉の顔を見たのも十年前が最後となる。
母が何度呼びかけても、反応すらしない。父はもう諦めているようで、姉のことはいないものとして扱っていた。佐藤自身は、心配はしているが、母のように声をかけることができない。佐藤は自覚している。自分が姉のことを避けているのを。それは姉妹としてはとても悲しいことであるのも。
泥水の中に、自分が飲まれていくのがわかる。それはおいで沼のようで、沈みきったら二度と浮上できない気がした。
「……そうだ」
そうだ。このまま沈んではいけない。気分転換しなければ。部屋に一人でいるから、孤独に当てられるのだ。立ち上がり、急いで下に行く。
母は、台所にいた。これから野菜を切ろうとしているところだ。まだ切る前でよかった。佐藤はまな板上の大根を取り、ビニル袋に放り込んだ。母が呆気に取られている。
「お母さん、やっぱり私、ご飯いいや。ダチんとこで作って食べる。野菜とか分けて!」
「あら……」
明確な返事も待たず、ありったけの野菜を抱えて佐藤は家を飛び出した。佐藤宅ではおそらく今夜は野菜料理が作れないだろう。
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