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第一章 東京エリア51
東京エリア51(アパートのかいだん)
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「今日の服飾論、退屈やったねえ」
「本当、足立先生の講義って、眠くて眠くて……」
「きっと口から催眠音波でも出てるんよ」
「私もそう思う」
「パーッと気分転換でもしたいわ。……律子、これから一緒に渋谷のほうに行かん? この前見つけた店なんやけど、モンブランがめっちゃうまくてドリンク飲み放題で」
「あー、ごめん」
それまでスムーズに続いていた会話と歩行が止まった。昼休みであろうサラリーマンがうっとうしそうに歩道をふさぐ二人を避ける。
佐藤律子は、拝むように両手を合わせた。
「今日は駄目なの、私。違う用事があるから。あんまりお金使いたくないし」
「えーっ、だってあんた、バイトの給料入ったって喜んでたじゃん」
「だからさ、使う予定があるから使いたくないわけよ」
友達は眉を寄せる。いかにも不満げな姿だった。
「何や、あたしとおいしいケーキ屋に行く資金に出来んほど大切なものなんか」
「うん、まー、なんと言うか、うん。今度また付き合うからさ、じゃあね!」
佐藤は身を反転させると、駅のホームに消えていった。猫が茂みに身を隠すような、素早い身のこなしだった。
平日の昼間ということもあり、電車内は人が少なかった。座席に腰を落ち着けると、息を吐く。友達には悪いが、佐藤には秘密の用事があった。
イヤホンを耳にはめる。軽快な音楽が流れ出す。向かいの窓から景色を眺める。青絵の具を水に溶いたような晴天が広がっていた。
佐藤律子、二十歳。専門学校の一年生。若干つった大きな目が特徴。軽く脱色した髪をアップに結ぶ。化粧も少し。彩度の高い色シャツに、グレーのショートパンツ。ごく一般的な若者である。趣味はぬいぐるみ集め、ライブ、最近はまっているのはネットで動画鑑賞だ。ちなみに、パソコンは持っていない。
メロディの合間を縫って、車内放送が耳に届く。まどろみかけていた佐藤の意識がはっきりする。次の駅だ。
イヤホンをはずして、ショルダーバッグに押し込む。
下車し、改札口を通過しながら、佐藤は心を痛めた。せっかくの友の誘いを反故にしてしまったのだ。ごまかすような自分の態度に、相手は気分を害さなかっただろうか。でもこれは仕方がないのだ。おいしいケーキ屋になど行ったら、せっかくの小遣いがすべて腹の中に消えてしまうに決まっているのだ。お金は形の残るものに費やしたい。
都心からは外れた住宅街。見かけるのは散歩している老人くらいの、地味な場所だ。ここには佐藤の家もあったが、そこは素通りする。もっと先に、目的地はある。
築四十年は過ぎるだろう、老朽化した四階建てのアパートが現れる。コンクリートの壁にはところどころひびが入り、汚れが目立つ。佐藤が蹴っ飛ばしただけでも崩れ落ちそうな建物だ。
――まったく、よくこんな場所に住んでいるわ。
佐藤は、階段を上りながら苛立ちを覚えた。一段踏むたびに耳障りな金属音が響く。エレベータが設置されていないので、上の階に行くには階段を利用するほかにないのだ。
自分なら、こんな場所には絶対に住めないだろう。一人暮らしをしないでよい境遇に、もっと感謝すべきかもしれない。
ようやく、三階を過ぎた。最上階まであと少しである。階段の踊り場を曲がった時、佐藤はバランスを崩した。足を踏み外したのだ。急な階段とヒールは最悪のコンボだった。
奈落に落ちていくと思ったその時、身体が止まった。
「大丈夫ですか」
声を掛けられて、顔を上げる。見覚えのある茶髪の青年がいた。向こうも気づき、笑顔になる。
「佐藤さんじゃないですか」
同じ学校に通う吉村知生だった。専攻も同じなので、よく話をする。
佐藤の腕をしっかりとつかみ、引っ張り上げてくれた。
「ありがと。ここに住んでるの?」
そう声をかけながら、内心では焦っていた。
ここで知り合いに遭遇するのは予想外であり、あってはならない事態だったのだ。
「はい。佐藤さんは、友達のところですか?」
「まあね」
一緒に階段を上がりながら曖昧に返事をする。正直、相手との関係をどう表現したらよいのかわからない部分があった。付き合いは長い。しかし、「友達」というと違和感を覚えてしまう。
それにしても、吉村がここに住んでいるというのはいささか意外だ。今風で清潔な顔立ちの彼と、ぼろアパートというイメージがかみ合わない。もちろん佐藤の偏見だ。
「四階には僕も含めて二人しか住んでいないから……」
吉村が怪訝な表情をする。
「まさか、鈴木さんのところですか?」
うなずくしかない。吉村の目が見開かれる。冷や汗が滲み、明らかに引き気味なのがわかった。彼の反応は当然とも言えた。佐藤としても、学校の人間には「あれ」との接点を知られたくないのが本音だった。鈴木というのはそういう男なのである。
「あの人、何かすごく変わってますよね。佐藤さんが知り合いだったなんて。しかも家に遊びに……は、もしや」
眉を寄せ、いつになく目付きを険しくする。声のトーンが一オクターブ低くなる。
「付き合っているとか?」
突然の言葉に、佐藤の思考が停止する。数秒のブランク後、慌てて首を振った。
「ちがうちがう、全然そんなんじゃないわよ!」
吉村の目には、まだ疑いの色が見えていた。これは何としてでも否定しきらなければならない。鈴木に対し、恋愛感情というのは想像すらしたことがない。現在の彼女の中では絶対にあり得ない選択だった。
「それに、あいつ、好きなの他にいるし」
付け足したその言葉に、吉村が食いつく。誤解は解けたらしい。
「え、意外ですね。佐藤さん、相手知ってるんすか?」
「高峰天弓」
佐藤の答えた名前に、一瞬無表情になる。
「何かすごい名前ですね」
「あいつの話だと、『大怪獣ガメーバ』のヒロインらしいけど」
「……は?」
吹き出したくなるほど間抜けな顔をする吉村。ちょっと可愛い。ちなみに、同学年だが佐藤の方が一つ年上である。
「まあ、そういう人種だからさ。あいつ」
釈然としない様子の吉村を残し、歩き出す。
「そういう人種」などと曖昧な表現をしたが、佐藤ですら鈴木についてはよくわからないところがある。というより、理解ができない。『大怪獣ガメーバ』についても、巨大亀が空を飛ぶ映画で、ヒロインの高峰天弓を演じる女優が中川忍であることくらいしか知らないのだ。しかも、彼が好きなのは「中川忍」ではなくあくまで「高峰天弓」らしい。
――本当、変なやつだよね。
コンクリートの廊下に足音が響く。鈴木の部屋に近づくに連れて、佐藤はある異変に気がついた。
音が。
奇妙な音が、壁を伝ってくるのだ。まるで地の底から湧き出てくるかのような、低い音。うめき声といったほうが近いだろうか。
オオオオ……ウォオオオオオ……
それは、足を一歩踏み出すごとに、音を増していった。
気味が悪い。それでいて、何か悲しみを秘めた、そんな声。
佐藤は、例の部屋の前で足を止める。
「本当、足立先生の講義って、眠くて眠くて……」
「きっと口から催眠音波でも出てるんよ」
「私もそう思う」
「パーッと気分転換でもしたいわ。……律子、これから一緒に渋谷のほうに行かん? この前見つけた店なんやけど、モンブランがめっちゃうまくてドリンク飲み放題で」
「あー、ごめん」
それまでスムーズに続いていた会話と歩行が止まった。昼休みであろうサラリーマンがうっとうしそうに歩道をふさぐ二人を避ける。
佐藤律子は、拝むように両手を合わせた。
「今日は駄目なの、私。違う用事があるから。あんまりお金使いたくないし」
「えーっ、だってあんた、バイトの給料入ったって喜んでたじゃん」
「だからさ、使う予定があるから使いたくないわけよ」
友達は眉を寄せる。いかにも不満げな姿だった。
「何や、あたしとおいしいケーキ屋に行く資金に出来んほど大切なものなんか」
「うん、まー、なんと言うか、うん。今度また付き合うからさ、じゃあね!」
佐藤は身を反転させると、駅のホームに消えていった。猫が茂みに身を隠すような、素早い身のこなしだった。
平日の昼間ということもあり、電車内は人が少なかった。座席に腰を落ち着けると、息を吐く。友達には悪いが、佐藤には秘密の用事があった。
イヤホンを耳にはめる。軽快な音楽が流れ出す。向かいの窓から景色を眺める。青絵の具を水に溶いたような晴天が広がっていた。
佐藤律子、二十歳。専門学校の一年生。若干つった大きな目が特徴。軽く脱色した髪をアップに結ぶ。化粧も少し。彩度の高い色シャツに、グレーのショートパンツ。ごく一般的な若者である。趣味はぬいぐるみ集め、ライブ、最近はまっているのはネットで動画鑑賞だ。ちなみに、パソコンは持っていない。
メロディの合間を縫って、車内放送が耳に届く。まどろみかけていた佐藤の意識がはっきりする。次の駅だ。
イヤホンをはずして、ショルダーバッグに押し込む。
下車し、改札口を通過しながら、佐藤は心を痛めた。せっかくの友の誘いを反故にしてしまったのだ。ごまかすような自分の態度に、相手は気分を害さなかっただろうか。でもこれは仕方がないのだ。おいしいケーキ屋になど行ったら、せっかくの小遣いがすべて腹の中に消えてしまうに決まっているのだ。お金は形の残るものに費やしたい。
都心からは外れた住宅街。見かけるのは散歩している老人くらいの、地味な場所だ。ここには佐藤の家もあったが、そこは素通りする。もっと先に、目的地はある。
築四十年は過ぎるだろう、老朽化した四階建てのアパートが現れる。コンクリートの壁にはところどころひびが入り、汚れが目立つ。佐藤が蹴っ飛ばしただけでも崩れ落ちそうな建物だ。
――まったく、よくこんな場所に住んでいるわ。
佐藤は、階段を上りながら苛立ちを覚えた。一段踏むたびに耳障りな金属音が響く。エレベータが設置されていないので、上の階に行くには階段を利用するほかにないのだ。
自分なら、こんな場所には絶対に住めないだろう。一人暮らしをしないでよい境遇に、もっと感謝すべきかもしれない。
ようやく、三階を過ぎた。最上階まであと少しである。階段の踊り場を曲がった時、佐藤はバランスを崩した。足を踏み外したのだ。急な階段とヒールは最悪のコンボだった。
奈落に落ちていくと思ったその時、身体が止まった。
「大丈夫ですか」
声を掛けられて、顔を上げる。見覚えのある茶髪の青年がいた。向こうも気づき、笑顔になる。
「佐藤さんじゃないですか」
同じ学校に通う吉村知生だった。専攻も同じなので、よく話をする。
佐藤の腕をしっかりとつかみ、引っ張り上げてくれた。
「ありがと。ここに住んでるの?」
そう声をかけながら、内心では焦っていた。
ここで知り合いに遭遇するのは予想外であり、あってはならない事態だったのだ。
「はい。佐藤さんは、友達のところですか?」
「まあね」
一緒に階段を上がりながら曖昧に返事をする。正直、相手との関係をどう表現したらよいのかわからない部分があった。付き合いは長い。しかし、「友達」というと違和感を覚えてしまう。
それにしても、吉村がここに住んでいるというのはいささか意外だ。今風で清潔な顔立ちの彼と、ぼろアパートというイメージがかみ合わない。もちろん佐藤の偏見だ。
「四階には僕も含めて二人しか住んでいないから……」
吉村が怪訝な表情をする。
「まさか、鈴木さんのところですか?」
うなずくしかない。吉村の目が見開かれる。冷や汗が滲み、明らかに引き気味なのがわかった。彼の反応は当然とも言えた。佐藤としても、学校の人間には「あれ」との接点を知られたくないのが本音だった。鈴木というのはそういう男なのである。
「あの人、何かすごく変わってますよね。佐藤さんが知り合いだったなんて。しかも家に遊びに……は、もしや」
眉を寄せ、いつになく目付きを険しくする。声のトーンが一オクターブ低くなる。
「付き合っているとか?」
突然の言葉に、佐藤の思考が停止する。数秒のブランク後、慌てて首を振った。
「ちがうちがう、全然そんなんじゃないわよ!」
吉村の目には、まだ疑いの色が見えていた。これは何としてでも否定しきらなければならない。鈴木に対し、恋愛感情というのは想像すらしたことがない。現在の彼女の中では絶対にあり得ない選択だった。
「それに、あいつ、好きなの他にいるし」
付け足したその言葉に、吉村が食いつく。誤解は解けたらしい。
「え、意外ですね。佐藤さん、相手知ってるんすか?」
「高峰天弓」
佐藤の答えた名前に、一瞬無表情になる。
「何かすごい名前ですね」
「あいつの話だと、『大怪獣ガメーバ』のヒロインらしいけど」
「……は?」
吹き出したくなるほど間抜けな顔をする吉村。ちょっと可愛い。ちなみに、同学年だが佐藤の方が一つ年上である。
「まあ、そういう人種だからさ。あいつ」
釈然としない様子の吉村を残し、歩き出す。
「そういう人種」などと曖昧な表現をしたが、佐藤ですら鈴木についてはよくわからないところがある。というより、理解ができない。『大怪獣ガメーバ』についても、巨大亀が空を飛ぶ映画で、ヒロインの高峰天弓を演じる女優が中川忍であることくらいしか知らないのだ。しかも、彼が好きなのは「中川忍」ではなくあくまで「高峰天弓」らしい。
――本当、変なやつだよね。
コンクリートの廊下に足音が響く。鈴木の部屋に近づくに連れて、佐藤はある異変に気がついた。
音が。
奇妙な音が、壁を伝ってくるのだ。まるで地の底から湧き出てくるかのような、低い音。うめき声といったほうが近いだろうか。
オオオオ……ウォオオオオオ……
それは、足を一歩踏み出すごとに、音を増していった。
気味が悪い。それでいて、何か悲しみを秘めた、そんな声。
佐藤は、例の部屋の前で足を止める。
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