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プロローグ 未知との遭遇
プロローグ 未知との遭遇(引きこもりの女)
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アスファルトの路面が、朱色から薄紫に変化していく。
毎日繰り返される日没の光景を彼女は眺めていた。その目から、ごく自然に涙がこぼれる。こぼれた涙は頬を伝い、カーテンに染みを作る。布を握る手に力が入り、細い肩が震えた。
薄暗い部屋の中の自分と、黄昏色の世界が交わることは決してない。ガラス窓一枚の隔たりがなんと大きなことか。
彼女は、自分が人間の底辺にいるということを自覚していた。
世間との関わりを失って十年、誰もいない城で一人過ごしてきた。失った――いいや違う。彼女は自ら切ったのだ。自分とその他を結んでいた、すべての糸を。ガラスの壁を作ったのは自分自身だった。
――私は顔面障害者だ。
彼女は、自分が女の底辺にいるということを自覚していた。
背は可愛いというほど低くもないし、格好いいといってもらえるほど高くもない。体型も、運動をしていないから筋力が落ちて腹がたるんでいる。顔は論外。近視のために黒縁の分厚い眼鏡を手放すことはできないし、何よりも肌あれがひどい。ニキビだらけで、他人が見れば衝撃を受けるほどだ。顔に触ると、常に毛穴からおぞましい粘液が吹き出るような感覚に襲われる。髪の毛も綺麗な黒ではなく、焦茶が入っている。そのうえ癖毛だ。
それと比べて妹は。
彼女はカーテンの合間から外を見て、毎日泣いていた。玄関を出て行く妹の姿は、年々綺麗になっていく。元気いっぱいに笑いながら、出かけていく。歩く姿にも生気がみなぎっている。
昔は、お姉ちゃん、お姉ちゃんといいながら自分の後を付いてきていた妹。でも妹の中に自分はもういない。誰からも必要とされない。自分がガラクタ同然に思えて、また泣いた。
「――――」
ふとした拍子に浮き上がる記憶。彼女はおぞましさに身震いした。
高校一年生の時の話だ。自分も子供だったし、相手も子供だった。しかし、だからといって相手を許すことはできない。友達の心無い仕打ちが自分の人生をめちゃくちゃにしたのだ。
友達の放ったある言葉に、彼女は教室を飛び出した。
夕方になって、家まで謝りに来た。あれはただほんの少しからかっただけで、決して悪意はなかったのだと。まさかそこまで気にするとは思わなかったと。
――嘘だ。
みんな、自分のことをずっと見下していたんだ。蔑んでいたんだ。
それがふとした瞬間に露呈したのだ。謝りに来たのは本心ではない、学校での言葉こそが本心だ。
部屋に篭り、断固無視することを決めた。正直に言えば、顔を合わせることが怖かった。無断早退したのだから、騒ぎになっただろう。そのことで友達は担任にとがめられたのではないだろうか。そうに違いない。表面上は謝罪に来ているが、内心では怒っている。蔑んでいる。そうに違いない。そんな友達に会うのは、誰だって怖い。
窓から外を見ていると、友達が帰っていく姿が目に入る。
――あんなに仲がよかったのにな。
悲しみとも悔しさとも取れない感情が渦を巻いた。唇を強くかみ締める。
次の日も、その次の日も、友達は家に来た。会えないとわかると、電話もかけてきた。メールも送られてきた。しかし、そのすべてを彼女は拒絶した。三ヶ月も過ぎれば、そんな日々も終わり、待っていたのは孤独だけ。以来十年、誰からの連絡もありはしない。同級生の中での彼女はすでに過去の人だった。
家族の言葉にも反応をせず、十年間に渡り誰とも口を利いていない。もう、喋り方すら覚えているのか怪しいものだった。働きもせず、両親に養ってもらっているだけの、世間のお荷物。申し訳ないとは本心から思っている。
だからといって、外に出るような勇気はない。
つくづく駄目人間。
じわりと滲む視界の端に、動くものが入った。それに気付き、彼女は涙をぬぐう。
――やっぱり。今日も来た。
うっとうしい前髪を掻き分け、男を凝視する。肩ほどにかかる黒い髪。歳は若い。多く見積もっても三十はいかないだろう。数日前から現れ、家を観察している男の存在は、彼女に心境の変化をもたらしていた。
夕暮れの中で静かに佇み、我が家を見ている。ちょうど、彼女の部屋から覗くことのできる位置。男は、彼女の視線には気がついていない様子だった。
常識で考えれば、怪しいことこの上ない。何が目的なのかもわからない。しかし、そんなことはどうでもよかった。
下の部屋から、妹の笑い声が聞こえる。テレビでも見ているのだろうか。
男のすぐ後ろを、買い物帰りの主婦たちが通り過ぎる。
その時、ふっと、男が笑った。煙草を吐き捨て、足で踏み消す――丁寧なことにすぐ拾っていた――背を向けると、夕闇の中を歩き出した。その直前に、唇が動いたように思う。しかし、どんな独り言だったのかは、彼女にはおよそ察しがつかない。
彼女の視界から、男の姿が消失した。魔法でもかけられたように止まっていた彼女の時が、再び動き出した。
太陽は完璧に没し、辺りはスモークブルーに包まれていた。
分厚いレンズに阻まれた瞳が、数年ぶりに輝いている。
「……あの人、格好いい……」
彼女は無意識に呟いていた。
毎日繰り返される日没の光景を彼女は眺めていた。その目から、ごく自然に涙がこぼれる。こぼれた涙は頬を伝い、カーテンに染みを作る。布を握る手に力が入り、細い肩が震えた。
薄暗い部屋の中の自分と、黄昏色の世界が交わることは決してない。ガラス窓一枚の隔たりがなんと大きなことか。
彼女は、自分が人間の底辺にいるということを自覚していた。
世間との関わりを失って十年、誰もいない城で一人過ごしてきた。失った――いいや違う。彼女は自ら切ったのだ。自分とその他を結んでいた、すべての糸を。ガラスの壁を作ったのは自分自身だった。
――私は顔面障害者だ。
彼女は、自分が女の底辺にいるということを自覚していた。
背は可愛いというほど低くもないし、格好いいといってもらえるほど高くもない。体型も、運動をしていないから筋力が落ちて腹がたるんでいる。顔は論外。近視のために黒縁の分厚い眼鏡を手放すことはできないし、何よりも肌あれがひどい。ニキビだらけで、他人が見れば衝撃を受けるほどだ。顔に触ると、常に毛穴からおぞましい粘液が吹き出るような感覚に襲われる。髪の毛も綺麗な黒ではなく、焦茶が入っている。そのうえ癖毛だ。
それと比べて妹は。
彼女はカーテンの合間から外を見て、毎日泣いていた。玄関を出て行く妹の姿は、年々綺麗になっていく。元気いっぱいに笑いながら、出かけていく。歩く姿にも生気がみなぎっている。
昔は、お姉ちゃん、お姉ちゃんといいながら自分の後を付いてきていた妹。でも妹の中に自分はもういない。誰からも必要とされない。自分がガラクタ同然に思えて、また泣いた。
「――――」
ふとした拍子に浮き上がる記憶。彼女はおぞましさに身震いした。
高校一年生の時の話だ。自分も子供だったし、相手も子供だった。しかし、だからといって相手を許すことはできない。友達の心無い仕打ちが自分の人生をめちゃくちゃにしたのだ。
友達の放ったある言葉に、彼女は教室を飛び出した。
夕方になって、家まで謝りに来た。あれはただほんの少しからかっただけで、決して悪意はなかったのだと。まさかそこまで気にするとは思わなかったと。
――嘘だ。
みんな、自分のことをずっと見下していたんだ。蔑んでいたんだ。
それがふとした瞬間に露呈したのだ。謝りに来たのは本心ではない、学校での言葉こそが本心だ。
部屋に篭り、断固無視することを決めた。正直に言えば、顔を合わせることが怖かった。無断早退したのだから、騒ぎになっただろう。そのことで友達は担任にとがめられたのではないだろうか。そうに違いない。表面上は謝罪に来ているが、内心では怒っている。蔑んでいる。そうに違いない。そんな友達に会うのは、誰だって怖い。
窓から外を見ていると、友達が帰っていく姿が目に入る。
――あんなに仲がよかったのにな。
悲しみとも悔しさとも取れない感情が渦を巻いた。唇を強くかみ締める。
次の日も、その次の日も、友達は家に来た。会えないとわかると、電話もかけてきた。メールも送られてきた。しかし、そのすべてを彼女は拒絶した。三ヶ月も過ぎれば、そんな日々も終わり、待っていたのは孤独だけ。以来十年、誰からの連絡もありはしない。同級生の中での彼女はすでに過去の人だった。
家族の言葉にも反応をせず、十年間に渡り誰とも口を利いていない。もう、喋り方すら覚えているのか怪しいものだった。働きもせず、両親に養ってもらっているだけの、世間のお荷物。申し訳ないとは本心から思っている。
だからといって、外に出るような勇気はない。
つくづく駄目人間。
じわりと滲む視界の端に、動くものが入った。それに気付き、彼女は涙をぬぐう。
――やっぱり。今日も来た。
うっとうしい前髪を掻き分け、男を凝視する。肩ほどにかかる黒い髪。歳は若い。多く見積もっても三十はいかないだろう。数日前から現れ、家を観察している男の存在は、彼女に心境の変化をもたらしていた。
夕暮れの中で静かに佇み、我が家を見ている。ちょうど、彼女の部屋から覗くことのできる位置。男は、彼女の視線には気がついていない様子だった。
常識で考えれば、怪しいことこの上ない。何が目的なのかもわからない。しかし、そんなことはどうでもよかった。
下の部屋から、妹の笑い声が聞こえる。テレビでも見ているのだろうか。
男のすぐ後ろを、買い物帰りの主婦たちが通り過ぎる。
その時、ふっと、男が笑った。煙草を吐き捨て、足で踏み消す――丁寧なことにすぐ拾っていた――背を向けると、夕闇の中を歩き出した。その直前に、唇が動いたように思う。しかし、どんな独り言だったのかは、彼女にはおよそ察しがつかない。
彼女の視界から、男の姿が消失した。魔法でもかけられたように止まっていた彼女の時が、再び動き出した。
太陽は完璧に没し、辺りはスモークブルーに包まれていた。
分厚いレンズに阻まれた瞳が、数年ぶりに輝いている。
「……あの人、格好いい……」
彼女は無意識に呟いていた。
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