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『闇舞台』
其の六
しおりを挟む「俺だ、澪! ここを開けてくれ!」
「いけません! お帰りください!」
「開けるんだ、澪! 扉を打ち壊すぞ!」
「やめて! 大声を出さないで!」
南方増長区地蔵門町、八生宿。大通りに面した二階建て長屋の一隅で、四更深夜の静寂を破る男の怒声が響き渡った。戸口で押し問答を続けた女も、ついに観念して扉を開けた。
三十なかばの大男は、すかさず戸口から長屋の土間へ押し入って来た。彼は【劫族】で、扇呉服屋の主人《槙征》という。色黒精悍な体格をつつむ練絹の襖は、雨雪で湿っていた。
「澪! 何故だ! 何故、俺をこばむのだ! お前の気持ちは、判っているんだぞ! 俺はいつだって、あんな女房も、家業も、捨てる覚悟で……」
「駄目! それ以上、云わないでください!」
男より若い三十前後の女は、男の言葉をさえぎり、瞳をうるませ、必死に哀願した。
「お願いです、旦那さま! もうここへは、来ないでくださいまし! 女将さんに、申しわけが立ちません! 私のことは、忘れてください!」
《澪》と呼ばれた女は、劫族と檀族の混血で、仄かな白檀香を放ち、美人ではないが愛らしい童顔をしていた。
長衣寝巻に更紗織の比甲を合わせ、細い体を小刻みに震わせていた。
「澪……お前という奴は、昔からそうだったな。あいつが現れて、俺の親父に、あることないこと注進して、お前との仲を割いてしまった時も、そうだった。お前は、恨み言ひとつ云わずに、店から姿を消そうとした。俺が、駆け落ちしてくれと頼んでも、頑固親父と、あいつに気を使って、お前はこばみ通したな。しかし、俺の気持ちはどうなるんだ? 俺はこの十数年、底意地の悪い女房に、堪えて来た! お前を、世間が云うような悪者にだけは、したくなかったからだ! けれど俺の我慢は、もう限界なんだよ……俺は今度こそ、なにもかも捨てる! そして、お前と一緒に人生をやりなおすんだ!」
澪は槙征の勢いに気圧され、奥の寝室まで、なだれこんでしまった。
質素な六帖間には、彼女の寝具が、敷きっ放しになっている。
槙征は、そこへ澪を座らせ、働き詰めでひびだらけの華奢な手をにぎると、慈しむように頬ずりした。澪は胸を打たれ、感泪にむせんでいる。
「旦那さま……」
「そんな他人行儀な呼び方、やめてくれよ。お前はもう侍女じゃないし、俺も呉服屋主人じゃないんだ」と、槙征は微笑んだが、すぐに表情をくもらせ、自嘲気味につぶやいた。
「哈哈……女房ばかりを責められはしないな。元はといえば、俺に甲斐性がなかったせいだ。親父に逆らう度胸もなかった。その結果、お前一人に苦労を背負わせてしまった……どうか俺を許して欲しい! 愛してるんだ、澪!」
槙征は、澪の細身をきつく抱きしめた。障子の外、小さな庭に雪花の影が舞う。
元々恋仲だった二人。
現在、大店を取り仕切る女将の方が、あとから割りこんで来たのだ。
「うれしゅうございます……でも、やはり、こんなことは許されません。女将さんや、亡くなった大旦那さまに、顔向けできません。どうか、ここへ来るのは、これっきりにしてください。私は、槙征さまの優しいお心づかいだけで、充分幸せなのです」
澪は、槙征の胸に顔をうずめ、ひとしきり泣いた。槙征の唇を避け、愛する男への思慕を自ら断ち切らんと、力強い腕の中で懸命にもがいた。
その時である。
障子の向こうに揺らぎ立つ、八尺近い異形の影が、槙征と澪を激震させた。
『哈哈哈……愉快、愉快。とんだ茶番劇』
人間離れした巨影は、二重に響く不気味な獣声で、相愛男女の愁嘆場を嗤ったのだ。
「だ、誰だ! そこにいるのは、何者だ!」
咄嗟に澪をかばい、怒声を発する槙征へ、怪しい巨影は、高らかな嘲笑を浴びせた。
『槙征、澪、不貞は重罪だぞ。一命をもって償うか、心中してでも邪まな愛をつらぬくか』
次の瞬間、障子紙が一挙に吹き飛び、粉雪が勢いよく舞いこんで来た。
白い嵐に視界を奪われ、倉皇する二人……ようやく目を開けた時、木枠だけ残った障子戸に、凶悪獰猛な鬼畜の姿態を見て取り、槙征と澪は凍りついた。
「啊っ……!」
黒光る獣毛におおわれた、身の丈八尺の怪物である。
鋭利な四本角、爬虫類を思わせる尻尾、虎より危険をあおる四肢、黄金の凶眼を殺意にギラつかせ、長い舌をダラリと垂らす豺狼口、圧倒的な鬼業禍力が、二人の胆を潰す。
槙征と澪は、戦慄のあまり絶句。身を寄せ合い、震え上がった。足がすくんで動けない。
『吾の名は《嬲夜叉》……槙征、お前の女房に召喚された、冥界八虐衆の一鬼だ。女房殿は、不義者いずれかの首を取って来いと、強く所望しておる……さて、どちらがよい物か』
めりめりと木枠を踏み破り、ついに寝室へ踏みこんだ鬼畜は、顔面蒼白の槙征と澪を順繰りに睨めつけた。死の宣告に心えぐられ、二人は声を出せず、生きた心地もしなかった。
『答えよ。一方を差し出せば、一方は助かる』
鬼畜の言葉に、槙征は衝撃を受けた。
まさか嫉妬に狂った女房が、天理にそむいて、こんな重罪まで犯すとは……だが、あの女ならやりかねん。槙征の胸中では、なんの罪もない澪をも逆恨みする、非道な女房への憤激が芽生え始めていた。
一方で澪は、女将に対して憐憫の情さえ覚えていた。罪は私にある。
澪は、乱れた鼓動を鎮め、瞳を閉じた。
「……わ、私の……びを……それで、女将さんの、気が……すむのでしたら……ど、どうぞ、この首……お、お持ちくださいませ……」
澪は、槙征から離れ、鬼畜に向かって端座した。
ワナワナと震え、瞳は閉じたままだが、青ざめた顔に、悲壮な決意が潔く浮かんでいた。
「ば、莫迦を云うな、澪! お前一人を死なせるものか! すべての罪は俺にある! 殺すなら俺を殺せ、化け物め! そしてあの強欲女房に、この首、見せつけてやるがいい!」
槙征は、澪の健気な捨身行為に激しく心揺さぶられ、鬼畜への恐怖を忘れた。
澪の前に巨体を晒し、己が命を投げ出す覚悟を決めた。
「槙征さま……ならば、いっそのこと二人一緒に殺してください! たとえ不義者と罵られても、女将さんを傷つける結果となっても、このかたと死ねるなら……澪は本望です!」
澪は号泣し、槙征の広い背中にすがりついた。
『さてと……困ったな』
何故か鬼畜は、二人の様子に困惑している。瞑目する二人に、襲いかかる気配がない。
鬼畜の背後で、不可解な拍子木が打ち鳴らされたのは、その時だった。
驚愕して目を開けた槙征と澪に、ため息まじりの男声がうそぶく。
「あ~あ。気恥ずかしくて見てられねぇや。そんなに惚れてるなら、女房なんぞに気を使わず、さっさと駆け落ちしちまえよ、お二人さん。あと始末は、つけといてやるからさぁ」
ニヤリと嗤って、鬼畜が次の間へ捌けると、粉雪舞い散る庭先に、異様な風体の男が佇んでいた。黒い蓬髪、継半纏、左半身が爛れた悪相に、色ちがいの琥珀眼を持す若い男だ。
しかも彼の左袖から伸びた、不気味な枯枝状の触手は、降り積もった雪の上に、真っ赤な血だまりを作っていた。
遺骸は、人間でない。赤黒だんだら模様、巻角に一眼を持す邪悪な化け物で、すでに巨躯の半分以上を、沸々と溶解させていた。
「あ、あんたは、一体……何者なんだ!?」
強張った顔で、恐々と訊ねる槙征。
悪相男は、触手を瞬時に左袖へ納め、足元で完全消滅した【嬲夜叉】の痕跡を雪でもみ消しつつ、悠々煙管を吹かして、曖昧な返答をした。
「知らぬが仏というだろ? そいつを聞いたら本当に生きてられねぇぜ、お二人さん。ま、俺たちぁこれで退散するからよぅ。仲よく濡場を続けてくんな。どうも、邪魔したねぇ」
悪相男は、煙管の雁首を板塀に打ちつけて、例の鬼畜を呼び寄せた。
男がその背にまたがるや、鬼畜は瞬く間に、庭先から飛び去ったのだ。
呆気に取られ、怪士どもを見送った槙征と澪は、しばし放心状態……やがて、しかと抱き合った二人は、互いの無事と真心を知り、あらためて歓喜した。
澪も、もう遠慮はしなかった。
「あのかたたち……きっと、私たちを試したのね」
「ああ……だがお陰で、お前の気持ちを確かめることができた。幾分、寿命は縮んだがね、感謝したいくらいだよ……しかし、何者だろう。それに、あの怪物は……」
二人寄りそってながめる冬景色。
不思議と寒さも感じなかった。恐怖も吹き飛んでいた。そして庭の赤黒いシミを、降り注ぐ雪がおおい消して往くさまを、澪と槙征は、ぼんやり見つめ続けた。
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