鬼凪座暗躍記

緑青あい

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『闇舞台』

其の五

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 西方広目区大日門せいほうこうもくくだいにちもんは、国家の中枢機関【劫初内ごうしょだい】を堅守する、内堀四門町のひとつだ。
 神奴宿かみやつこじゅく沿いの御堀『閼伽凪川あかなぎがわ』に架かる白虎大橋は、三更さんこうの鐘と同時に、橋守はしもり詰番所の木戸と跳ね橋が閉ざされ、通行が遮断される。
 国政心臓部を警護するための、厳しい検問所である。
 時刻は深夜、橋守も眠りにつく四更しこう。そんな白虎大橋、三町ほどの距離を、人目を忍んで足早に、通り過ぎようとする孤影があった。
 高くそびえ立つ城壁の大門は、とっくに閉鎖され、時折、内舎人哨戒番うどねりしょうかいばん龕灯がんどうが照らすのみ。斯様な夜分、どこから出て来たのか怪士あやかしは、橋の中頃で黒衣を脱ぎ、御堀川へ遺棄すると、下に着こんだ紺地長袍ちょうほう元結髷もとゆいまげを整え、なに食わぬ顔で橋守詰番所に近づいた。
 青白い水明月すいめいづきが写すのは、上品な【劫貴族こうきぞく官吏かんり風青年の、怜悧れいりな横顔である。
 歳は三十前だろう。腰帯には、五連の玉飾りが揺れている。【劫初内】への通行手形で、身分証の役割も果たす『玉佩五条ぎょくはいごじょう』だ。通常ならこれを橋守に示せば、劫初内への出入可能だが、四更過ぎではいかに急用といえども、疑念の目をまぬがれない。
 男は、慎重に番所の中をのぞきこみ、橋守三人が熟睡しているのを確認。好都合とばかり、自慢の脚力で、門扉を飛び越えようと図った。後退し、助走をつけた、その時である。
「待て! 貴殿の顔には、死相が出ておる!」
 突然、背後から大音声を浴びせられ、男は立ちすくんだ。
 慌てて振り返ると、大橋欄干にもたれ、薄汚い物乞い坊主が念仏を唱えていた。
 男は番所を気にしつつ、物乞い坊主へと忍び寄る。脅威を押し殺し、小声で威喝した。
〈だ、誰だ! 貴様は……何者だ!?〉
「そんなに声をひそめんでもよいぞ。橋守には、眠酒を呑ませておいたからのう。ちょっとやそっとの物音では、内舎人も、哨戒番とて気づくまい」
 天蓋てんがいで素顔を隠した直綴姿じきとつすがた明暗雙々みょうあんそうそう偈箱げばこ、腰帯に差した尺八……姿形こそ虚無僧だが、全身からにじみ出る妖気は、尋常でない。
「橋守に眠酒を呑ませただと? どういうつもりだ、貴様! 一体、なにが狙いなんだ!」
 懐から短刀を抜き、奇怪な虚無僧と対決姿勢を見せる男に、当の僧侶は呵々大笑かかたいしょうした。
わしに切っ先を向けるのは、とんだお門ちがいじゃぞ? 先も云ったが、貴殿の顔に死相が出ておるゆえ、忠告してやろうと思ったまでじゃ。なにせ、六官巡察使ろくかんじゅんさつしの探索方密偵として、不正を糺す職席上、政敵は多かろう。夙諒醒しゅくりょうせい君」
《夙諒醒》は、ハッと瞠目どうもくして、虚無僧から飛び退いた。
 六官の素性や身分を、看破かんぱされるような失態は、一度も演じていないはずだった。
「誰に頼まれた……云わねば、殺す!」
 短刀をかまえなおし、正体不明の怪士と対峙する諒醒。そこはさすがに六官。場合によっては、暗殺も行う非情な職務ゆえ、日頃の厳しい鍛錬が、鋭敏な動作に現れている。
 ところが虚無僧は、諒醒の敵愾心に対し、戦意ではなく、かたわらの偈箱を差し出したのだ。いや、普通の偈箱より、大きさも厚みもたっぷりした、正方形である。
「開けて見れば判る……が、まずは邪魔者を片づけてからにしよう。手強い敵役じゃぞ」
 唐突に、天蓋を外した虚無僧は、頭頂部から鋭い一角を突き出す、【巫丁族かんなぎひのとぞく】だった。
 わけが判らず切っ先を向けたまま、うろたえる諒醒。
 だが、破戒僧の炯々けいけいたる視線を追い、背後を見やった彼は、腰が抜けるほど驚倒した。
 大橋反対側の欄干に、赤黒だんだら模様の巨獣が座り、禍々しい一眼を殺気で爛々と煌めかせながら、諒醒を睨んでいたのだ。身の丈六尺強、針状のたてがみに、彎曲わんきょくした巻角、血生臭い呼気を吐く四足歩行の怪物は、まさに獰猛醜悪どうもうしゅうあくな鬼畜である。
「そ、そんな……お、おっ、鬼だっ……!」
莫迦者ばかもの! く、退がらんか!」
 強張って動けぬ諒醒を叱咤し、前に躍り出た破戒僧が、鬼畜の凄まじい突貫攻撃を、十文字槍じゅうもんじやりではじき返した。
 鬼畜は身をひるがえし、橋の板上に深い爪跡を残す。
 鬼畜は再び宙を舞い、同じ攻撃を繰り返した。俊敏さが増している。
 破戒僧は紙一重でかわすも、三度目の攻撃で直綴の袂を裂かれてしまった。
 諒醒も思わず息を呑む。しかし破戒僧はまったく動じず、腰帯の瓢箪ひょうたんから酒を一口あおると、四度目の攻撃を仕掛けて来た鬼畜の凶相へ、吐き散らした。
 すると酒の雫は、深紅の米粒状に変化し、弾丸の如く、鬼畜の顔面を撃ち抜いたのだ。
 一眼を潰された鬼畜は、もんどり打って七転八倒。
 全身血まみれで、なおも牙むく鬼畜に近づいた破戒僧は、十文字槍でとどめを刺した。
『ヴギャアアァオオォォォウウゥゥゥウッ!』
 鬼畜は、鼓膜が破けるような断末魔の咆哮を放つと、徐々に巨体を溶解させ始めた。
 橋の上に赤黒いシミと、胸が悪くなるような瘴気だけ残して、殺手さって使鬼【嬲夜叉うわなりやしゃ】の片割れは、泥梨ないりへ送り還されたのだ。
 諒醒は呆然自失。八間ほど離れたところにくずおれ、凍りついていた。
「さて、今の騒音では、内舎人が駆け出して来るのも時間の問題じゃろう。儂は往くぞ」
 巫族破戒僧は、即座に荷物をまとめると、慌しく大橋欄干をまたぐ。
 ようやく人心地ついた諒醒は、声を震わせ、破戒僧の背中へ呼びかけた。
「ま、待ってくれ! あんた何故、私を助けたのだ!? もしや、あそこにまつわる……」
 横目で、劫初内の堅固な城壁を見やる諒醒の疑念に、破戒僧は笑って振り向き返答した。
「安心せい。貴殿がただ今調査中の、十二守宮太保じゅうにすくたいほうの件とは、まったくもって無関係。答えなら、その偈箱の中にあるぞ。置き土産じゃ。貴殿も早々に引き上げられよ」
 そう云い残すと破戒僧は、欄干からはるか下方の御堀川へと、身を投じたのだ。
 濁った水中は、忍び返しの鉄柵で一杯だ。吃驚びっくりして橋の下をのぞきこんだ諒醒は、猪牙船ちょきぶねに乗りうつった破戒僧が、悠々手を振り、流れ去るさまを見た。
 喝食姿かっしきすがたの船頭も、多分仲間なのだろう。
「な、なんて奴らだ……人間業じゃない!」
 橋の上に残る赤黒いシミと、猪牙船を見比べ、恐々つぶやく諒醒。
 途端に、劫初内正門を押し上げる軋音あつおんが響いて、諒醒はギョッとした。
 内舎人哨戒番が、龕灯と捕縛武具を手に手に、足音高く駆けて来る。かなりの大人数だ。
 諒醒も、破戒僧の置き土産、奇妙な偈箱をかかえると、橋守門扉を飛び越えて遁走した。
 やがて、安全圏まで逃げきった諒醒は、川沿いの漁師小屋に身を隠し、いよいよ問題の偈箱を開封した。
 なんと中から現れたのは、おぞましい男の生首だった。諒醒は震撼した。
「これは……西方治安部隊の、しゅう司令官!」
 諒醒には、この生首に見覚えがあった。
 判官所役人の汚職を調査中、情報源として利用するため、巧妙に取り入り、篭絡した男。
 吟味方ぎんみがた筆頭《脩太鑑しゅうたいかん》に、まちがいなかった。六官の捕縛方『隋申忠隊ずいしんちゅうたい』が踏みこんだ際、唯一捕り逃がした、賞金首のお尋ね者である。
 脩太鑑の怨嗟に満ちた生首を見つめ、諒醒は大方の事情を察知した。昨今ちまた跋扈ばっこする鬼騒動に便乗して、殺手使鬼を送りこんだのは、脩太鑑なのだ。
 あるいは、逃走資金で鬼道術師きどうじゅつしでも雇ったのだろう。
 事実、脩太鑑は己を失脚に追いこんだ、六官諒醒を恨んでいた。
 それでも、大きな謎がひとつ残る。
「あの破戒僧……何故、私を……?」
 諒醒は当惑しながらも、非業の死をとげた脩太鑑へ黙祷。
 憐れな罪人首を、偈箱に納めた。
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