鬼凪座暗躍記

緑青あい

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『食女鬼・後編』

其の四

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 同刻、【食女鬼うかめおに騒動】が巻き起こった菊花殿から、南西へ一里ほど離れた『権妻殿ごんさいでん』では、粛々と仮初かりそめ合巹ごうきん(結婚)儀式が執り行われていた。緋色の襦裙じゅくんに、被衣かずきをまとった花嫁は、いよいよ皇帝陛下が待つ寝殿、蓮華帳台れんげちょうだいへと登るのだ。
 介添えの童巫女わらわみこに伴われ、十二階段を進み、伽羅香きゃらこう立ちこめる御簾みすの前で、かしずいた娘。寸刻後、「入れ」と、男声が呼びかけた。
 明衣あかはで身をつつんだ今宵の伽相手は、皇帝寵妃《かえでかた》であるはず……三間四方の帳台は、白絹に金糸の鳳凰紋ほうおうもん、宝玉を縫い留めた碧瑠璃へきるりの天幕、紅珊瑚べにさんごに似た、甘いかや造りの寝台、雲脚卓子くもあしたくし紫煙しえんをくゆらす青磁香炉、風雅な雪洞ぼんぼり四基……と、通常の帳台よりも、広々とした空間で、細部に到るまで贅を尽くしている。
 その大きな寝台へ腰かけ、酒瓶をかたむける男こそ《千歳帝せんざいてい阿沙陀あしゃだ》その人であった。
 練絹大衫ねりぎぬだいさんを緋色の飾帯でくくり、元結髷もとゆいまげこうがいも豪奢な金細工。すでに深履ふかぐつは脱ぎ、裾子くんずははかず、足を崩している。
 それでも上品な相貌や、優美な所作は、やはり高貴な血筋のためだろうか。五十なかばの壮年だが、生々しい油気はなく、ほっそりした白面はくめんは、往年の美青年を彷彿させる。
 帝は、明衣姿の楓に目を細め、莞爾かんじと微笑んだ。
 鷹揚おうようで、童心の残る笑顔だ。
「楓、体の具合は如何どうだね? 鬼難きなんをこうむり臥せっていたらしいが、霊験あらたかな修験者の祈祷で、ようやく緩解かんかいしたそうな。心底、安堵したぞ」
 帝は、楓を手招き、朱杯に御神酒を注ぐ。
「まずは、そなたの回復を祝って、乾杯じゃ」
 帝は、いつもとちがい、他人行儀な楓を強引に抱き寄せると、緋色の被衣を取った。
ああっ……そなた!」
 露になった素顔は無論、楓ではない。
 彼女の新入り『妹々めいめい紅葉もみじ……いや、《阿礼雛あれびな》である。
 千歳帝は一瞬面食らったが、楓をもはるかにしのぐ、神々しいまでの美貌に呆然。
 清純な乙女の麗姿に陶酔、しばし見惚れた。
「失礼仕りました。私の名は《紅葉》と申します。上役『楓姐々じえじえ』が、体調不良で伽の相手まかりなりませぬゆえ、僭越ながら私が代参致しました次第……どうぞお許しください」
 健気にうるんだ眼差しで千歳帝を仰ぎ見る美少女は、あらがいがたい魅力と蠱惑をそなえていた。薄絹の合間からこぼれる白肌の瑞々しさが、得も云われぬ色香を漂わせている。
「楓の妹々、紅葉と申すか? しかし、そなたに伽役を代参させるなぞ……楓の病状はそれほど、悪いのかね?」と、優しく問いかける帝に対し、紅葉は深刻な表情でうなずいた。
「姐々はかなり憔悴し、お体も弱っておられます。もう、夜伽のお勤めは、叶わぬでしょう……ですから、どうか上さま! 是非とも楓さまに、宿下がりをお許しくださりませ!」
 紅葉は突如、敷布の上へ額づき、懇願した。帝は、困惑した表情で、思わずうなった。
「楓を市井しせいへ戻せと云うのか? それはできぬ相談じゃ。ちんは後宮四花殿すべての妾妃が内、アレを殊更、慈しんでおる。他の女御にょうごならとにかく、楓を手放すことなど考えられん」
 温和だが、強硬な芯を秘めた返答だった。
「けれど、このままでは……楓さまは鬼業きごうに喰われ、いずれ落命することとなりましょう」
 執拗に食い下がる紅葉の態度に、気分を害した千歳帝は、形のよい眉宇をひそめた。
「ひかえよ、紅葉! 楓の身なら、朕がいかようにも守る! 〝鬼憑き〟の兆候が現れた時とて、朕はアレを見捨てなかったぞ! 神祇府じんぎふには、高名な鬼道術師きどうじゅつしもいる! 典薬廟には、有能な奥医師もいる! 市井に戻ったところで、なんになる! 楓自身のためにも、劫初内ごうしょだい斎宮いつきのみや】の……朕の手元に留まる方が、終生安泰なのじゃ!」
 千歳帝は、腹立ちまぎれに酒盃を投げ、紅葉の襦裙を、酷く乱暴にむしり取った。
 元来、夜伽で用いる仮初の明衣は、容易に着脱できるよう、仕立てられている。
 紅葉はたちまち、艶めかしい素肌を寝台へと突き転がされ、ワナワナと震え出した。
 雪洞の灯火が、乙女の裸体を、蜉蝣かげろうの如く、浮かび上がらせる。
 触れれば、もろくも壊れてしまいそうな、紅葉の四肢であった。
「お願いです、上さま……私の身はどうなってもかまいません。ですから、どうか楓さまを、後宮という鳥篭から自由にしてやってください……紅葉、一生のお願いでございます」
 大衫を脱ぎかけ、帝はため息をついた。美少女が捨て身で哀訴するさまは、憐憫を誘う。
 だが千歳帝とて、一介の侍女の泣き言にほだされ、大切な寵妃を手放すつもりなどない。
「困った奴よのう、紅葉……それほど、楓が好きか? だが、その気持ちは朕とて同じぞ?」
 儚げな美少女の細身を、やわらかく抱きしめる千歳帝……異変が生じたのは、その時だ。
『困った莫迦ばかは、お前だ……千歳帝』
 地の底から湧き出るような、禍々しい獣声じゅうせいが二重に響き、帳台全体へ反響した。
 ピリピリと空気を震わせて、凶悪な殺意が充満する。
「だっ、誰だ!? 今の声は……まさか!」
 室内には、二人だけ。
 そして獰猛どうもう鬼哭きこくは、確かに寝台へうつ伏せる、美少女の体から放たれたのだ。
 千歳帝は、恐々と手を放す。
 途端に、四隅の雪洞が一斉に消え、帳台を深奥な闇がつつんだ。
 オロオロとうろたえ、逃げ場をもとめる千歳帝は、なにかにつまづき転倒した。
 代わり、寝台から起き上がった紅葉は、ユラユラと不気味な影をうごめかし、雪白の渾身から、凄まじい勢いで、黒光る触手を伸ばした。
 あっと云う間に、美少女の艶やかな裸体は、おぞましい獣毛でおおい尽くされる。
 小柄な細身も膨張し、およそ八尺強、天幕をも突き破る。
「あぁあ……ひぃぃいっ! 誰かぁぁあっ!」
 巨影を見上げ、尻で這い退き、恐慌を来たした千歳帝。必死の形相で、悲鳴をしぼり出したが……最早、完全なる鬼畜へ変態をとげた《紅葉》は、容赦なく彼に襲いかかった。
 四肢を押さえ、顎をつかんで、炯々けいけいと瞬く黄金の飛出眼とびでがんで、憐れな壮年男に堪えがたい恐怖心を植えつける。尊い血筋も、鬼業の脅威を間近で受けては、顔面蒼白……寿命が縮む。
『とくと聞け……楓はすでにわれが鬼業を授けた妻女。お前の如き脆弱な人形が、鬼神の寵妃へ手出しなぞ叶うと思うたか……愚か者めが! 寝首をかかれる前に、早々に楓を解き放つことだな。また……後宮から出す際、楓の身に傷ひとつでもつけようものなら……貴様の首を醜悪な邪鬼と挿げ替え、魂魄は永久に泥梨ないりへ沈め、七生の宿怨を味わわせてくれるぞ! よくよく肝に銘じておけよ、千歳帝・阿沙陀! 七日以内に必ず楓を帰すのだ!』
 鬼気迫る凶相、魂消たまげる死相……あまりにも衝撃的な鬼神の託宣で、千歳帝は呆然自失。
 絶句したまま、言葉も出ない。黒光る八尺鬼神は、醜貌をゆがめて嗤い、ダラリと長い舌で男の頬をねぶると、疾風怒濤の俊足で、帳台から飛び出した。
 バラバラに打ち砕かれた夜伽の間、放心状態でうずくまる千歳帝。
 寸刻後、ようやく駆けつけた近衛兵や重臣一同は、天子てんしを取り巻く嵐の惨状に、しばし慄然と立ち尽くした。
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