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『食女鬼・前編』
其の七
しおりを挟む沙羅の花弁が夜風をいろどる、夏至の風物詩。
今年も劫初内【至芸舎(演劇舞楽など芸能関係者を司る後宮七舎のひとつ)】より、人形芝居【夜飛白一座】が、菊花殿に招聘された。
【後宮権妻舎】の四花殿を、一年がかりで興行。高級妾妃たちのご機嫌伺いに現れる一座は、人形使いが美男ぞろいで、女御衆を熱狂させた。
彼らが菊花殿を訪れるのは、いつも夏至から盂蘭盆入りまでの間と、決められていた。
『そなた、これほどまでに想い患う儂の真心が、見えぬと申すか? 狂おしい恋慕の情念に、この身が焼け爛れるさまを、見たいと申すか!』
『いいえ、若君は私の至心を、すでにご存知のはず! どうかこれ以上、私を苦しめないで!』
『儂のためだと称しながら、そなたは太子さまの富と権力に与したのだ! 心底、儂を想うならば、貞操を守り、ともに死のうとは考えなんだか!』
『啊、若君……それほどまでに、私のことを!』
『騙されてはいけませぬぞ、若君!』
『実に恐ろしきは、女子の不実!』
『虫も殺さぬ顔をして……女狐め!』
『この色香こそ、すべての悪因!』
『若君を裏切り、色欲にまみれた閨事で、太子さまを虜にしたのじゃ! これこそ、魔魅の所業と云わずして、なんとたとえられましょうや!』
『六道賢師よ、即刻、刀を退け! 雛菊は、我が命! いかに許しがたい姦婦といえども、成敗だけは、まかりならぬ!』
不穏な琵琶の旋律に乗せて、展開される仇討ち情話。
天蓋つきの浄瑠璃専用舞台で、黒幕を背に入り乱れる、三尺強の人形舞台。
黒衣姿の男たちが、巧みに操る人形さばき。
生き生きと千変万化する表情、精密な指先にまで、気を張る不可思議な絡繰仕掛け。
美々しい声色、変拍子、人形芝居は佳境に入り、見守る女御衆の目を釘づけにする。
「素敵ですね、大姐々! 見事な人形使いだわ!」と、感激しきりの声音を発し、振り向いたのは紅葉であった。
五日前まで《阿礼雛》と呼ばれていた白面美少女は、他の女御衆同様、人形芝居一座に、すっかり興奮していた。
ところが、かたわらの上役姐々《楓》は、浮かぬ顔で、人ごみの観劇席を抜け出す。
紅葉は驚き、慌てて彼女のあとを追う。
大詰めを迎えた芝居内容が気にかかり、若干名残惜しかったが、詮方ない。
楓は青ざめた相貌で、足早に舞台から遠ざかり、沙羅の木陰にもたれかかっている。
「大姐々、どうなさったのです?」
「啊、ごめんなさいね、小妹々。少し、気分が優れなくて……けど大丈夫よ。心配要らないわ。舞台観賞を、楽しんでいらっしゃい」
紅葉は、不安そうな眼差しで、楓の横顔を見つめている。すでに人伝の噂で、楓が〝鬼憑き〟の兆候を現し、高名な修験者の加持祈祷で緩解した事実は、聞き及んでいた。
それだけに、紅葉の懸念は増大したわけだ。まだ、後宮入りして五日間ではあるが、ともに過ごす内、紅葉は楓を実姉の如く敬うようになっていた。
「大姐々、お部屋に戻りましょう」
紅葉の甲斐甲斐しい気づかいに、楓も彼女の懸念を察し、苦笑しつつ事情を説明した。
「小妹々、体調ではないの……本当は、あの芝居が見たくなくてね。昔の私を、思い出すから……とても、つらいのよ。ごめんなさい」
「大姐々……それは、一体……?」
うつむく楓に、紅葉はますます顔色をくもらせる。
『たとえ、この身は、太子さまの物になろうとも、どうか……私の心だけは、常にあなたのおそばにあることを、忘れないでくださいね……若君!』
愛する男との、永の別れを嘆く悲痛な女声。
御上たっての希望で、後宮入りを迫られた美しい花嫁人形……まるで生木を割かれるように、愛しい婚約者の元から連れ去られる乙女。
舞台下の女御衆が、悲恋の筋書きに泪をしぼる。
この情話、人形芝居の古典のひとつである。
「大姐々には、婚約者が……?」
紅葉の問いに、楓は無言でうなずいた。
「誰もが望んで、入内するわけではないわ……ましてや、愛する良人以外の男に、身を捧げるなんて……相手がいかに尊い御方でも、つらいことよ……それにここは、恐ろしい伏魔殿だから……小妹々、気をつけなさい。あなたの美貌は、羨望と嫉妬の的。女たちのいさかいほど、陰湿で醜いものはないわ……」
楓の切実な告白に、紅葉は悪寒を覚えた。
同時に、痛々しい悲哀がこみ上げて来る。
「大姐々、私は平気です。ずっとおそばに、いさせてください。私、楓さまが大好きです」
紅葉は、愛しい楓の胸に顔をうずめ、泣き出した。
楓は、健気な美少女の優しさで、目頭が熱くなった。
沙羅の木陰の美姫二人は、衆目を避け、ごく自然に、震える朱唇をかさねていた。
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