鬼凪座暗躍記

緑青あい

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『食女鬼・前編』

其の参

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 翌朝、朱牙天狗しゅがてんぐの姿は、閹官えんかん筆頭を務める老家宰ろうかさい宋寮部そうりょうぶ》の居室にあった。
 しわみ顔白式尉はくしきじょうに、斯様な相談を持ちかけていたのだ。
「実は、だな……これで退散するつもりだったが、もう二、三日……わしをここへ、おいてもらいたいのだ。少しばかり、気がかりなことがあってな」
「気がかり、と申されますと?」
 天狗面聖人の唐突な提案に、宋寮部は不可解そうな表情を作った。
 朱牙天狗は云いよどみ、蓬髪ほうはつ頭をかいた。そして、慎重に言葉を選ぶ。
「うむ……まだ、確証が得られぬゆえ、迂闊に名を出すことはできぬが……もう二、三日ここへ留まって、調べたい女御がいるのだよ」
 朱牙天狗の一言で、老閹官は色めき立った。
「では、まさか……かえでさまの他にも、まだ〝鬼憑き〟が!? それは一大事じゃ! 一体、どこの女御ですか! く、教えてくだされ!」
 瞠目どうもくし、修験者の経帷子きょうかたびらをつかむ宋寮部。
 老臣の激昂をなだめ、朱牙天狗は返答した。
「ただいま告げた通り、まだ確証が得られぬゆえ、名を出すのは、はばかられます。相手の立場も考え、秘密裏に調べた上で邪鬼祓いの祈祷をと……昨夜一晩、深慮した結果です」
 言葉を濁し、朱牙天狗が頭をかかえた時、唐突に寮部居室の板戸が開いた。
 雅な伽羅香きゃらこうを漂わせ、美貌の女御が楚々と入って来たのだ。
「御聖人、わらわへのお気づかいなら結構。宋寮部へ正直に、仔細を話してやってください」
 浅葱あさぎ金欄繻子織きんらんしゅすおり襦裙じゅくん、七宝帯に花菱蘇芳はなびしすおう雲肩うんけん、黒地に乱菊刺繡らんぎくししゅう霞帔かひ牡丹髷ぼたんまげ鼈甲簪べっこうかんざしが見事な【劫貴族こうきぞく上臈じょうろうの出現に、白髪寮部は驚愕、思わずしゃがれ声を上ずらせた。
「これは、菊花大夫きっかたいふさま! 何故、斯様なところに!?」
《菊花大夫》と呼ばれた上臈……昨夜、朱牙天狗と激しい情交をかさねた女は、閹官筆頭に艶然と微笑み、穏やかな口調で語り始めた。
「実は昨夜、湯殿へ向かう途中、御聖人と偶然往き合いましてな。楓の邪鬼祓いで御聖人が魅せた神通力に、いたく感動しておりましたゆえ、妾の方から呼び止めたのです。そこでしばしの間、四方山話よもやまばなしに花を咲かせておりますと、妾の『妹々めいめい』の一人《胡蝶こちょう》が反対側の透廊すきろうを通り過ぎました。すると御聖人、急に顔色をくもらせ、鬼憑きの邪念を感じ取ったと。実は妾も前々から、胡蝶の近頃の言動に……いささか不審をいだいておりました」
 伏し目がちに、菊花大夫は長嘆息を吐いた。
「なんですと!? 《胡蝶》の君に、よもや鬼憑き嫌疑が!? それは本当ですか!?」
 そばでうなずく朱牙天狗の異相を見すえ、宋寮部は腰砕けになった。
 戦慄で、声音まで震える。
 形のよい眉宇をひそめ、美々しい白面はくめんを杞憂にかげらせながら、菊花大夫は話を続けた。
「妾も最初は信じられませんでした。あの娘のことは、菊花殿に上がった日から『妹々』として、ずっと面倒を見て来たのです。でも、朱牙天狗殿の神通力に、妾は全幅の信頼を寄せております。だからこそ、寮部三役の意見も聞いた上で、秘密裏に『邪鬼祓い』を行ってもらいたいと……それが、胡蝶のためでしょう」
 泪ぐみ、目頭を押さえる菊花大夫の深い思いやりに、お人好しな宋寮部は胸を焦がした。
「なるほど、そうでしたか……『大太々たーたいたい』という責任ある立場上、つらい選択を迫られたわけですなぁ……よもや可愛い『妹々』胡蝶さまが、鬼難きなんに見舞われようとは……おいたわしい」と、老臣も泪を浮かべ、しみじみとつぶやき得心した。
 ちなみに、後宮四花舎の妾妃たちには、厳然たる階級があり、舎殿最高責任者を上臈『大夫』、あるいは『大太々』と呼び、次が中臈ちゅうろう姐々じえじえ』、下臈げろう妹々めいめい』、侍女『娘々にゃんにゃん』と呼び分けるのだ。
 つまり、《菊花大夫》と呼ばれる、この美しい女御は、後宮菊花殿を統べる【女帝】だ。彼女の命令とあらば、閹官筆頭《寮部》や御目付役、介添え役や守役、上位内舎人うどねりといえども、従わざるを得ない。
 ここはまさに、女たちが統べる花園……綺羅びやかで、麗しくも毒々しい【伏魔殿ふくまでん】なのだ。
如何いかがでしょう、寮部。この際ですから、菊花殿の女御衆一同を会堂へと集め、疑わしき者すべて、こちらの御聖人さまの加持力で、秘密裏に邪鬼祓いして頂く……と、いうのは」
 身をかがめ、ささやきかける菊花大夫。彼女の言葉に耳朶をくすぐられ、色気も油気も抜けきったはずの老寮部は、何故か、ゾクッと身震いした。
 鼓動が早まり、全身を甘ったるい気色に満たされる。彼女と面する際は、いつもこうだ。
 菊花大夫の玲瓏れいろうな声音は、あらがいがたい魔性を秘めた呪禁じゅごんにも似ていた。
 宋寮部は快諾する。
「承知仕りました。大太々のお心にそえますよう、すぐに取り計らいたいと存じます」
 社殿警護の責任者、《寮部》筆頭老家宰は、他の閹官や侍従長に断りもせぬ内から、菊花大夫の提案を、あっさりと呑んでしまった。
〈この女御、本当に魔障ましょうやもしれぬ……〉
【魔障】とは、国教《真諦教しんたいきょう》において、修行道を阻み、さえぎる「邪まなる者」の総称である。
 二人のやり取りを、傍目で見ていた朱牙天狗は、菊花大夫の篭絡手管に、寒気すら覚えた。
 だが、輝く碧瑠璃の瞳で、菊花大夫に艶然と微笑まれるや、宋寮部同様……朱牙天狗からも、そうした懸念は、綺麗に消し飛んでしまった。
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