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『旅路の果て』
其の九
しおりを挟む「弧堵璽!」
白髪まじりの男は、まちがいなく廃村で出遭った老猟師《弧堵璽》である。さらに、奥の寝所から、見覚えのあるメンツが、次々と茅刈の前へ現れた。
白風靡族若夫婦《龍樹》と《琉衣》……果ては鬼畜と化し、茅刈へ屈辱的な淫行を強いた、風来坊《岱賦》まで!
これでは丸っきり、悪夢の再現ではないか。
茅刈は絶句したまま、言葉も出ない。
なにを、どう考えていいかも判らない。
ただ、呆然と立ちすくむだけだ。
「あら、茅刈さん。ご存知だったの? そう、こちらが弧堵璽さん。それに龍樹さんと琉衣さんはご夫婦でね。岱賦さんは……身形こそ派手だけど、兄とは一番の親友だったのよ」
真魚は屈託なく、怪士四人を紹介し始める。
「また、お遭いしましたな……茅刈殿」
「その節は、どうも」
「なんだか、気恥ずかしいわ」
「悪いねぇ、お愉しみを邪魔しちまって」
四人の顔が、邪悪な殺意にゆがんで見えた。
「こんなことって……啊、嘘だぁっ! 俺はまだ、悪夢の続きを見てるんだぁぁぁあっ!」
茅刈の心は恐慌を来たし、崩壊寸前だった。
凄まじい雄叫びを上げ、ついに我が家からも逃げ出そうとする。
だが振り向けば土間に、もう一人……あろうことか、例の【緇蓮族】だった。
「ああ、啊……な、何故、ここがっ……!」
緇蓮族は無言で六帖間に上がり、偃月刀を抜き払った。渦巻く視界、波打つ世界。《茅刈》を取り囲むすべてが、不自然にゆがみ始めた。頭痛、めまい、吐き気、揺らぐ現実感。
窓の外でたゆたう芒、やけに淋しい月明かり。
「やめろっ……俺に、近寄るなぁぁぁあ!」
背後で含み嗤う怪士四人、前途に黒尽くめの殺手……《茅刈》は完全に往き場を喪った。
残るよすがは唯一人、真魚だけである。
「真魚! 助けてくれぇ! 早く俺を、この悪夢から……連れ戻してくれぇぇぇぇえ!」
茅刈は必死で、居室の隅に佇む真魚へ手を伸ばした。
ところが愛妻の態度は冷酷だった。
「嫌だわ。なにをおびえているの。あなたの昔のお友達でしょう。ねぇ、《茅刈》さん」
あと少しで真魚の体に手が届く……そんな時、真魚の霞帔から唐突に、おびただしい桜吹雪が舞い上がって、茅刈の視界をおおい尽くした。
「真魚っ……真魚ぉぉおぉぉぉぉおっ!」
茅刈は闇雲に両手を動かし、懸命に桜の花弁を振り払った。
せまい長屋は、あっと云う間に桜色の海と化す。
白濁する意識、迫り来る黒い影……いや、白い遺影――男の怒声――打擲と淫虐――愛憎が同居する家――母親の死相――父親の失墜――拳の制裁は幼子へ――消せぬ罪業――追われた故郷――流転のすえに待つ地獄――放浪――孤独――負の情念――終わりなき煩悶――旅路にて――班犬の咆哮――娘の悲鳴――抑えきれぬ激情の顛末――老猟師の恫喝――うなる銃声――血まみれの凶刃――斬り離された左腕――放浪――孤独――負の情念――闇夜の逡巡――冷たい納屋――男女の享楽――閃く稲妻――母の面影――恋情のたぎり――男が叫び――断末魔――裸体――泪――約束は果たされず――迎えた最期は悲壮な決意――放浪――孤独――負の情念――消せぬ傷跡――遭難――山道に一人の男――次なる犠牲者――歯止めが利かぬ――忌地での虐使――白檀香――逆鱗は手綱――男の苦悶が快楽をあおる――黄泉路は近い――六道銭を奪い盗る――放浪――孤独――負の情念――束の間の安息――渓流のせせらぎ――山桜の花弁――静謐な湖水――咽をうるおす澄明な景色――鳥の羽ばたき――木陰の男――画帳を片手に微笑する――散り急ぐ花弁――白く、白く仄霞む――春満開の桜日和――狂気に燃えて近づく殺意――笑顔が消えた――巡礼装――巡礼装――巡礼装――千早――千早。
「俺は、俺は、俺は……奴じゃないんだ!」
――茅刈川、千早振る精神、奔流する、千早。
「俺の名は……ぐわあぁぁあぁぁぁあっ!」
――弧堵璽、龍樹、琉衣、岱賦、緇衣、千早。
狂った過去、病んだ過去、死にぞこないの過去、黄泉還る過去、混乱の渦に激しくもまれ、再燃する激情、暴虐、煩悶、死に神の黒い影。
闇をまとい、死相を隠し、堂々巡りを繰り返す。
頭を押さえ慟哭し、せめぎ合う二つの心。
――黒い掟、愛情、贖えぬ罪、忘却、復活の時、巡礼装、千早、千早、千早、茅刈、死。
常軌を逸した手負いの獣は、地獄の底をのた打ち回り……《茅刈》は到頭、崩壊した。
「貴様らクズが! 寄ってたかって、俺を虚仮にしやがって! 残らず叩っ斬って殺る!」
白面美貌を狂気に染め、茅刈は獣の如く咆哮した。
これまでの、温厚な人柄はどこへやら……不穏な黒衣をひるがえし、過去の死に神を黄泉還らせた殺手は、偶然つかんだ〝なにか〟を振りかざし、ためらうことなく襲いかかる。
相手は弧堵璽、龍樹、琉衣、岱賦――いや、黒尽くめの緇蓮族殺人鬼――のはずだった。
「ぎゃあぁぁぁあっ!」
手応えがあった。悲鳴が上がった。
鮮血がほとばしった。茅刈は我に返った。
目前で、袈裟懸けに斬られ、くずおれて往くのは、巡礼装で身をつつんだ若い劫族男だ。
手から、血染めの画帳がすべり落ちる。
「こ、これは……一体……」
記憶の闇間で見た、あの光景が黄泉還る。
〈貴様ぁ……俺を、描いたのか? 巫山戯るな! 今すぐその画帳をこちらへよこせ!〉
……なにを怒ってるんだい? やめろよ……
――不明瞭な声――
――すれちがう会話――
――つながらぬ心――
〈ワケの判らんことを、ほざくな! 貴様は、聾唖者だな!? だが、その目は晴眼だ! 絵師が、俺の素顔を見た以上、生かしてはおけん!〉
……その格好、君は【緇蓮族】なのか!?……
――邪悪な凶相――
――危険な匂い――
――怒気にゆがむ唇――
〈命乞いなど、無駄だぞ! 覚悟しろぉ!〉
……嫌だ! どうして、殺されなきゃならないんだ! 僕はまだ死ねない! 妹を、一人きりにはできない! 真魚の元へ、帰るんだ!……
――迫り来る死――
――理不尽な殺意――
――閃く偃月刀――
〈ぎゃあぁぁぁあっ!〉
――悲鳴――無慈悲な殺手――斬り裂く凶刃――血だまりで気息奄々――空ろな瞳で見上げる顔は、画帳に描いた美貌の主――黄金の髪と珍しい七宝眼を持し、瀕死の劫族青年を冷ややかに見下ろしている――閉ざされゆく瞼――渓流のせせらぎ――二筋の轍――歩けぬ男の足跡が、春の大地を赤々と穢す――
〈世話を焼かせやがって! 地獄へ堕ちろ!〉
……啊、死ぬ前に、もう一目だけでも、真魚の笑顔が見たかった……いいや、一人で死ぬものか! せめて……お前を、道連れに死んでやる!……
――画帳を抱いたまま投棄される男の体――
――宙に放り出される瞬間――
――最期の力で緇衣をたぐり――
――つかんだ殺手の腕――
――引きずりこむは千尋の谷――
――二つの影が断崖落下――
――ひとつは大地へ死臭を広げ――
――ひとつは茅刈川へ呑まれて消える――
そして今、血まみれの偃月刀をにぎり、呆然と佇む男は、薄暗く、モヤがかったような、視界の覚束なさに戸惑って、己の顔をまさぐった。
「莫迦な……お、俺は……!」
いつの間にか己をつつむ緇衣……漆塗り饅頭笠から、紗の帳幕をむしり取り、床へ落とした男は――かつて《茅刈》と呼ばれた殺人鬼。その遺影である。
記憶を失い、素顔を晒し、唯一絶対『鉄の掟』を破った【緇蓮族】だ。
証の緇衣でつつんだ満身は、上から下まで黒尽くめ。白皙と黄金の髪が、よく映える。
彼はついに、すべてを思い出したのだ。
「ああぁあああぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁあっ!」
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