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『旅路の果て』
其の四
しおりを挟む「人殺しぃぃい! 誰か、助けてくれぇぇえ!」
こけつまろびつ廃村の奥へ。雄叫び上げて遁走する茅刈は、やがて葛篭も捨て去り、四軒ほど先の左側家屋へ、無我夢中で逃げこんだ。
「誰だ! こんな真夜中に!」
「強盗よ!」
「ぐわぁぁぁぁあっ! ちがうぅぅうぅうっ!」
布団を跳ねのけ、棍棒で殴りかかる男。
茶碗や家財類を、次々と投げつける女。
恐怖のあまり、頭を隠して崩れる茅刈。
無人と思われたボロ屋の土間で、展開されるは奇妙な三すくみ……茅刈は、静けさに堪えかねて、恐る恐る頭を上げた。薄暗い土間に白々と、困惑した男女の顔が浮かび上がる。
「ああ、あなたたちは……誰!?」
男女二人は顔を見合わせ、茅刈を睨んだ。
「誰って、それはこっちのセリフだ!」と、男は怒り心頭で、闖入者に棍棒を突きつける。
「あなたこそ誰なのよ! 他人の家に、夜中いきなり押し入って来て……強盗じゃないなら、頭がおかしいの? まさか〝鬼憑き〟じゃないでしょうね! へんな真似すると、刺し殺すわよ!」と、女は震える手で包丁をにぎりしめ、茅刈よりもさらにおびえた声音だ。
茅刈は、お互い勘ちがいしているだけだと気づき、緊迫した現状況の打開に乗り出した。
「お騒がせして申しわけありません! でも私は、強盗でも気狂いでも、ましてや〝鬼憑き〟でもありません! いいえ、むしろ私の方が狂人染みた男に追われ、必死に逃げて来たところで……まさか人が住んでいるとは思わず、この家へ身を隠そうと、取り急ぎ飛びこんだ次第……だから、あなたたちに害意など、まったくいだいておりません! どうか、信じてください!」
一生懸命、誤解だと訴える茅刈の口調にも、男は気を抜かず、棍棒で威嚇し続ける。
その間、女は手燭に火を灯し、近づいて来た。
暗闇に……汗だくで、歯の根も合わぬほど震え、逼迫した男の青白い顔を捉え、男女もようやく得心したらしい。
棍棒を退き、男が問いかける。
「狂人とは、弧堵璽さんのことか?」
茅刈はうなずいた。男女は長嘆息を吐いた。
「ヤレヤレ。相変わらず、人騒がせな御方だ」
男は茅刈の腕を取り、体を支え、上がり框に座らせてくれた。
女は割れた茶碗を片づけ、新しい湯呑に水をつぎ、茅刈へ差し出した。
「ああ、ありがとう……」
茅刈は戸口をうかがい、水を一気に呑み干したが、わずかな風の音でもビクつく有様だ。
「心配ないよ。もう、追っては来ないさ。あの家から外へは、滅多に出ないんだ。彼は不幸な過去におびえているだけの、可哀そうな人さ」
男の口調は、とても穏やかだった。
しかもよく見れば、夫婦とおぼしきこの男女、頭髪が真っ白である。だが、老夫婦ではない。歳は茅刈と、そう変わらない三十前後だ。
廃屋に住む白髪の若夫婦は、【白風靡族】の者だった。生来より白髪で、生涯断髪せぬという、少数部族である。板間の雪洞に灯が入ると、茅刈の心にも二人や周囲に気を配る余裕が出てきた。二人はやはり一族の掟にのっとり、長い白髪を複雑に編み、幾重にもたばねている。衣服も真っ白で、質素な寝巻き姿だ。生活感ある室内は、弧堵璽の家と大差なく、囲炉裏の六間板床に小さな寝所と厨がついている。
厠は外で、住民共用の物らしい。
「あなた、どこから来たの?」
白風靡族の妻女に訊ねられ、囲炉裏脇に端座した茅刈は、遅ればせながら自己紹介した。
「私は薬の行商人で、名は《茅刈》です。南方燦皓からの仕事帰り、道に迷い、ここへたどり着きました。それで人家の灯に釣られ、弧堵璽さんのお宅へ……ところが、話の途中、御老人の様子が急変しまして……鉄鍋には犬の頭が入っているし、弧堵璽さんは山刀で襲いかかって来るし、終いには、火縄銃まで発砲するし……本当に、殺されるかと思いましたよ。しかしそのせいで、お二人には大変なご迷惑を……あらためまして、相すみません」
茅刈は、バツが悪そうに項垂れている。
白風靡族の夫は、そんな茅刈に苦笑した。
「まぁ、とにかく……あなたが悪い人じゃないのは、よく判ったよ。正直ホッとした。けどね、弧堵璽さんだって、根っからの悪人じゃないんだ。不幸な事件で、お孫さんを亡くされてね。それ以来、時々異常な行動を取ったりするけど、普段は真面目で大人しい。犬の肉だって、驚くようなことじゃないさ。【緋幣族】や【曲族】は、元々常食にしてるし、天凱府でも料理屋で出すところが、沢山あるそうじゃないか」
鷹揚に答える男の顔を、茅刈は思わず凝視してしまった。
白風靡族は女系種族で、圧倒的に女性の数が多い。男子の出生率はきわめて低く、ゆえに集落では蝶よ花よと尊重されるが、外界へ出ることは、決して許されないという。
白風靡族の女性なら、天凱府や四方州でもよく見かける。婚期を逃した出稼ぎの女工たちで、大層な働き者だ。そうした事情から、白風靡族の男性を見るのは初めてだったのだ。
「お二人は、どういう経緯で、この廃村に?」
やはり不可解な点はそこだ。茅刈は好奇心を抑えきれず、相手の顔色をうかがいながら訊ねた。柔和で女性的美貌を持す男は、茅刈の疑問を予期していたらしく、莞爾と答えた。
「僕たちは駆け落ち者なのさ。僕は《琉衣》と夫婦になりたい一心で、掟にそむき集落を脱走した。白風靡族は一夫多妻制。これをうらやましがる男もいるけど……好きでもない女を、五人も六人も、無理やり押しつけられて、本当に幸せだと思うかい? 僕には、愛する女性は唯一人で充分だよ……琉衣がいればね」
《琉衣》と呼ばれた妻女は、頬を染め、恥ずかしそうにうつむいている。
あらためて見ると、琉衣はたぐいまれなる美貌の持ち主だった。
白風靡女性独特の太い三つ編みで頭部をおおいつつみ、すっきりとまとめた小顔は、端整で非の打ちどころがない。灰白の大きな瞳、長い睫毛、うるんだ朱唇、鼻筋の通った白面には、シミひとつ、ほくろひとつない。まるで天女か、精霊か……神々しいほどの美しさだ。
男尊女卑の有利な因習を捨ててまで、彼が一緒になりたいと願うのも、無理からぬ話だ。
「私には親兄弟がおりません。そんな娘に、結婚なんて夢だと思ってました。だから《龍樹》に、『一緒に逃げよう』って誘われた時、もう死んでもいいって思えるくらい、うれしかったんです……今は私、とっても幸せよ」
琉衣は夫を《龍樹》と呼び、愛おしそうに寄りそった。彼女の方が年上らしい。仲むつまじい夫婦のノロケに、当てつけられた格好の茅刈だが、これを微笑ましく見守った。
『愛する女性は唯一人で充分』――そう云った龍樹の言葉が、茅刈にもよく判るのだ。愛しい妻女の笑顔、優しさにあふれた立ち居ふるまいが、茅刈の胸をキュッとしめつけた。
〈早く真魚の元へ帰りたい! 朝になったら彼に道案内を頼み、なんとか下山するぞ!〉
茅刈は、白風靡夫婦にすすめられるまま、今夜はここへ一泊させてもらうことにした。
今すぐ外へ出るのは、はばかられた。弧堵璽とは、もう顔を合わせたくない。
親切な龍樹は、茅刈が捨てて来てしまった商売道具の葛篭も、『あとで拾って来てあげるよ』と、約束してくれた。琉衣は空腹の茅刈に、わざわざ山菜料理まで作ってくれた。
食材こそ質素だが、彼女の料理はとても美味い。猛烈な空腹も手伝って、茅刈は残さずに完食した。ひとしきり談笑したのち、話題は再び弧堵璽老人の、悲しい過去へと戻った。
「あの爺さん、一人で大丈夫なのかな。今考えると気狂いって云うより、あるいは痴呆が始まってるのかもしれないよ。だって彼、僕のこと、仇の緇蓮族に似てるなんて云うんだ」
茅刈は、憤然と不満を口にする。龍樹は山葡萄をかじりつつ、またぞろ苦笑をもらした。
「お得意の、悪巫山戯さ。自分が苦しめられたように、誰かを苦しめたくなるんだろうね。犬の頭は……まぁ、確かにやりすぎだろうけど……どうか、許してやってよ、茅刈さん」
「龍樹さんは、優しすぎる。僕は、本当に怖かったんだ……だって、ここへ来る前――」
茅刈はここへ来る前、自分も【緇蓮族】の襲撃を受けたと、話すつもりが云いよどんだ。
すると親切で良心的な白風靡族の夫婦は、何故か顔色をくもらせ、意外な反応を示した。
「僕たちが弧堵璽さんに同情的なのは、似たような経験をしているからだよ……茅刈さん」
「実は、私たち夫婦も過去に【緇蓮族】の男から……酷い目に、遭わされたことがあるの」
「なんだって!?」
茅刈はまたも現れた【緇蓮族】の影に、怖気をふるった。
これも偶然の一致なのだろうか。いや、もしかすると、あの緇蓮族が犯人!?
彼らが固執する『鉄の掟』は、相手を殺すか、伴侶にして集落へ連れ去るまで、決して終わらない。彼らの追跡行は、一生でも続く。
「素顔を……見てしまったの?」
声を震わす茅刈の問いに、龍樹はうなずいた。
「僕は一瞬だけどね。琉衣はあんな近くで長い間、見てたワケだし、よく覚えてるだろ?」
龍樹の放った一言が、琉衣の体を強張らせた。相愛夫婦の間に、気まずい沈黙が流れる。
「それ……どういう意味だい?」
龍樹は、今までの慈愛に満ちた笑顔を、冷酷に研ぎ澄ますと、恋女房の横顔を一瞥した。
「琉衣、君から話す?」
琉衣は泣きそうな顔で、激しく首を振った。
すると龍樹は、ため息まじりに、恥辱で穢れた夫婦の過去帳を、自ら解き明かしたのだ。
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