鬼凪座暗躍記

緑青あい

文字の大きさ
上 下
44 / 125
『旅路の果て』

其の弐

しおりを挟む

 さて、二刻以上は歩いただろうか。
 往けども往けども鬱蒼と、閉塞的な山陰は、茅刈ちがりの体力を殺ぎ、気持ちをなえさせる。
「この分じゃあ、今宵は野宿になりそうだな……あの男が、追って来る気配もないし……中春だから、夜風も温かい。あと、問題なのは……獣の害だ」
茅刈は一人つぶやいた。独語どくごは、彼の癖である。
 いつだったか真魚まおが、こう云った。
『あなたはきっと……孤独な人だったんだわ。独り言が多いのは、話し相手が少なかったせいよ。でも、これからは私があなたの家族。あなたはもう一人じゃないのよ。茅刈さん』
 ずっとそばにいるわ――と、彼女は続けた。
 茅刈の心をつかんだ、決定的な一言だった。
「たとえ、過去の記憶を失っても……真魚と出逢えたことが、俺にとって一番の幸福だな」
 胸に浮かぶ真魚の笑顔が、くじけそうな茅刈の心を力づけた。
 彼女のまぶしい笑顔と優しさに、これまで幾度、救われたことだろう。
 茅刈は、彼の帰りを待つ新妻のために、気を引きしめて、険しい山越えの道と闘った。
 その甲斐あってか、やがて開けた峠に出た茅刈は、眼下の盆地に集落を見つけた。
 暗くて定かでないが、戸数はおよそ五十件弱の、ひなびた隔離村だ。空の水筒に気づいた途端、急に咽の渇きを覚え、疲労困憊していた茅刈は、これこそ〝地獄に仏〟だと思った。
「月明かりのお陰で、見逃さずにすんだ。灯火がひとつも見えないのは、奇妙だが……きっと、夜更けて皆、眠っているからだろう。こんな夜分に起こすのは忍びないが、非常事態だし……なんとか頼んで、一晩泊めてもらおう!」
 茅刈は喜び勇んで、小走りに山道を降った。
 しかし茅刈の気がかりは、集落へ近づくごと、増幅した。
 いや、集落入り口に立ったところで、茅刈のわずかな期待は大きな落胆へ変わった。
「ここは……廃村だ!」
 灯火が見えぬのも道理。集落は無人だった。
 すでに、住民が消えてから、十数年は経ている様子だ。閑散とさびれ、家屋は荒れ放題。
 茅葺屋根かやぶきやねには雑草が根を下ろし、倒壊寸前のボロ屋もチラホラ。荷車は路傍に放置され、卒塔婆そとうばと見まがうさくが、風にあおられ、嫌な軋めきを立てている。
 集落を囲む築地塀ついじべいは、あちこち穴が開き、田畑はすすきに侵蝕されている。
「なんてことだ……折角、ここまで降りて来たのに……井戸も枯れて、一滴の水もない」
 茅刈は虚脱し、その場にくずおれてしまった。疲れた体には、春の夜風も烈々と染み入る。
 茅刈は徒労に辟易し、引き返す勇気も、前進する根気も、完全に殺がれてしまった。
 ところが寸刻後、苦りきった渋面を上げ、長嘆息する茅刈の眼に、信じがたい光景が映った。右側、手前三軒目、支柱こそ若干かしいでいるものの、比較的、傷みが少ない家屋のひとつから、ボゥッ……と、灯がもれたのだ。
  茅刈は吃驚びっくり仰天した。
「まさか……あんな廃屋に、まだ人が?」
 茅刈は足音を忍ばせ、恐る恐る廃屋へ近づいた。障子戸の破れ目から、そっと中をのぞいて見る。そこには、六十なかばとおぼしき老爺ろうやが一人……囲炉裏端で縄靴を編んでいた。
 白髪まじりの髭面で、毛皮背子はいしを着こんだ姿は猟師風だ。奥の土壁には、旧式の火縄銃も立てかけられている。しかし左腕が不自由らしく、なかなか作業がはかどらない模様。
 自在鉤の鉄鍋では、なにかがグツグツと煮えている。
 食欲をそそるいい匂いが、鼻先をくすぐる。
 眼光こそ鋭いが、老爺の所作に荒さや乱れはなく、口元など穏やかに引き結ばれている。
 いささか胡乱うろんではあるが、害はなさそうだ。茅刈は疲労と空腹、人恋しさにあらがいきれず、到頭、この屋の主人を訪ねる覚悟を決めた。
「あの、夜分に、お邪魔致します……」
 茅刈は遠慮がちに、いびつな板戸を開けた。
「誰じゃ!?」
 老爺は突然の来客に、瞠目どうもくして身がまえ、すかさず旧式火縄銃へ手を伸ばそうとした。
 茅刈は慌てて、己の素状を老爺に明かした。
「わっ、私は決して、怪しい者ではありません! 薬の行商人で、《茅刈》と申します! 道に迷い、深山の闇中で難儀していたところ、集落とこちらの家の灯が見えたもので……斯様な夜分、いきなり押しかけ、まことに非常識なお願いとは存じますが……どうか一晩、私を、土間の隅にでも、おいては頂けませんか?」
 あくまで低姿勢、深々ふかぶかと頭を下げる茅刈の真摯な態度は、老爺に好印象を与えたようだ。
 老爺は、葛篭つづらを背負う歳若い行商人の顔をしげしげながめたのち、火縄銃を元の場所へおいた。
「早く入れ」と、つっけんどんな物云いだが、茅刈をボロ屋の中へ招き入れてくれた。囲炉裏端の円座まで、そっとすすめてくれる。
「ありがとうございます! 助かりました!」
 茅刈は板間へ上がり、再び丁寧にお辞儀した。老爺は照れ臭そうに、これをさえぎった。
「やめてくれ。こんなボロ屋に、不釣り合いだ。それに、ここは元々わしの家でもないしな」
 愛想よく笑みこぼす老爺に、ホッと安堵し茅刈は緊張をゆるめた。老爺は茅刈のために、六間四方のせまい室内へ寝床をもうけ、葛篭やあきなばたをおき、近くの清流から汲んで来たという水で咽の渇きも癒やしてくれた。煮上がったら、鍋も食すよう支度を整えてくれた。
 まさに、いたれり尽くせり。茅刈は、感激のきわみだった。
 老爺は《弧堵璽ことじ》と名乗った。茅刈の推察通り、元は猟師だった。
 不幸な事故で、利腕を負傷し、隠棲を余儀なくされたそうだ。以前は東方津陽つばる尾郡あしたれぐん』未開区付近の森で、慎ましく暮らしていたという流れ者だ。四方山話よもやまばなしに花が咲き、だいぶ場がなごんできたところで、茅刈は当初より気がかりだった点を、思いきって聞いてみた。
「弧堵璽さんは何故、一人でこんな山奥に? 身内は、いらっしゃらないのですか?」
 すると、弧堵璽の顔が急に険しくなった。
 茅刈は、不躾ぶしつけに余計なことを聞いてしまったかと、すぐ後悔したが……弧堵璽は、謝る茅刈を制し、己の壮絶な過去を語り始めた。
「身内は、一人おった。十八の孫娘がな。惚れた男の元へ、嫁ぐ前夜に……自害したよ」
「自害……!?」
 茅刈は絶句した。突然の衝撃的な告白に頭が麻痺し、返す言葉が見つからなかった。
 弧堵璽は、誰かに聞いて欲しかったのだろう。
 茅刈の動揺をよそに、かまわず話し続けた。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

バージン・クライシス

アーケロン
ミステリー
友人たちと平穏な学園生活を送っていた女子高生が、密かに人身売買裏サイトのオークションに出展され、四千万の値がつけられてしまった。可憐な美少女バージンをめぐって繰り広げられる、熾烈で仁義なきバージン争奪戦!

【R15】アリア・ルージュの妄信

皐月うしこ
ミステリー
その日、白濁の中で少女は死んだ。 異質な匂いに包まれて、全身を粘着質な白い液体に覆われて、乱れた着衣が物語る悲惨な光景を何と表現すればいいのだろう。世界は日常に溢れている。何気ない会話、変わらない秒針、規則正しく進む人波。それでもここに、雲が形を変えるように、ガラスが粉々に砕けるように、一輪の花が小さな種を産んだ。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

伏線回収の夏

影山姫子
ミステリー
ある年の夏。俺は15年ぶりにT県N市にある古い屋敷を訪れた。大学時代のクラスメイトだった岡滝利奈の招きだった。屋敷で不審な事件が頻発しているのだという。かつての同級生の事故死。密室から消えた犯人。アトリエにナイフで刻まれた無数のX。利奈はそのなぞを、ミステリー作家であるこの俺に推理してほしいというのだ。俺、利奈、桐山優也、十文字省吾、新山亜沙美、須藤真利亜の6人は大学時代、この屋敷でともに芸術の創作に打ち込んだ仲間だった。6人の中に犯人はいるのか? 脳裏によみがえる青春時代の熱気、裏切り、そして別れ。懐かしくも苦い思い出をたどりながら事件の真相に近づく俺に、衝撃のラストが待ち受けていた。 《あなたはすべての伏線を回収することができますか?》

お茶をしましょう、若菜さん。〜強面自衛官、スイーツと君の笑顔を守ります〜

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
陸上自衛隊衛生科所属の安達四季陸曹長は、見た目がどうもヤのつく人ににていて怖い。 「だって顔に大きな傷があるんだもん!」 体力徽章もレンジャー徽章も持った看護官は、鬼神のように荒野を走る。 実は怖いのは顔だけで、本当はとても優しくて怒鳴ったりイライラしたりしない自衛官。 寺の住職になった方が良いのでは?そう思うくらいに懐が大きく、上官からも部下からも慕われ頼りにされている。 スイーツ大好き、奥さん大好きな安達陸曹長の若かりし日々を振り返るお話です。 ※フィクションです。 ※カクヨム、小説家になろうにも公開しています。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

処理中です...