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『旅路の果て』
其の弐
しおりを挟むさて、二刻以上は歩いただろうか。
往けども往けども鬱蒼と、閉塞的な山陰は、茅刈の体力を殺ぎ、気持ちをなえさせる。
「この分じゃあ、今宵は野宿になりそうだな……あの男が、追って来る気配もないし……中春だから、夜風も温かい。あと、問題なのは……獣の害だ」
茅刈は一人つぶやいた。独語は、彼の癖である。
いつだったか真魚が、こう云った。
『あなたはきっと……孤独な人だったんだわ。独り言が多いのは、話し相手が少なかったせいよ。でも、これからは私があなたの家族。あなたはもう一人じゃないのよ。茅刈さん』
ずっとそばにいるわ――と、彼女は続けた。
茅刈の心をつかんだ、決定的な一言だった。
「たとえ、過去の記憶を失っても……真魚と出逢えたことが、俺にとって一番の幸福だな」
胸に浮かぶ真魚の笑顔が、くじけそうな茅刈の心を力づけた。
彼女のまぶしい笑顔と優しさに、これまで幾度、救われたことだろう。
茅刈は、彼の帰りを待つ新妻のために、気を引きしめて、険しい山越えの道と闘った。
その甲斐あってか、やがて開けた峠に出た茅刈は、眼下の盆地に集落を見つけた。
暗くて定かでないが、戸数はおよそ五十件弱の、ひなびた隔離村だ。空の水筒に気づいた途端、急に咽の渇きを覚え、疲労困憊していた茅刈は、これこそ〝地獄に仏〟だと思った。
「月明かりのお陰で、見逃さずにすんだ。灯火がひとつも見えないのは、奇妙だが……きっと、夜更けて皆、眠っているからだろう。こんな夜分に起こすのは忍びないが、非常事態だし……なんとか頼んで、一晩泊めてもらおう!」
茅刈は喜び勇んで、小走りに山道を降った。
しかし茅刈の気がかりは、集落へ近づくごと、増幅した。
いや、集落入り口に立ったところで、茅刈のわずかな期待は大きな落胆へ変わった。
「ここは……廃村だ!」
灯火が見えぬのも道理。集落は無人だった。
すでに、住民が消えてから、十数年は経ている様子だ。閑散とさびれ、家屋は荒れ放題。
茅葺屋根には雑草が根を下ろし、倒壊寸前のボロ屋もチラホラ。荷車は路傍に放置され、卒塔婆と見まがう柵が、風にあおられ、嫌な軋めきを立てている。
集落を囲む築地塀は、あちこち穴が開き、田畑は芒に侵蝕されている。
「なんてことだ……折角、ここまで降りて来たのに……井戸も枯れて、一滴の水もない」
茅刈は虚脱し、その場にくずおれてしまった。疲れた体には、春の夜風も烈々と染み入る。
茅刈は徒労に辟易し、引き返す勇気も、前進する根気も、完全に殺がれてしまった。
ところが寸刻後、苦りきった渋面を上げ、長嘆息する茅刈の眼に、信じがたい光景が映った。右側、手前三軒目、支柱こそ若干かしいでいるものの、比較的、傷みが少ない家屋のひとつから、ボゥッ……と、灯がもれたのだ。
茅刈は吃驚仰天した。
「まさか……あんな廃屋に、まだ人が?」
茅刈は足音を忍ばせ、恐る恐る廃屋へ近づいた。障子戸の破れ目から、そっと中をのぞいて見る。そこには、六十なかばとおぼしき老爺が一人……囲炉裏端で縄靴を編んでいた。
白髪まじりの髭面で、毛皮背子を着こんだ姿は猟師風だ。奥の土壁には、旧式の火縄銃も立てかけられている。しかし左腕が不自由らしく、なかなか作業がはかどらない模様。
自在鉤の鉄鍋では、なにかがグツグツと煮えている。
食欲をそそるいい匂いが、鼻先をくすぐる。
眼光こそ鋭いが、老爺の所作に荒さや乱れはなく、口元など穏やかに引き結ばれている。
いささか胡乱ではあるが、害はなさそうだ。茅刈は疲労と空腹、人恋しさにあらがいきれず、到頭、この屋の主人を訪ねる覚悟を決めた。
「あの、夜分に、お邪魔致します……」
茅刈は遠慮がちに、いびつな板戸を開けた。
「誰じゃ!?」
老爺は突然の来客に、瞠目して身がまえ、すかさず旧式火縄銃へ手を伸ばそうとした。
茅刈は慌てて、己の素状を老爺に明かした。
「わっ、私は決して、怪しい者ではありません! 薬の行商人で、《茅刈》と申します! 道に迷い、深山の闇中で難儀していたところ、集落とこちらの家の灯が見えたもので……斯様な夜分、いきなり押しかけ、まことに非常識なお願いとは存じますが……どうか一晩、私を、土間の隅にでも、おいては頂けませんか?」
あくまで低姿勢、深々と頭を下げる茅刈の真摯な態度は、老爺に好印象を与えたようだ。
老爺は、葛篭を背負う歳若い行商人の顔をしげしげながめたのち、火縄銃を元の場所へおいた。
「早く入れ」と、つっけんどんな物云いだが、茅刈をボロ屋の中へ招き入れてくれた。囲炉裏端の円座まで、そっとすすめてくれる。
「ありがとうございます! 助かりました!」
茅刈は板間へ上がり、再び丁寧にお辞儀した。老爺は照れ臭そうに、これをさえぎった。
「やめてくれ。こんなボロ屋に、不釣り合いだ。それに、ここは元々儂の家でもないしな」
愛想よく笑みこぼす老爺に、ホッと安堵し茅刈は緊張をゆるめた。老爺は茅刈のために、六間四方のせまい室内へ寝床をもうけ、葛篭や商い旗をおき、近くの清流から汲んで来たという水で咽の渇きも癒やしてくれた。煮上がったら、鍋も食すよう支度を整えてくれた。
まさに、いたれり尽くせり。茅刈は、感激のきわみだった。
老爺は《弧堵璽》と名乗った。茅刈の推察通り、元は猟師だった。
不幸な事故で、利腕を負傷し、隠棲を余儀なくされたそうだ。以前は東方津陽『尾郡』未開区付近の森で、慎ましく暮らしていたという流れ者だ。四方山話に花が咲き、だいぶ場がなごんできたところで、茅刈は当初より気がかりだった点を、思いきって聞いてみた。
「弧堵璽さんは何故、一人でこんな山奥に? 身内は、いらっしゃらないのですか?」
すると、弧堵璽の顔が急に険しくなった。
茅刈は、不躾に余計なことを聞いてしまったかと、すぐ後悔したが……弧堵璽は、謝る茅刈を制し、己の壮絶な過去を語り始めた。
「身内は、一人おった。十八の孫娘がな。惚れた男の元へ、嫁ぐ前夜に……自害したよ」
「自害……!?」
茅刈は絶句した。突然の衝撃的な告白に頭が麻痺し、返す言葉が見つからなかった。
弧堵璽は、誰かに聞いて欲しかったのだろう。
茅刈の動揺をよそに、かまわず話し続けた。
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