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『鬼憑き』
其の七
しおりを挟む夜の白み始めた天凱府、東方持国区弥陀門町は『茂埋宿』外れ。
民家のほとんどない森陰に、ひっそりと小さな社殿が建っている。
朽ちて寂れて草棘はびこる境内は、数日前、元宮廷料理人の惨殺死体が発見されてより、参詣する者がめっきり少なくなっていた。鬱蒼と生い茂る木々の風、枝葉を揺らす鳥、闇中ですだく虫の声音が、やけにうるさく感じられるほど、辺りは閑散と静まり返っている。
そんな暗い森陰に一人佇む男。辺鄙な荒れ寺には場ちがいな、長袍礼服姿が清雅な男だ。
縹色の絹衣がよく似合う、高家出身の青年官吏風で、腰帯には玉佩五条を提げている。
この男、眉目秀麗な白面だが、先刻、聖戒王家を訪れた『ニセ中将』の使鬼に、そっくりだった。いや、彼こそ本物の《羽曳里中将》なのだ。
彼は周囲を気にしつつも、ここである人物を待つ間、深沈と物思いにふけっていた。
文月の沙羅に負けまいと、季節外れの狂い咲き。舞い散る桜花が呼び覚ます夢……それは、劫初内の後宮百花苑で催された、春の園遊会での、甘く忌まわしい記憶であった――。
『まさか、そのようなことが……いや、きっと狂れ病が云わせた他愛もない妄言。美甘殿お得意の、悪巫山戯に相違ない。そうだ、莫迦莫迦しい。案ずるに及ばぬ。早く忘れよう』
劫初内『巽区』の目抜き通りを、網代の御所車が往く。
内舎人十五の小行列が、おごそかに進む穏やかな純乾、桜花舞い散る宵の口。
恋火月の仄白い灯が、皓々と差しこむ網代車の中におわすのは、武礼冠に黒紋絽の式服をまとった青白い顔の美青年……鼻筋の通った端整な白面を、憂いにかげらせ、うつむくのは、禁裏近衛府『聖武師団』の羽曳里中将である。
園遊会からの帰途、彼はずっとふさぎこんで、先刻、宴の最中で交わした、婚約者・美甘姫とのやり取りを、悶々と思い返していた。
《……羽曳里殿、すまぬが此度の婚儀、わらわは受け容れるわけにまいらぬ。何故ならば、わらわにはすでに、これと決まった夫がおわすのじゃ。これがあまりに嫉妬深いので、わらわもホトホト困っておる。わらわに近づく男は、誰でもかまわず喰い殺すとな、牙をむき、角を出しては怒るのじゃ……》
愛くるしくも、童女の如き残酷さを発揮して、深池の宝魚に、手折った枝を突き刺す美甘姫の笑顔……車付きの従者がかかえる玻璃の手水鉢で、小さな水音を立てた翡翠の宝魚。
はがれかけた鱗で、煌々と月光をはじく。
『くだらん。悩むほどのことか? 相手は姿こそ天女の如き美姫ではあるが、七つの童女となんら変わらぬ憐れな病持ち。しかも聖真如族《聖戒王家》の、れっきとした血筋……』
《……わらわが七つの時分より、決まっていた婚礼。今更こばむことはできぬ。ととさまは、ついに認めてくれなんだが、疾うに結納まで交わした仲じゃ。二世の契りをかさねるは、不義に当たるゆえ、羽曳里殿には是非とも身を引いて頂きたい。さもなくば、あなたさまのお命に関わりますぞ。わらわの夫は、いささか気性が荒い……》
眦を朱に染め、夢見心地でつぶやく美少女。
大輪の牡丹が咲きこぼれる垣根で、人目をはばかり、美甘姫の細腰をつかんだ羽曳里。
帯を解く手をスルリとかわし、美少女は悪戯っぽく微笑んだ。
たなびく領巾からは、気高く薫る沈水香。薄紅色の花弁が、艶姿を散らす。
美甘姫は魅惑的にうるんだ瞳で、何故か常々両掌をおおい隠す、白い手套を脱ぎ捨てた。
露になったのは、恐るべき負の烙印。 邪気を孕んだ、禍々しい逆神璽【卍巴鬼業印】だ。
《……羽曳里殿、とくとご覧なされ。この通り、固く契り交わした証もある以上、是非もない。壊劫穢土より嫁取りに遣わされた家臣五人が、いつでも目を光らせておるゆえのう。一角が【卒塔婆鬼】、二角が【嬲夜叉】、三角が【月垢離般若】、四角が【刃顰羅刹】、そして筆頭の角無しが【神々廻不動】……わらわを【卍巴四鬼神】への奉げ者にするため、不貞を働かぬよう、見張っておるのじゃ。ホレ、今も炯々と、そなたを睨んでおりまするぞ……わらわの影の内にてのう。泥梨の五殺鬼は、執念深いぞえ……》
『しかし、言は左右にできたとて、あの左掌の卍巴鬼業印……悪巫山戯にもほどがある! いや、あれは描いた物ではなかった。入れ墨でも、焼き鏝でもない。掌の内側に埋めこまれたかのような……一時の悪戯で仕掛けたにしては、あまりに巧緻な細工であった。だが〝鬼憑き〟だなぞと……いや、やはりあり得ぬ。そも、あの娘が気狂いの性質であることは、承知していた。狂れ病くらい、聖戒王家との婚姻関係を結べるなら、大したことでない。所詮、美甘は出世のための道具、閨で愉しむための玩具にすぎんのだ。そう割りきっていたが、もしも本当に、鬼憑きであるならば……話はちがう』
羽曳里中将の人知れぬ煩悶は、果てもなく、堂々めぐりであった。高家姫君の気まぐれ、単なる酔狂であって欲しいという密やかな願い……裏腹に、だんだん増幅する疑念と脅威。
どちらが勝るか、苦悩は続いた。
そんな時である。
巽区北方『八象聖地』付近の森陰に差しかかった行列の前を、妖しい影が横切ったのは。
なんとその影……大胆にも御所車の往く手をさえぎり、往来の真ん中に、どっかと腰をすえては、呑気に香炉を焚き始めたのだ。
「無礼者め! 禁裏近衛府が中将君の御所車と、知っての狼藉か!」
「えぇい、邪魔だ! 疾く、どかぬか!」
「それでは手ぬるいぞ! 斯様な不届き者、有無を云わさず成敗してくれる!」
「覚悟はよいか! 物乞い道士め!」
先頭の家臣団が気忙しく抜刀し、取り囲んだ相手は襤褸蓬髪、薄汚い《光明道士》の成れの果てであった。少しも動じず、黒檀の線香をくゆらせ、真言諷経しながら鉦鼓を打つ。
家臣団の激昂を鼻で嗤う道士の不遜な態度は、豪胆と云うよりむしろ狂気の沙汰である。
「つまらぬ下郎など捨ておけ。迂回すればすむことだ」と、御簾越しに家臣団をいさめる羽曳里だったが最早、勢いこんだ若武者の収まりはつかない。
挑みかかる家臣団の土埃が巻き上がり、血風吹き荒ぶ惨劇はまぬがれぬ状況となった。
元々血生臭いことを嫌う羽曳里は、ため息まじりに、決着がつくまでの、ほんのしばしの間を待った。ところが、悠然と線香をかざした物乞い道士。
不気味に伸びる黒烟が、次々と小さな黒い竜をかたどっては、自ら揺らぎ出したのだ。
すると小さな黒竜は、道士に差配されるまま、押し寄せる家臣団の吸気へ、すぅっと忍び入った。黒竜香が侵入した途端、肉薄する家臣団の動きは、ピタリと止まってしまった。
「どうした? もう、すんだのか?」
御所車の外は、水を打ったような静けさだ。
家臣の怒号も、道士の悲鳴も聞こえて来ない。
網代から外をのぞこうにも、辺りは異質な闇に閉ざされ、一寸先すら見えぬ有様だ。
今までにない緊迫感、不穏当な空気が、すでに羽曳里の載る御所車を完全包囲している。
そして、玻璃の手水鉢が砕ける音が響き渡り、羽曳里は咄嗟に、網代の御簾を蹴破った。
「……きっ、貴様らぁ! これは一体、なんの真似だぁ! よもや、トチ狂ったのかぁ!」
絶叫した羽曳里の眼前には、なんと常軌を逸したやぶ睨みで、滂沱の血汗を流し、凶刃を御所車へ向ける、家臣一同の狂態があった。
地べたであえぐ宝魚同様、息も絶え絶え酸欠状態で、小刻みに震える十五人の異様な姿。
その背後では、黒線香から新たな黒竜を生み出し、《光明道士》が満足げに嗤っている。
「……おのれ! 怪士め! 我が家臣団に、なにをしたのだ! ただではおかぬぞぉ!」
白刃を抜き、飛び出そうとした羽曳里だが、己の家臣から容赦ない攻勢を受けて、後陣の奇怪な物乞い道士に、近づくことさえ叶わぬ。
皆、道士の傀儡術に堕ち、正気を失ったのだろう。
とにかく、誰も彼も尋常ではなかった。
さすがに、住劫楽土式武術【五輪の聖】級の達人兵法者である羽曳里も、己の家臣を手にかけることははばかられ、進退窮まった様子で十五人と睨み合う。孤立無援で切迫する。
そこへ突如、横合いから加わった新たな男声が、刺々しい舌鋒で、いさかいを制止した。
「早まりめされるな、羽曳里殿! 名にし負う禁裏近衛府『聖武師団』の中将たる賢君が、斯様に取り乱すとは、見苦しいですぞ!」
小癪な口を利いたのは、《勃嚕唵道士》姿の色黒髭面男であった。
直後、胸の鉦鼓を一打した光明道士。甲高い叩音を合図に、家臣団は糸が切れた操り人形の如く、バタバタと一斉に意識を失い、くずおれてしまった。
同時に、周囲の森陰から続々と姿を現したのは、他十人の道士。通常、邪鬼や悪霊祓いを生業とする【十二道士】の面々が、妖術を用い勢ぞろいして不埒な悪行に出るとは、呆れて開いた口がふさがらぬ。円陣を組む十二道士は、喜色満面である。
「貴様ら……何者なのだ! ただの道士ではあるまい! 正体と、蛮行の目的を明かせ!」
すると、前へ進み出た《霊命道士》が、菅笠の垂れ布を外し、羽曳里をさらに震撼させた。
「久方ぶりだな、鳳太子。儂だ、峻鸞だ。養父母の元、立派に成長し、出世したからとて、よもや実父を、忘れてはおらぬだろうな?」
柔和で上品な壮年の男は、驚くほど羽曳里に面差しが似ていた。
青白く頬がこけてはいるが、目鼻立ちの整った端麗な顔は、上臈の紳士然としている。
それも道理、霊命道士に身をやつした羽曳里の実父は、劫貴族の元高官。
十年前、聖戒王に鬼憑き嫌疑をかけられ失脚した、当時の左右衛大臣《憲武王》なのだ。
「……そ、そんな莫迦な……父上! あなたは十年前、流刑に等しい左遷先で、自害し果てたはず! それとも私は……夢を見ているのか?」
混乱して、刀を取り落とす羽曳里中将。
息子の成長ぶりに、目を細める峻鸞太傳は、穏やかな口調で今一度、彼の幼名を呼んだ。
「鳳太子よ。死んだというのは、世間の目をあざむくための嘘だ。儂はこの通り、元気に生きておるぞ。そして今では、儂を見捨てた【真諦教】に見切りをつけ、こちらにひかえる【降魔教道士】のお歴々と、行動をともにしておる」
後方の【降魔教】道士十一名は、羽曳里中将に敬意を表し、拱手で礼を尽くしてみせる。
「嘘だ……こんなこと、信じられない! 何故ですか、父上! 【降魔教】は禁忌の邪教として、神祇府から激しい弾圧を受けている最中です! 彼らの教義は、はっきり云って危険思想だ! それを承知で父上は……いいえ、なにより、あなたがニセ者でも、幻でもないなら、しかと真意のほどを仰ってください! 今になって何故、斯様に横暴なふるまいを? 今更、私に……なんの用があるのです!」
困惑する息子に対し、峻鸞太傳と【降魔外道】が告げたのは、驚くべき謀略だった。
散り急ぐ桜花の下でこの夜、十年ぶりに再開を果たした父と息子。さらに、謎めいた降魔道士との邂逅。これがのちのち、悲劇の火種になるとは誰知ろう。
そしてこと、ここに到る。
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