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『鬼憑き』
其の五
しおりを挟む同刻限、大湖の対岸に建つ聖戒王家本邸の上客間では、唐久賀がジリジリと冷や汗をかきながら、訪れた賓客のあつかいに窮し、手間取っていた。
「……それゆえ、取り急ぎ真偽のほどを確かめたいと、斯様な夜分に無礼を承知で馳せ参じた次第。たかが噂、心ない放言と聞き流せばいいものを、若輩ゆえに……また、美甘殿を想えばこそ聞き捨てならず……ただの誹謗中傷なら、どうぞこの場で不束者と、愚息を打ちすえてください。私も姫の名誉を穢した奸賊を、決して捨ておきには致さぬ所存です」
元結髷に皇帝玉璽を戴いた前立物の武礼冠、縹色の長袍に玉佩五条を提げた七宝帯、色白く眉目秀麗で、凛とした居住まいの美青年は、禁裏近衛府・聖武第二師団の若き統率者。
そんな、高家重鎮【劫貴族】の賓客が正体は、美甘姫の婚約者《羽曳里中将》である。
未来の娘婿が従者三人を連れただけで、夜分人目を忍び急遽来訪したわけ――それは、彼自身が真剣な眼差しで訴えた通り、すでに神祇府官吏の間でささやかれていた「美甘姫ご乱心は鬼業の報い」との噂に対し、真偽を直接、父王から聞き出したいためだった。
上位高官であり、いずれは女婿となる相手だけに、迂闊な発言はできず、おざなりにあしらうこともできず……かといって、動揺のあまり、今宵の大事を悟られてもまずい。
唐久賀は、はやる鼓動を必死に抑え、平静を装い微笑んだ。
「不束者と思いはしても、打ちすえるわけにはまいりませんな。よもや中将君にまで人伝の出放題を鵜呑みにされては、二世の契りを心待ちにする娘ともども、残念でなりませぬぞ」
少々力みすぎた云い回しではあったが、これを聞いた中将、ハッと顔色を変え低頭した。
「申しわけありません。私の出すぎた妄信、平にご容赦ください。しかし、ただいまの父君のお言葉で、胸のつかえが消えました。神祇大臣聖戒王のご息女が鬼憑きだなどと、まかりまちがってもあろうはずなき戯言。それを一時なりとも真に受け、取り乱した我が身の愚かしさ。美甘殿に顔向けできませぬ。お恥ずかしい限りです」
目を伏せ滔々と詫びる中将の饒舌さに、唐久賀が小さな疑念をいだいたのは、その時だ。
本来、口数少なく思慮深い中将の言動にしては軽率で、セリフじみた云い方も鼻につく。
だが、どこからどう見ても、まがうかたなき羽曳里中将の姿形。声も普段と同じだ。
まさかと思いつつ、唐久賀は話題を変えた。
「時に、中将君。翡翠はあのあと、どうしたかな? 春の園遊会にて美甘が捕らえた、アレのことですよ。傷もすっかり癒えた頃でしょう」
「はい。今では元気に飛び回っております」
「……ほぅ、飛び回って、喃……」
これにて唐久賀の疑念は、一層強まった。
翡翠とは鳥でなく、百花苑の深池に泳ぐ翡翠色の宝魚である。
美甘が悪戯に枝先で突き、傷つけたのを中将が憐れみ、持ち帰った経緯は、唐久賀も含めて、彼ら三人しか知らぬ秘事。唐久賀は、胡乱な瞳で中将を凝視する。
中将は恥ずかしそうにおもてを伏せて、再び頭を垂れる。
けれどその直後、次の間の家臣から衾越しに受けた注進が、疑念を確信づけた。
「上、実は……中将さまのお使者を名乗る者が、ただいま外に。妙な話ですが……中将さまは激務の過労が祟り、明後日の姫君との謁見、叶わぬほど体調を崩されたとか……そのむね綴った侘び状を届けに、参上仕ったと、これを……」
隙間から書状を差し入れ、訝しげに中将を一瞥する家臣は、唐久賀に促され、そそくさと退席した。驚愕をひた隠し、書状に素早く目を通した唐久賀は、慄然と凍りついた。
まだ目前で平伏する怪士を、一心に睨む唐久賀……到頭、書状を投げつけ、絶叫した。
「貴様、何者だ! 中将などとは、真っ赤な偽り! よく似せたニセ者であろう! 今一度、おもてを上げよ! 目的を……いや、正体を現せ!」
『……哈哈哈』
おもてを伏せたままの中将が、途端に不気味な声で嗤い出した。陽炎の如き妖気が、全身から立ち昇る。唐久賀は、その声に聞き覚えがあった。慌てて床の間の御神刀をつかむ。
「き、貴様……まさか!」
ぽとり……と、怪士の顔から中将面が落ちた。
『今一度、面を上げよ……とな? 聖戒王唐久賀。貴殿が見たいのは……こんな顔か?』
上体を起こした怪士の顔を見るや、唐久賀は絶句した。赤黒い肌に金色の凶眼、鋭い牙をむいた醜貌は、まさに四日前、聖戒王家別邸を来訪した使鬼《嬲夜叉》にまちがいなかった。一気に解けた元結髷が、緋色の蓬髪に変じ揺らめいて、彎曲した二本角まで現れる。
「おっ、お前は……あの晩の!」
表情を強張らせ、あとずさる唐久賀を、ユラリ立ちはだかった《嬲夜叉》が嘲嗤う。
『王よ、月齢満願は今宵と先に告げたはず。今少し早く、娘を見舞うべきだったな。永訣を惜しむ猶予くらい、与えてやれたものを……』
「おのれぇ! 穢らわしい邪鬼めがぁ! たとえ、儂の命に代えても、可愛い美甘を、鬼神になぞ渡さぬぞぉお! 覚悟しろおぉぉお!」
抜刀し、使鬼に挑みかかる唐久賀。
彼の切っ先を受け止めたのは、使鬼に追従して来た三人の家臣であった。
華奢な体がパックリ裂けて、血飛沫が天井まで噴き上がる。
すると嬲夜叉は、口から大量の花弁を吐き、辺りをかすませた。
唐久賀は、またも遁術に弄され、花弁に視界をさえぎられ、滅茶苦茶な剣舞を踊り続ける。狂ったようにわめき、繰り出す切っ先が、無闇に障子や衾を斬り裂いていく。
騒ぎを聞き、駆けつけた家臣一同は、あまりの惨状に驚倒した。客間の床一面に広がる、血の海と桜の花弁。血刀をにぎったまま、呆然と立ちすくむ聖戒王。
そして、斬殺された使鬼の従者は――憐れ四日前に『結納代わり』と連れ去られて以来、行方知れずとなっていた新入り侍女三人の、変わり果てた屍骸であった。
勿論、使鬼の姿は疾うにない。
ただ、残された中将面が、そんな聖戒王の狂態を嘲嗤うかの如く、白々と見上げていた。
「上……こ、これは、一体……!?」
家臣たちの問いかけに、ようやく正気を取り戻した唐久賀。
血まみれで震えながらも、瞳だけ憎悪に燃え立たせ、中将面を断ち割った。
間をおかず、家臣たちに、しゃがれ声で厳命する。
「美甘の身が危ない! 武官家臣一同、抹香宗僧兵団、兵部剣聖連まですべて召集しろ! 鬼業が祟る前に、疾く離宮へ向かうのだ!」
物々しい戦支度の武士団を乗せた船が、大挙して離宮にたどり着いた時、彼らがそこに見たのは、まさに死臭酸鼻な地獄絵図であった。
御殿の到るところ朱に染まり、肉片こびりつき、散乱する屍骸はどれも元の姿形を留めていなかった。生き残ったわずかな者も最早、まともな人心を持ち合わせてはいなかった。
奇声を発し、床を転げ回る者、血をすくっては、裸体になする者、屍肉を喰らい嗤う者、野獣さながら四足で這い、人目もはばからず交合する者……そして死臭にまじり、離宮を満たす甘ったるい香烟……唐久賀の嗅覚を突き、忌々しい四日前の記憶を黄泉還らせる。
使鬼の残り香だ。
「非道い……これは、あまりに酷すぎる……」
愕然と目を見開き、戦意喪失する武士団。
悲惨な様相に堪えきれず、あちこちで嘔吐する屈強な男たち。
しかも、奥へ向かうほどに凄惨さは増し、死屍累々で足の踏み場もない。
「美甘……どこだ、美甘よ! 返事しろぉ! 隠れているのか! 雅奄居士! 天幻坊!」
唐久賀は、不甲斐ない家臣たちをかき分けて、鴬張りの回廊を進み、奥の寝殿から、大湖に面した桟敷へひた走る。そうして、かまわず遺骸を踏み散らし、気の狂れた官人たちを突き飛ばし、血まみれの桟敷を飛び越え、八角堂へ続く太鼓橋を渡った時――。
「おぉ……舜啓坊! 生きていたか! しっかりせい! なにがあったか、話すのじゃ!」
半壊し、かたむきかけた八角堂の中央に、一人無傷で横たわる舜啓坊を見つけ、唐久賀が抱き起こした。釣殿は閑散として鬼灯篭は消え、鬼神も、雅奄居士も、天幻坊も、なにより肝心な美甘姫の姿さえなかった。ただ、湖面にユラユラと浮かぶ屍骸が二つ。
舜啓坊の侍従、若沙弥二人の、無惨な末期が姿だった。
返り血で穢れた神体画、床一面に走る裂傷、砕けた支柱の木片、千切れた注連縄、まざり合う五彩色顔料、崩れた護摩壇でくすぶる蛍火。ここが、甘ったるい香気の出所だ。
「舜啓! 起きろ! 死んだのか!?」
唐久賀に激しく両頬を叩かれ、やっと覚醒した舜啓坊。
取り囲む武士団から、安堵のため息がもれる。
だが突然、八角堂の梁がきしみ、屋根瓦を次々と滑落させた。
四本に減った支柱が、天蓋の重みでたわみ始めたのだ。
「危ない! 倒れるぞ! 全員退避!」
逸早い武士団の号令で、間一髪。皆が桟敷に避難した直後、八角堂は凄まじい轟音を上げて倒壊した。暗い湖中へと呑みこまれる。信じがたい光景に、唐久賀も武士団も呆然自失。しかし桟敷へ降ろされた舜啓坊は、巨体を縮めて、歯の根も合わぬほど震え出した。
「舜啓! 美甘はどこだ! 疾く話せ!」
すると舜啓坊は唐久賀の足元に平伏し、いきなり近場の小刀で、己の咽を突こうとした。
「早まるな! 愚か者!」
すかさず唐久賀に叩き落とされ、舜啓坊は血糊の床に頭をすりつけ、わぁっと号泣した。
「申しわけありません、聖戒王君! 大事な姫さまを、お守りすることも叶わず……私一人だけおめおめと、生き永らえたるこの不始末! 最早、許して欲しいなどとは、云いません! その代わり、どうか今すぐ……私に姫さまのおあとを、追わせてください!」
身をよじり泪にむせぶ舜啓坊の言葉から、美甘姫の死を悟った父王の衝撃は大きかった。
ワナワナと唇を震わせる。けれど真相を知るまで、希望は捨てきれない。
聖戒王は胸に迫る脅威を懸命に抑圧し、唯一の生き証人を、厳しく叱咤する。
「死ぬのはまだ早い! 美甘の身になにが起きたのか、冥加山の聖人たちはどこへ消えたのか、ことの顛末すべて話すが先決だぞ! お前の処分は私が決める! 勝手は許さん!」
聖戒王の逆鱗に触れ、覚悟を決めた舜啓坊。一同の前に端座し、武士団から渡された気付けの閼伽を呑むと、驚愕の内容を語り始めた。
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