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『鬼憑き』
其の壱
しおりを挟む……えぇ、そうでございます。都人の噂にたがわず、美甘姫さまの美しさといったら、それはもう……疑う余地なく宮中随一。いいえ、住劫楽土広しといえども、二人といない麗しさでしょう。しかも神祇大臣《聖戒王》君のご息女であられ、今をときめく禁裏近衛府の羽曳里中将さまと、ご婚約なさったばかり。中将さまは左右衛大臣《憲武王》君のご子息で、家柄も申し分なく、なにより絶世の美姫に見劣りせぬ、評判のお美しい殿方で……私は後宮百花苑で催された園遊会に、料理人としてお呼び頂きました際、お二人おそろいのところを、遠目ながらも拝見致しましたが、内裏雛の如き美男美女。仲むつまじく、本当にお似合いでございました。ただひとつ、惜しむらくは……いや、これはお話しすべきでありませんな……はぁ、悪い噂? すでにご存知でしたか。そうなのです。残念なことに、その噂は真実でした。なに不自由ない高家に生まれ、乳母日傘でワガママ放題、美貌と栄華、人もうらやむ良縁にめぐまれ、すべての幸福を手にした聖なる姫君。けれど惜しむらくは、その心根の病。物心ついた頃から美甘姫さまは、気狂いの性質なのでございます……
【住劫楽土】の首都『天凱府』は、四方区十二門町六十四宿。
国政の中枢機関【劫初内】を、内堀四門・外堀八門が、花弁状に堅守する。
建国の祖【劫族(首都人口の大多数を占める黒髪黒瞳の一般的種族、支配階級は『劫貴族』と尊称)】を主体に発展した巨大な城塞都市は、整然と秩序立って美しく、東方津陽、西方汰汀、南方燦皓、北方玖乃の四方州各地からも、さまざまな他種族が流入。
いろどり豊かな文化伝統が交雑し、さらなる成長をとげた一方、時に犯罪も多発する。
とくに千歳帝《阿沙陀》統治下の戊辰暦は、乱れに乱れた。
緊縮政策や、悪法『百鬼狩り令』の再発布、大臣高官の相次ぐ薨去、たびかさなる不祥事、【真諦教(天帝《摩伽大神》を信仰する一神教)】霊峰『冥加火山』が、百年目の活動周期に入り、【百鬼夜行(神山噴火による大災害、最悪の鬼難)】を迎えたことで、ますます災厄に拍車をかけた凶年である。四方州でも天災や飢饉が猛威をふるい、日照り続きで人心は荒み、不可思議で妖しい鬼騒動が、頻発した三十三年間だ。
そして、天に真っ赤な忌月浮かぶ、六斎日の鬼灯夜。
東方持国区・弥陀門町の『茂埋宿』外れで見つかった、元宮廷料理人の惨殺死体が、至極ありふれた「通り魔事件」として、簡単に処理された戊辰暦十三年、水無月の同日。
天凱府と劫初内を舞台に、国家を揺るがす怪事件の序幕は、静かに開けられたのだ。
その夜、唐久賀は、なかなか寝つけなかった。
過労のせいで、気が昂ぶっているのかもしれない。国家の礎【十王太傳】の一人、神祇大臣《聖戒王》として、日々重責を全うしている六十なかばの老体には、無理もない。
唐久賀は眠りをあきらめ、臥処を抜けて文机に向かった。
そして、どれほど時が経っただろう。
灯火の薄明で、経典『真諦書』に目を徹していた唐久賀は、ふと異変に気づき閨房を見渡した。八帖の居室に漂う妖しい気配……モヤがかったような部屋は、甘ったるい香烟を満たし、不気味に仄めく。すると風もないのに突然、灯火がかき消えて、文机が面する花頭窓へ何者かの影が映った。朱色にゆがむ影だ。唐久賀はあとずさり、驚愕して叫んだ。
「そこにいるのは誰だ! 姿を見せろ!」
唐久賀が息を詰めて見守る中、障子紙から差しこまれた太い指が、ゆっくりと桟に沿った一枚分を裂き、表の怪士の顔をのぞかせた。その顔、人でない。
赤黒い肌に金色の凶眼、鋭い牙をむいた醜貌は、まさしく鬼である。
薄い障子紙を透かして、彎曲した二本角と蓬髪の影が、ザワザワと揺らぎ、うごめく。
「貴様……怪士の分際で、なにを血迷ったか! ここは神祇大臣聖戒王の館! 忌まわしい邪鬼の、さまよい出るところでない! 疾く去らねば、容赦なく成敗してくれるぞ!」
唐久賀は激昂し、床の間の御神刀をつかんで、斬りかかろうとした。
ところが、何故か体に力が入らない。立ちくらみ、大刀をついてくずおれる。
鬼は含み嗤い、地鳴りの如き重厚なうなり声で、唐久賀に恐るべき凶事を告げた。
……我は、【壊劫穢土(地獄、または泥梨とも)】よりつかわされた五殺鬼が一鬼《嬲夜叉》なるぞ。そなたの娘《美甘》を、【冥帝】への捧げ者にするため、参上したのだ……
面妖な鬼の呪禁で、唐久賀の全身から血の気が引いた。顔面蒼白で小刻みに震え出す。
しかし、それも束の間。すぐに、こみ上げる憤怒で顔を紅潮させ、唐久賀は大喝した。
「莫迦を申すな! 云うにこと欠いて、誇り高き【聖真如族】直系《聖戒王》の娘を、地獄の鬼神の妻にだと? 笑止千万! ここまで愚弄されては最早、生かしておけぬ……そこへなおれ! 我が鬼切の名刀で、今度こそ斬り捨ててくれるわ! 覚悟はよいか、外道!」
唐久賀は力を振りしぼり、立ち上がろうとした。だが、またも激しい動悸とめまいに襲われ、果たせなかった。
使鬼は、いよいよ高らかに嗤う。
……美甘は幼年、我らが領域……鬼の『忌地』を穢したことが、あったであろう。その時、我らが同朋より受けた【卍巴】の鬼業が祟り、いずれかくなる運命だったのだ……
窓越しに放言する使鬼。
唐久賀に激震が走った。
「なんだと? それでは……美甘が、右掌から『唵』字を失い、代わりに忌まわしい呪印を受け、狂れ病となったのは……あの時の、鬼業に依ると申すのか! なんという……」
確かに愛娘・美甘には幼い頃、御殿を抜け出し、鬼の忌地で保護された過去があった。
不浄の左掌に呪印を受け、気狂いが発症したのも、その後、間もなくだったと記憶する。
衝撃のあまり、唐久賀の頭は白く麻痺した。
なえた体は、片膝立ちもやっとの有様だった。
しかし、遠のきそうな意識の中、必死でたぐる記憶の向こう側に、無邪気な愛娘の笑顔を見つけた際……唐久賀の瞳からは、ポロポロと大粒の泪があふれ出していた。
……次に鬼灯が満ちる夜、我ら五殺鬼は再び参上する。唐久賀よ……娘をどこに隠しても無駄ぞ。すでに美甘には、別の使鬼が憑いておるゆえ喃。鬼籍の嫁入りまであと四日……さて、今宵は泥梨式結納にのっとり、生娘を三人ばかり頂戴して逝こうか……
障子の向こうで、鬼面は蓬髪を爬虫の如くざわめかせ、耳障りな濁声で嘲嗤う。途端に破れ目から、おびただしい桜の花弁が吹きこんで、唐久賀の全身へまとわりついた。
必死に花弁を払い、消え逝く鬼の妖気を追う唐久賀だったが、いきなりとどろき渡った激しい雷鳴と閃光で、彼の視界は真っ白になった。
唐久賀はついに力尽き、意識を失った。
そして夜が白む頃……寝汗の冷たさで、ようやく目覚めた唐久賀は、まだ気だるさの残る体を慌てて起こし、部屋中を見渡した。だが奇妙なことに、多数の花弁は跡形もなく消え、障子の破れ目も元通りになっている。昨夜の《嬲夜叉》来訪が、まるで嘘だったかのように、そこはいつもの静謐な居室だ。けれど使鬼は、文机に置かれた真諦書に確かな証を残していた。閉じられた革張り表紙へ、はっきり刻印された左旋卍巴の模様。
それは、聖なる右旋卍巴の【神璽】と対極にあり、鬼業を示す【逆神璽】の忌諱印だ。
唐久賀は絶句し、慄然とその場にくずおれた。
聖戒王家として代々神祇職に就く【聖真如族】は、空劫浄土の民【天生/天使】の末裔。
誇り高き天帝の血族として、支配階級【劫貴族】にも尊重され、高位に肩を並べてきた。
そして生来、直系〝聖貴族〟だけが、右掌に『唵』の一字を戴いている。
これこそ、聖真如族が持す神通力、清廉な純血の証なのだ。
当然、唐久賀の右掌にも刻まれている。
愛娘の美甘にも確かにあった。彼女の右掌から『唵』字が消え、代わりに不浄の左掌へ【卍巴鬼業印】が現れたのは、まさしく忌地事件直後だった。妻女《斎酒》を不幸にも喪ったばかりの唐久賀にとって、今も忘れられぬ、美甘七歳時の忌まわしい記憶である。
「なんと、憐れな……美甘よぉ……」
唐久賀は顔をおおい、泣き崩れ、嗚咽した。
年老いてから授かった、唯一人の愛し子の不遇と悲運に、父王の泪は止めどなく流れた。
使鬼が告げた鬼灯夜月齢満願まで、あと四日。
晨明の清々しいそよ風が、無情にも最初の一夜を奪い去っていく。居室に差しこむまぶしい朝陽を、唐久賀は生まれて初めて、泪に暮れた恨めしげな表情で迎えたのだった。
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