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『難破船』
其の参
しおりを挟むさて、寸刻後――、
再び甲板中央の、折れた帆柱のそばに集まって来た一同は、早速、意見を交換し合った。
「船尾に、大穴が開いている……沈まないだけ、奇跡だよ」
「船室は、途中までしか調べられなかった。浸水が激しすぎてな」
「その上、めぼしい物もない。私は、咽が渇いて死にそうだ」
「どうして、沈まないのかしら……尤も、そのお陰で助かっているんだけど……」
「岩礁へ、完全に乗り上げてるからさ。だが、これからが問題だぜ」
「ええ、食料に水、救難用の発煙筒、応急薬や釣具のたぐい……全員で生き抜くため、必要最低限の物資が、ほとんど流されてしまいましたからね……これは、忌々しき事態です」
ガックリと肩を落とす剡鎧。虚脱して座りこむ豪弾。青ざめ頭をかかえる哲魁。
今にも泣き出しそうな陬蘭。仮妻をなだめる峻圭。長嘆息を吐き項垂れる游晏。
それぞれが持ち寄った情報は、絶望的としか云いようのないものだった。
その上、人買い悪党どもが無神経なセリフを放ち、皆の乱気をあおった。
とくに、千尋の乱気を。
「浸水箇所を調べてたらよぅ、危うく鱶に、足を喰われそうになったぜ」
「ああ、ホント危なかったな……娘どもの屍骸で、味を占めたんだぜ、きっと」
「女の肉は、男より脂が乗ってるからな。美味いって話だぜ。試し斬りには向かねぇが」
死んだ娘たちのことを云われ、憤慨した千尋は、悪党へ痛烈な皮肉をお見舞いした。
「あら! 足の一本くらい、食べさせてやりゃあ、よかったのに!」
「千尋姉さん!」
また、千尋が乱暴されるのではないかと、気をもんだ梨緒が、急いで彼女をたしなめた。
そんな千尋を刺々しい目つきで睨み、頭目格の大男・洸漣は、なかば呆れ気味に云った。
「ふん、相変わらず、口の減らねぇ女だな……気の強さだけは、男顔負けだぜ」
その時である。
生存者の面子を、一人一人数えていた豪弾が、眉をひそめてつぶやいたのは……。
「なぁ……一人、足りなくないか?」
ハッと顔色を変える洸漣。笙嗎と喬嶄も、ようやく異変に気づき、周囲を見回した。
「喂! ジジイがいねぇぞ!」
「クソッ! どこ往きやがった!」
「おかしい……さっきまで、俺の後ろを、フラフラ歩いてたのに……」
笈玄老爺と、行動をともにしていた洸漣は、不可解そうに首をかしげている。
「だが……逃げられる場所なんて、どこにも……ああっ!」
腕組みしながら、ふと海面へ目をやった途端、哲魁が素っ頓狂な悲鳴を発した。
それに気づいた千尋が、彼の視線を追い、海面でうごめく巨大な魚影を指差した。
「見て! あそこ!」
欄干につかまり、冷や汗まじりで、ジッと目を凝らし、剡鎧が叫ぶ。
「鱶が……なにかに群がってるぞ!」
「あれは……あの衣服は……」と、横に並び立つ游晏も、恐ろしい光景を目撃、絶句した。
とどめは、豪弾の放ったこの一言である。
「船主の爺さんじゃねぇか!」
確かに、波間で数多の鱶にむさぼられ、おびただしく血を流し、海面を赤く染めているのは、笈玄老爺にまちがいなかった。難破船の上から見守る十一人に、激震が走った。
「まさか……鱶に、喰われちまったのか?」
「そ、そんな……嫌ぁあぁぁぁあっ!」
「大丈夫だ、陬蘭! 落ち着いて!」
「梨緒! 見ちゃダメよ!」
「ああっ……千尋姉さん……」
あまりに残酷な光景に、すっかり血の気が引き、梨緒はその場にくずおれそうになった。
すかさず、千尋が抱き止め、梨緒を帆柱の陰まで連れて往く。そこからなら、海面の惨劇が見えない。だが、この一件によって、皆の逼迫度合いは、一気に増大してしまった。
憐れ笈玄は、貪欲な鱶の群れに、骨までむさぼられ、遺体はついに上がらなかった。
ただ、海面に残されたのは、老爺が着ていた花菱模様の背子の、端切れだけだった。
その夜、難破船の甲板中央で、残った鍋に火を焚き、わずかな真水と穀物類で汁物をこしらえた一同は、皆で少しずつ分け合いながら、海風の寒さから、静かに暖を取っていた。
やがて、不穏な海鳴りに、薄気味悪さを覚えた峻圭が、陬蘭を気づかいつつ口を開いた。
「あの爺さん……誤って足を、すべらせたんだろうか……」
「それは、おかしいな。だって、あの人……船乗りだろ?」
豪弾の意見は、尤もだった。游晏も、うなずいている。
「確かに、熟練の船乗りが、簡単に足をすべらせ、鱶だらけの海へ落下するとは、考えがたいですね……なんだか、とても嫌な予感がしますよ。杞憂なら、いいんですがね……」
「啊、自害か……」と、眉間にシワを寄せる剡鎧。
「ええ。それは考えられますなぁ」と、相槌を打つ哲魁。
「だいぶ自責の念に、駆られていたものね……」と、陬蘭も青白い顔で云う。
すると、おもむろに立ち上がった千尋が、ある人物を指差し、こう宣言した。
「いいえ。私には判るわ」
「千尋姉さん?」
不安げな梨緒を横目に、千尋は洸漣を鋭利な眼差しで睨んでいる。
「あいつが殺したのよ。海へ突き落としたのよ」
彼女のセリフで、甲板上の九人は、一斉にザワッとなった。
「なんだと、クソアマ! まだ、俺にからむか!」
洸漣は、怒り心頭で立ち上がり、千尋へ詰め寄ろうとした。
それでも退かず、千尋は云いつのる。
「だって、あの人がいなくなる直前まで、一緒にいたのは、あんたじゃない!」
「黙れ! よっぽど、痛ぇ目に遭いてぇらしいな! よぉし、叶えてやろうじゃねぇか!」
「上等ね。やってみなさいよ。女を脅すしか能のない、腰抜け男」
千尋の挑発に乗り、洸漣は拳を振り上げた。
と、その刹那――、
「好い加減にしろ! こんな状況下で、争ってる場合じゃないだろ!」
両者間に割って入ったのは、峻圭だった。
豪弾も、さりげなく目を光らせ、武器に手を伸ばし、立ち上がろうとした笙嗎と喬嶄の挙動をうかがう。陬蘭は、おびえるばかり。他の男三人は、呆れてため息をついている。
「そうだ。俺たちは一蓮托生。つまらんもめごとは、やめて欲しいね」
豪弾が、なにげなくつぶやいた言葉に、哲魁が驚き、細い目を大きく見開いた。
「おや、一蓮托生だなんて……異国人にしては、よくそんな言葉を知っていますなぁ」
「何年、ここで暮らしてたと思ってるんだ。八年だぞ? それくらい、覚えるさ」
それから豪弾は、皆の……殊更、いがみ合う千尋と三悪党の顔を見比べ、うそぶいた。
「だが、俺の国じゃあ、こういう状況を、『ラヤムペ・シンタ・モコロ』と云う」
「どういう意味だね?」と、興味津々の剡鎧に問われ、通訳官の游晏が自信満々で答える。
「そうですね……『死の揺籠で眠る』と、いったところでしょうか」
「死の揺籠……この難破船のことか。嫌な言葉だな」
峻圭は顔をしかめ、豪弾の異相をうかがった。
しかし、豪弾の続けた説明により、游晏の面目は見事に潰された。
「いや、意味はそうじゃない。死は老境、揺籠は誕生、眠るは愚暗……つまり、生まれてから死ぬまで眠ってるような盆暗頭とは、『莫迦で話にならん』……と云う意味になる」
これは游晏も、初耳だったらしい。憮然としながらも、持ち前の向学心をあおられ、筆と紙さえあれば、今すぐにでも書き留めておきたい様子だ。剡鎧は、豪快に笑っている。
「哈哈! 中々面白いじゃないか!」
千尋は憤慨、洸漣を無視して、今度は豪弾に詰め寄った。
「なにが面白いのよ! 他人を莫迦にして!」
しかし、豪弾の舌鋒は鋭い。かつ、的確でもあった。
「される方が悪い」
その通りだ。こんな窮状に身を置いてなお、私怨に惑わされている場合ではない。
「千尋姉さん……なんだか、寒気がするわ」
それに、帆柱にもたれかかる梨緒が、突然、体調不良を訴えて来た。
顔色が悪い。かすかに震えている。そのクセ、触れると異様なほど、熱かった。
「梨緒……熱があるわ! どうしましょう……こんなに震えて、可哀そうに……」
千尋はオロオロし、自分の霞帔を梨緒にかけてやったが、それでも震えは収まらない。
さらに千尋は、自分の袖を引き裂き、海水で濡らして梨緒の額を冷やしてやる。けれどそれだけでは、どうにもならず……千尋は我が身を湯たんぽ代わりに、梨緒を抱きしめる。
そんな美少女たちの姿に、胸を痛めたのか、見るに見かねて哲魁が、懐から小瓶を取り出した。蓋を開け、茶褐色の小さな粒を二つ掌に載せると、千尋にそっと差し出した。
「仕方ない。私の常備薬を、分けて進ぜよう」
「なによ、コレ……変な薬じゃないでしょうね?」
だが千尋に、懐疑的な目で見られ、哲魁は気分を害したようだ。語気を荒げて説明する。
「失礼なことを云うな! 私は商売柄、色々な場所へ出向くため、薬は必需品なのだ!」
他の面子は、ヤレヤレと肩をすくめ、『またか』と、首を振っている。
哲魁は、千尋を無視し、高熱でグッタリする梨緒へ、直接、薬を手渡した。
「お嬢さん、心配ないよ。ただの熱冷ましだ。飲みなさい。小粒だから、水も要らんよ」
梨緒は、それを受け取り、危うい手つきで、やっと口の中へ入れた。コクンと咽を鳴らし、嚥下する。梨緒は、わずかに微笑み、哲魁へ「ありがとう」と、礼の言葉を告げた。
千尋も、ホッと安堵し、哲魁のチョビ髭顔を、物珍しそうに見やる。
「あんた……密輸屋のクセに、ちょっとはいいトコあるのね」
「お前さんねぇ……いいトコの御令嬢にしては、ちょっと品が悪すぎるぞ」
哲魁に一本取られ、千尋は顔を紅潮させた。他の面子も同調し、ウンウンとうなずく。
「啊、まったくだ」
「ふふ……」
「へへへ……」
「「「哈哈哈哈哈」」」
妙な可笑しみがこみ上げて来て、ついに皆は、一斉に笑い出した。これを、呆れ顔で睨んでいるのは、少し離れた場所に陣取った人買いの悪党三人組である。皮肉まじりに云う。
「けっ……なにを、なごんでやがる!」
「こんな危険な状況下だってのに……呑気な奴らだぜ!」
「もう、つき合いきれねぇよ! じゃあな!」
そう吐き捨て、唐突に立ち上がったのは、喬嶄だった。
心配になった洸漣が、仲間の腕をつかんで、問い詰める。
「喂、どこ往くんだ、喬嶄」
「小便だよ。一緒に来るか?」と、口端をゆがめる喬嶄だ。
洸漣は舌打ちし、色白肥満漢の【檀族】を、乱暴に突き放した。
「往くか! 莫迦!」
赤毛の【緋幣族】笙嗎は、腹をかかえて笑っている。呑気なのは、結局こちらも同様だ。
けれど、別段気にもかけず、見送りさえしなかった喬嶄が、甲板に戻ってくることはなかった。檀族特有の白檀香だけ残し、喬嶄の姿は、影も形も見えなくなってしまったのだ。
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