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『傷心』
其の拾弐
しおりを挟むそしてこれ以後は、ある夜の、李蒐武官と夜叉面冠者の会話である。
「御老体……婚礼の宴席に、《吉祥参楽天》を招聘したというのは、まことですか?」
「おお、李蒐か。相変わらず耳が早いな。その通りじゃ。若君が喃、婚礼の儀は、盛大かつ清雅に執り行いたいとの仰せゆえ、儂が大君に推挙したのじゃ。実は知り合いに、例の楽師たちと面識ある者がいてな。それゆえ、トントン拍子に話が進み、ホッとしたわい」
「ここしばらく、あの楽師たちの噂を聞かなかったのですが、どうしていたのです?」
「なに、新たな楽曲を作るため、しばし興行を中断し、隠れ家に入り浸っておったそうな。此度の宴席で【九献の言寿】を披露したあと、その新曲とやらも演奏してくれるそうじゃ」
「ほう……それは愉しみ、と云いたいところですが、私はやはり……賛成できませんな」
「ここまで来たら、もうあきらめろ、李蒐。若君の選んだ御妻女じゃ。卑族とはいえ【戴星姫】ならば、この先、必ずや董家に幸福を招いてくれるじゃろう。なにせ【戴星姫】は、天帝君の御落胤じゃから喃。あまり、気をもむな。今日だけは羽目を外して宴を愉しめ」
「……しかし、あの娘の眼差し……前にも御老体と話したように、なにか思いつめているようで、気がかりなのです。嫌な予感がする……悪いことが起きなければいいのですが」
「……憂患は身の毒じゃぞ、李蒐。ここまで来たら、なるようにしかならんわい」
それでも李蒐の心は晴れなかった。愛慕する水沫の方の、血を分けた一人息子・楚白。
彼女によく似た若主人を、下等な種族の娘に横取りされるようで、面白くなかったのだ。
無論、これまでの事件調査で、すでに夜叉面には、彼の気持ちは痛いほど判っていたが、それはそれ。これはこれ。あくまで割り切って、典磨老の役を演じ続ける夜叉面であった。
さて、いよいよ舞台は大詰め、最終章である。
「「「このたびは、晴れの婚礼の席に、お呼び頂きまして恐悦至極にございます」」」
声をそろえて、婚儀の執行役一同に、自己紹介する三人組。
「私は琵琶楽師の《十望》と申します」と、朴澣がうやうやしく頭を垂れる。
「私は簫楽師の《恕雲斎》と申します」と、那咤霧も懇切丁寧に頭を垂れる。
「私は鞨鼓楽師の《瑞寵》と申します」と、一角坊もにこやかに頭を垂れる。
「うむ。よく来てくれた喃、お三方。まずはここの家宰として、主人に代わり礼を云うぞ」
夜叉面扮する典磨老は、口の端を少しだけゆがめ、《吉祥参楽天》へ挨拶した。
そこへ――、
「家宰さま、宴の準備が整いましてございます」
宿喪扮する侍女・樺蓮が、楚々と板戸を開け、入って来た。
これにて、ついに【鬼凪座】全員が出そろい、同じ舞台へ立ったわけだ。
その後の経緯は、先の話で語ったので、簡略に説明だけしておこう。
楚白……いや、青耶に、一過性の劇毒だと伝え、呑ませた薬は、無論、一角坊の仕儀である。あとは騒ぎに乗じて、暴れ出した三楽師を横目に、夜叉面と宿喪が《楚白》を一旦、宴席から遠ざけ、解毒剤を呑ませた上で、李蒐の魔手が迫る前に、蛍拿の元へ急行させた。
……雨の夜さりに聞く声は、
耳朶を震わす哀歌なり……
鳥篭離宮からは、水沫の方……でなく、彼女になりすました琉衣が唄う『夜さりの残夢』が、物悲しく響き渡る。夫である董朱薇は、この時になってようやく、李蒐武官の恋情に気づき、成敗せんとしたが、逆に斬られて負傷。その李蒐は、水沫の方の亡霊に手招かれるまま、自ら命を捨て去り……刹那、凄まじい落雷が鳥篭離宮を直撃し、辺りは真っ白になった。そして青耶は、なかば気を失った蛍拿を、ついに董家から連れて逃げ出したのだ。
それを見届けたのち、【鬼凪座】も、琉衣も、素早く撤収した。
そして次の舞台へ……急がねば、最悪の結果を生む。
けれど朴澣にだけは、判っていた。
いつか、彼自身が座員たちへ話して聞かせた通り、此度の舞台は、ある人物に取って悲劇的な終幕になるのだと……動き出した運命の歯車を止めることは、不可能なのだと……そう、判っていながら、最終舞台へ向かう朴澣の心の内は、陰鬱で、足取りも重かった。
「……蛍拿、蛍拿! しっかりして!」
寸刻後……頬を叩かれ覚醒した蛍拿は、目前の光景に、ハッと息を呑んだ。
なんとそこには、懐かしい異相の天狗面があったのだ。
「う、上……上ぇ!」
蛍拿は身を起こし、夢中で《朱牙天狗》に抱きついた。
が、またも彼女の早とちりだった。
「遅くなってごめんよ、蛍拿。僕は、青耶だ」
蛍拿は男から身を離し、あらためて真っ赤な天狗面を見た。
そしてすぐ、人ちがいだと気づいた。
「青耶さん……!? どうして、ここに!?」
蛍拿は、項垂れたのも束の間、やはり待ち続けた相手だけに、訝りつつも、驚喜した。
「先刻の、毒物騒ぎのお陰だよ。楚白には災難だったけど……ドサクサにまぎれて、例の獄吏が僕を逃がしてくれたんだ。それから、変装して君を探してたら、深池の前で見つけた。父上が斬られ……李蒐が自害して……直後に、物凄い落雷だ……皆、衝撃で昏倒してしまったから、難なく君を連れ出せた。そして、前に話した抜け穴を通り、董家から脱出して来たワケさ。僕たちは、もう自由なんだよ、蛍拿!」
嬉々とした声音で語る青耶に促され、周辺を見渡した蛍拿は、いよいよ吃驚し目を瞠った。広大な丘陵である。朝焼けが美しい緑の草原だ。たまに秋草がチラチラと揺れ、芳しい香りを放つ。綿毛が舞い、虫の声音も心地よい。丘の下には、首都天凱府が一望できた。
「青耶さん……ここは一体……!?」
劫初内に、まだこんな自然が残っているとは、思いもしなかった蛍拿だ。
天凱府との境界線に、堅牢な城壁が見える以上、ここは劫初内のどこかなのだろう。
青耶はおもむろに立ち上がり、ゆるやかな丘陵の上に造られた、石組みの亀甲墓を目指した。こんもりと草棘をかぶり、苔生す墓前にひざまずき、彼は祈りを捧げている。
蛍拿も、ゆっくりと亀甲墓へ近づいた。
「ここは《董家》代々の墓所さ。僕の母上も、ここに眠っておられるんだ……【劫初内】を出る前に、どうしても寄って往きたくてね」
青耶は穏やかな口調で、頭を垂れている。けれど彼の頭髪は、過日逢った際とちがって、綺麗な笄で元結髷にまとめられている。服装も、高価で華々しい、紋絽の礼服長袍姿だ。
蛍拿は、奇妙な違和感を覚え、青耶に話しかけた。
「青耶さん、今日は随分、感じがちがうわ。雰囲気も……なんだか別人みたいよ」と、天狗面を留める鬘帯に、そっと手を伸ばした。一抹の不安が、蛍拿を突き動かしたのだ。すると、青耶は気配に感づいたのか、突然振り返り、蛍拿の明衣姿をしげしげと見つめた。
「それは、君だって……深紅の明衣で身をつつんだ君は、まるでお姫さまみたいだよ」
蛍拿は、無理に微笑んだ。だが、疑念は消えない。
楚白と同じ声、同じ背格好、双子だから当然だよ――と、青耶は以前そう云った。
しかし、焼き潰された顔を見せたくないからと称し、かぶり続けた天狗面に、なにか重大な意味が隠されているようで、蛍拿は胸騒ぎを覚えた。
『戴星印』の神通力がゆえか、彼女の直感は恐ろしいほどよく当たる。白く菱形に抜けた御験が、今ではヒリヒリと痛んでいる。危急の報せだ。蛍拿は、ついに意を決した。
「青耶さん、お願い! 素顔を見せて!」
「なんだって……!?」
仰天し、立ち上がった瞬間、青耶は何故か右足がもつれ、腰砕けになった。
深沓と裾細袴の隙間に、一瞬だが確かに赤いものが見えた。
「怪我をしているの!?」
驚いた蛍拿は、すかさず彼の右足を取り、裾をまくり上げた。
「啊っ……!?」
現れたのは、痛々しい古傷の痕。虎鋏に食われた踝両面の引きつれは、卑族の親切心を踏みにじった男の罪業……その確たる証だ。蛍拿は、居すくまる男の天狗面をはぎ取った。
「……楚白」
男の本名をつぶやいたきり、蛍拿は絶句した。
焼き潰されたはずの素顔は、端整な白面だ。右足首に残る傷跡は、憎い仇が持つ物だ。
蛍拿は、天狗面を取り落とし、あとずさった。
「私を、騙したのね……顔を、焼き潰されたとか、双子の《青耶》だとか、毒を盛られたとか……すべて、私を追いつめるための、嘘!」
《青耶》と名乗った楚白は、恐怖に凍てついた表情で、陳腐な云いわけを始めた。
紋絽の礼服は、大袖衫でおおった下地にすぎない。
彼は、毒で倒れた花婿《楚白》に、まちがいないのだ。
「蛍拿……ちがうんだ! 話を、聞いてくれ! 僕は《楚白》じゃない! 双子と云ったのも、真実だし、君を騙すつもりなんて……全然」
「近寄らないで!」
蛍拿は高髷の華簪を抜き、楚白へ突きつけた。
ワナワナと震えながら、泪目で、楚白を睨む。
「あんたは私を幽閉し、責めさいなみ、人を信じる心までもてあそんだ! 許せない……あんただけは、絶対に許せない! 人非人の外道は、あんたよ! 死んでしまえばいい!」
蛍拿は、華簪を振り上げ、楚白に襲いかかった。
楚白は、彼女の憎悪を避けようともせず、両手を広げ、受け入れた。血飛沫、慟哭。
「蛍拿ぁ! よせぇぇえっ!」
伸ばされた枯枝状触手も、今回ばかりは間に合わず……男は無言で横倒しにくずおれた。
蛍拿は、聞き覚えのある大音声に、再度振りかざした手を止めた。気息奄々……男の頬を一筋の泪が伝う。《董楚白》という暴君には、不似合いな雫が、朝陽を浴びて煌めいた。
「蛍拿……お前」
丘陵地帯の亀甲墓へ、駆けつけた五人組は勿論、【鬼凪座】の鬼業絡繰役者一味である。
返り血に穢れて、放心状態で佇む蛍拿。
鎖骨のくぼみを刺され、瀕死の董楚白。
悲惨な結末を迎えた、花嫁と花婿の姿。
左半身が爛れた悪相琥珀眼の座長《癋見の朴澣》は、そんな二人の終章に、長嘆息をもらした。眉宇をひそめ、鬼業を宿した【手根刀】の左腕触手を、イラ立たしげに断ち切る。
「何故……【鬼凪座】が、ここに……」
蛍拿は、朴澣と立ち並ぶ座員四名を見渡し、気の抜けた声でつぶやいた。朴澣が答える。
「ある男の依頼で、あんたを《董家》から救出する手筈だったのさ。その依頼主こそ……」
「蛍拿は……そんな戯言、信じないぞ!」
朴澣のセリフをさえぎったのは、草原に臥す楚白だった。
怒声とともに、おびただしい血を吐き散らす。今度は正真正銘、彼の命を削る鮮血だ。
「そうだな……董家の《楚白》坊ちゃん」
朴澣は男の心裏を察し、後句を呑みこんだ。
「私を助け出すため……? 誰が、そんな」
朴澣は、煙管を取り出し悠々吹かすと、彼女の足元の、真っ赤な天狗面を指し示した。
「天狗面の男さ」
「それじゃあ……やっぱり、上が!? 後宮菊花殿で鬼女に取り殺されたなんて、嘘だったんだね!? 本当はどこかで、ちゃんと生きてるんだ! ねぇ、そうなんでしょう!?」
蛍拿の表情が、パッと明るくなった。瀕死の楚白など、最早眼中にない様子で、朴澣に取りすがる。朴澣は目をそむけ、軽くうなずいた。彼の視線の先には、楚白がいる。今まさに、黄泉路へ赴かんとする男の、懸命な眼差しが、朴澣に苦しい嘘をつかせたのだ。
「蛍拿殿、せめてもの慈悲心だ……最期くらい、彼を看取ってやっては如何ですか?」
赤毛道服姿の鬼面男《夜叉面冠者》が、穏やかな声音で蛍拿を促すが……彼女の反応は冷淡だった。それも、当然の心情だろう。董楚白は、彼女の肉親、仲間、故郷、自由、貞操……理不尽な幽閉のすえ、大切なものすべてを奪った、憎んでも憎みきれない仇なのだ。
「こんな鬼畜に、慈悲なんか要らない! 早く死ねばいい! そうすれば私は、自由になれるんだ! 同朋の仇討ちを、果たせるんだ!」
蛍拿は、血染めの華簪を、楚白に叩きつけようとした。
それを、【巫丁族】の酔いどれ破戒僧《一角坊》が、素早く押し止めた。
「やめんか、蛍拿! お前さんの気持ちも判るが……この男は本気で、お前さんを!」
一角坊も、それ以上は云えなかった。
蛍拿は、泪をぬぐい、明衣をひるがえし、【鬼凪座】が止めるのも聞かず、丘陵を走り去ってしまった。遠ざかる卑族少女の後ろ姿を、楚白は泪目で見送った。
意識さえも、彼から遠ざかる。
「これで……満足かい? 青耶さん」
朴澣の悲痛な呼びかけに《董楚白》……いや、《青耶》は幽かな微笑を浮かべたようだ。
そしてこれが、《董楚白》の最期であった。
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